外野のお茶会

1.


「陛下、どうぞ此方こちらへ」


 その言葉とともに開かれた扉の先は、まばゆい光で満たされていた。


 通路の暗がりに目が慣れていたフローライト王サエザルは、思わずその場に足を止めて目をしばたたかせる。


「アクアエリア王城の水階段カスケードを満たし、やがては王都の水路を満たす水は、全てここを水源としているんですよ」


 先導役であるイーゼは、そんなサエザルを振り返って宝物を自慢する幼子のような顔で笑った。


 サエザルの目の前に広がっていたのは、建物の背面であろう石壁に円柱状に切り取られた広場だった。その底面を満たすように滾々と水が湧き出している。


 いや、むしろ、池の上に周囲を囲む建物を造ったと言った方が正しいのか。扉を開いた先はすでに水面みなもが押し寄せてきていて、扉の先に地面と呼べる物は欠片も見つけることができない。唯一、空間の中心に石造りの東屋が置かれているが、そこへ渡る道さえこの空間には用意されていないようだった。飛石でもあるのかと水中に目を凝らしてみても、澄みきった水が深く色を変えながら満々と満ちている様子が見えるだけで、それらしき物は見つからない。船が用意されている気配もないし、泳いで渡るにはあまりにも水深が深すぎる。


「一説には、ここの水深は外の水階段の高さと同じなんだとか。すなわち、城壁が乗っている地面を井戸底にしている状態らしいです。泉の底には水龍シェーリンを祀る祠があるらしいのですが、流石に確かめた者はいません」


 イーゼは説明の言葉を口にしながら無造作に水の上へ足を踏み出す。あまりにも自然な動作に、サエザルは一瞬、イーゼが進む先に地面がないことを忘れた。


「イ、イゼルセラン殿下!?」


 慌てて手を伸ばすが、その先がイーゼに届くことはなかった。


「大丈夫ですよ、陛下」


 五歩進んで振り返ったイーゼは、慌てふためくサエザルの姿に笑みを深めた。イタズラが成功した幼子の顔だと気付いたサエザルは、口をつぐむとじっくりイーゼを観察する。


「『水繰アクアリーディ』の力というよりも、水龍の力です。ここは、水龍に選ばれた人間しか立つ事が出来ない水面みなも。アクアエリアの王族でも水龍に拒否されれば沈みますし、逆にアクアエリア王族でなくても水龍に受け入れられれば立てる。私達はこの空間の事を『裁定の泉』と呼びます」


 イーゼは長い衣の裾を引いたまま、何事もなく水面の上に立っていた。衣の先は水面に立つ波の動きにあわせてユラユラとたなびいているのに、イーゼの足元はまるでガラスの床の上に立っているかのように安定している。その不可思議さよりも、水と光がもたらす涼やかさよりも、空間と一体化したイーゼが醸し出す静謐とも言える神秘さにサエザルは目を奪われた。


「さあ、陛下。どうぞこちらへ」


 そのイーゼが、絵画のような風景の中からサエザルへ手を差し伸べる。


「……─────」


 気付いた時には、サエザルの足は水面の上を踏んでいた。


 靴底で踏む水面は、ガラスのように硬質だった。だが微かに液体を踏んでいる感触もあるような気がする。石畳の上にできた水溜まりの上を歩いている時に近いのかもしれない。


 本の国を統べるフローライト王族は、力の性質上どうしても火と水を苦手とする。サエザルも類に漏れず、暖炉の火や大河の流れには本能的な恐怖を抱かずにはいられない。


 だが今、サエザルの心はいつになく静かだった。視界は滾々と湧き出る水が大半を占め、視線を下げれば己の足の下にはどこまでも深く続く水面が広がっているというのに、いつも顔をのぞかせる恐怖はどこにもなかった。むしろ人里離れた神域に足を踏み込んだ時のような、清らかで凛とした空気に洗われるような心地よさまで感じている。


「ようこそ、我が家の御茶会へ。サエザル・イーヴォ・フローライト陛下」


 イーゼの手を借りて水面を渡り切ったサエザルを出迎えたのは、先に東屋でくつろいでいたアクアエリア王だった。いつの間に着替えたのか、頭から冠は外され、衣装も先程より簡素な物に変わっている。神域ともいえる泉の陽光を浴びるアクアエリア王は、先程断末魔の叫びを上げていた人間と同一人物とは思えないほど落ち着いた空気を纏っていた。


「ね? 大丈夫だと申し上げたでしょう?」


 そのことに目をしばたたかせていることに気付いたのだろう。サエザルの後ろに立ち位置を変えたイーゼがヒソッとささやいてくる。


「さぁ、フローライトの陛下、どうぞ楽になさって」


 次に聞こえてきたのは、破天荒な王妃の声だった。


 サエザルが背後のイーゼに視線を向けたわずかな間に姿を現した王妃は、再び目をしばたたかせるサエザルの手を無造作に取った。導かれるがまま石造りの椅子に腰かければ、揃いのテーブルを挟んだすぐ向こうにアクアエリア王がくつろいでいる。


「我が息子は『裁定の泉』などという大仰な名を引っ張ってきたたようだが、実際にこの泉が裁定に使われる事は滅多にないのです。そんな事が起きないように務める事も、我が王家の仕事なのでね」


 くつろいだ雰囲気のままサエザルに語りかけたアクアエリア王は、視線だけで王妃に何事かを伝える。それを受けた王妃はニコリと笑うと傍らの椅子に置いていた盆を手に取った。


「さぁ陛下、どうぞ。安心なさって、毒なんて入れておりませんわ」


 盆の上には涼やかなガラスで作られた茶器が乗せられていた。いつの間に用意されていたのか、茶器の中にはわずかな濁りを含んだ緑茶が注がれている。フローライトで主に飲まれているのは紅茶で、緑茶はほとんど国内では流通していない。知識の中にしかない飲み物に目を奪われながら、サエザルは無意識のうちにグラスへ手を伸ばしていた。


「アクアエリアでは、会合と茶は切っても切れない関係なのです。国議でも、軍議でも、気心知れた者同士のお喋りにでも、傍らに茶を置くのが一種のスタイルになっていまして。茶がなければ何も始まらない」


 まずサエザルに差し出された盆は、次にアクアエリア王へ差し出された。盆の上に行儀よく並んだ揃いの茶器の一つをアクアエリア王が無造作に選ぶと、次はイーゼへ盆が差し出される。


「后が淹れる茶は、中々に美味いですよ、フローライトの陛下。アクアエリアでは、軍議の合間の茶は軍師が淹れる物とされていましてね。どれだけ美味く茶を淹れられるかで軍師の腕を計るという奇妙な習慣もあるんですよ。后は並いる軍師の中に混じっても遜色のない腕前だ」

「ヤダァ、陛下ったら、あたくしと皆々様を同列で扱ったら、皆様から顰蹙ひんしゅくを買ってしまいますわよぉ」


 盆は后が自分用の茶器を手に取ると空になった。后はその盆を膝に乗せたままサエザルとアクアエリア王の間の席に座る。サエザルを挟んで反対側がