姫様の激昂

1.


「っ…はっ……はぁ……っ!!」


 息が苦しい。

 足も痛い。

 視界はずっとグラグラしている。

 今すぐ足を止めて、寝台に飛び込めたらどれだけ幸せだろう。


「……っ!!」


 そう思いながらも、サラは足を止めない。


 理由の一つは、前を行くリーフェが足を止めてくれないから。

 そしてもう一つの理由は、一瞬でも早くハイトに会いたいから。


 謁見の間をリーフェと二人で抜け出してからというもの、リーフェの足は躊躇うことなく前へ前へと進んでいる。『水繰アクアリーディ』の力でハイトの気配をたどるリーフェには、進む先にハイトがいるという確信があるのだろう。


 アクアエリア文官の略礼装である長袍の裾を蹴散らしながら進むリーフェの足は速い。それでもサラがついていけるスピードなのだから、きっとリーフェはサラに気を使いながら走っているのだろう。


 リーフェ一人だけならばもっと早くハイトの元までたどり着けた。サラという存在がリーフェの足を引っ張っている。そう思うと、息が苦しいだけではなくて、別の理由でも胸が苦しくなる。


「っ…!!」


 それでも、行かないわけにはいかない。だからサラは少しでも足手まといにならないように、歯を食いしばって走る足に力を込める。


「……止まって」


 宮殿を抜け、中庭をすり抜け、複雑に入り組む通路を走り抜ける。リーフェが足を止めた時、サラは自分が今どこにいるのかサッパリ分からなくなっていた。


「……恐らく、あそこが宝物室コレクションルームだ」


 通路の角で足を止めたリーフェが視線で通路の先を示す。サラが息を整えながら角から顔をのぞかせると、開けた中庭の先には神殿のような建物が建っていた。階段が設けられた正面入口の左右には歩兵が槍を構えて立っている。それ以外にも見回りの兵がいるのか、直立不動を貫く歩兵達が時折何かに向かって敬礼を返していた。建物の優美さにそぐわない緊張が周囲一帯の空気を支配している。


「ハイトは、あの中にいる」


 リーフェの声にも緊張が漂っていた。眼鏡が取り払われた瞳は、真っ直ぐに建物の入口へ視線を注いでいる。


「……見張りを、なんとか、散らさなきゃ」


 あれだけ走ったのにリーフェは息の一つも乱していない。やっぱり気遣われていたんだと思うと同時に、参謀のポジションで普段あんなにぽややんと天然な空気を醸し出しているくせに案外鍛えているんだなと、どうでもいいことが頭の中をよぎっていく。


 サラは何回も唾を飲み込んで無理矢理呼吸を整えると、首にかかった『詞中の梟ミネバ・ラス・フローライト』を握り込んだ。


 ここまでの道中を『詞繰ライティーディ』の力でしのいできたせいで、心も体もクタクタに疲れているのは自覚している。正直言ってこの状態でさらに『詞繰』を使えるかどうかは分からないが、見張りの兵の目をごまかすためにはサラの『詞繰』が必要なはずだ。


「待って、サラ。ここは僕が引き受ける」


 だがそんなサラをリーフェが引き留めた。


「建物のどこかに、地下へ繋がる階段があるはずだ。ハイトは恐らく、地下のどこかにいる。その『どこか』っていう詳細は、ちょっとここからじゃ分からない。地下に降りたら、とにかくひたすらハイトを呼びながら探して。サラの声なら、きっとハイトに届くから」


 建物へ視線を向けたまま後ろ腰から銃を引き抜いたリーフェは、手元を見ないままグリップの底から弾倉を引き抜いた。慣れた様子で代わりの弾倉を叩き込んだリーフェは、一旦銃を後ろ腰へ戻すと同じようにもう片方の弾倉も入れ換える。


 揃って換えられた弾倉は、常に入れられているものとは種類が違うのか、いつもはグリップの中に収まっている弾倉の端が大きく外へ飛び出していた。厳めしさがいつもより増した二丁銃を両手に握り、リーフェは静かに呼吸を整える。


「……リーフェは、ここに残るってこと?」


 サラには銃器のことは分からない。だがリーフェが、ある種の覚悟を持ってその弾倉を装填したことだけは分かった。


「僕がここで目一杯暴れていれば、周囲の目は僕に集まる。ハイトに一番執心しているのは僕だから、僕の事は必ず見張りの兵には伝えられているはずだ。兵達は僕を潰そうと、必ず兵力を僕に集める」


 淡々と言い切ったリーフェは、そこでようやくサラに視線を向けた。苛烈さを宿しているのかと思ったアクアマリンの瞳は、サラの予想に反して静かに凪いでいる。


「僕に集まった分、中の見張りは薄くなるはずだ。その間に、サラはさっさとハイトを連れ戻してきてよ。……全力でやるつもりだけど、病み上がりだからさ。どこまで持つか分からないんだ」

「っ、だったら……!!」


 私の『詞繰』を使った方がいいじゃない、という言葉は、伸ばされたリーフェの指に遮られた。薬指と手のひらで銃を支えたまま器用に人差し指だけを伸ばしたリーフェは、淡く笑みを浮かべたまま唇を開く。


「ねぇ、サラ。今から言うのは僕の独り言だ。だからサラは聴いていなかった。いいね?」


 唐突にそんなことを言い出したリーフェはそっとサラの唇から指を引くと建物の方へ視線を向け直した。勢いにのまれたサラはそのままリーフェを見上げる。


「今、ハイトの両隣に立っているのは、間違いなく僕とヴォルトだ。その位置を、ハイトも許してくれている。僕達も、ハイトの隣に胸を張って立っていられるように努力をしてきた。……だけどね、僕達がどれだけ努力をしていても、ずっとその場所にいたくても、僕達はいずれ必ず、その場所を誰かに譲らなくちゃいけなくなる」


 淡々と語る声に感情と呼べるものはない。それが意図してのことなのかそうでないのかは、サラには判断できなかった。


「その相手ってのはね、ハイトの所にいずれやって来る、ハイトの御后様の事なんだ。ハイトの元へやって来る御后様は、何の努力もしていなくても、ハイトの隣という場所を望んでいなかったとしても、無条件でハイトの隣に立てちゃうんだ。……笑っちゃうよね。僕達は、こんなにも努力しなきゃ胸を張ってその場所にいる事が出来ないのに、その相手は例え望んでいなかったとしても、その場所を占領しちゃうんだ」


 だけどね、とリーフェは静かに続けた。その言葉の切れ端に悲しみとも切なさともつかない色が見えたのは、サラの気のせいだったのだろうか。


「だけど、どれだけ相手が気に入らなくても、僕達はその場所を御后様に引き渡さないわけにはいかないんだ。……だって、僕達が今の場所に居座ったら、御后様がいる場所はどこにもないから。例え相手を愛する事が出来なくても、御后様が肩身の狭い思いをする事を、ハイトは決して望まないから。ハイトに心苦しい思いをさせるのは嫌だから、僕達は身を引くしかないんだ」


 自分達はどれだけ特別でも、ただの臣下だから。ハイトの隣に立つ女性が現れたら、自分達は場所を空けて、やってくる女性に対して膝をつかなければならない。敬意を向けて、有事にはハイトを守るようにその女性のことも守らなければならない。


 たとえ相手のことが気に入らなくても、相手がハイトのことを大切にしてくれなくても、それに文句を言う権利は、自分達にはない。


「だから、僕達は決めたんだ。自分達がこの場所を譲ってもいいと思えるような相手じゃなきゃ、ハイトの后にはさせないって。正式に后になられちゃったら相手に文句は言えないけど、候補の状態でなら僕達でどうとでも出来る。……ハイトには内緒だけど、ハイトに知られる前に潰した話も幾つかあるんだ。まぁ、これは独り言だから、今うっかり零してもハイトに伝わる事はないと思うけど」


 チラリとサラに視線を向けながら、リーフェは『独り言』という名の念押しを重ねた。最初に独り言だと断ったのはハイトに伝えられたくない言葉をこぼすためだったのかと、サラは納得を視線に込めてリーフェを見つめる。


 そんなサラに、リーフェは一瞬だけ笑みを見せた。その笑みが普段ハイトやヴォルトに向けられているような自然な笑みに見えた気がしたのは、サラの気のせいだったのだろうか。


「でもね、最近はその事でピリピリする事もなくなったんだ。……僕もヴォルトも、ハイトを大切にしてくれて、僕達が認められるくらい努力家で、美人で教養もあってでも性格は悪くなくて、ハイトの御后様になってくれてもいいかなーなんて思える人なんて、きっと現れないんじゃないかと思ってたんだけど。そんな人が、本当に、ハイトの婚約者として現れちゃったから」

「え……」

「僕はね、サラ。フローライトのアヴァルウォフリージア姫にならば、今僕達がいる場所を譲ってもいいと思っているよ」


 一瞬リーフェが誰のことを言っているのか分からなくて、サラは思わず目をしばたたかせる。呆けたようにリーフェを見上げるサラに、リーフェはさらに笑みを深めた。


「ハイトの隣に立つ君を、ハイトを守るように守ってもいいと思っているよ。……まぁそれでも、ハイトの両腕たる『至青しせい』の座は、誰にも譲らないけどね」


 アクアエリアにおいて、青は王族を示す特別な色だ。澄み切った深い青に近ければ近いほど、その色をまとえる人間は限られてくる。至青というのは、その青を纏う者から、直々に青に連なる許色ゆるしいろを贈られた臣下のことだ。


 ハイトの至青であることを示す紺掛青こんがけあおの袍を翻しながら、リーフェは右手に握った銃の筒先を軽く振った。その動きにあわせて舞った青い燐光が、戯れるかのようにサラへ降り注ぐ。


「今、サラの周囲に薄い水幕を展開した。水幕を銀幕スクリーン代わりにして周囲の景色を投影する事で、サラの姿を誤魔化す事が出来るんだ。ここから建物の中に入るまでなら、十分しのげる」


 リーフェの言葉を裏付けるかのようにサラの周囲の空気がしっとりと湿り気を帯びる。ユラユラと視界にかかる青いヴェールがその水の幕なのだろう。


 急にされた説明を頭に叩き込むサラの前で、リーフェはヒラヒラと片手を振りながらサラへ背を向ける。


「御武運を、妃殿下」




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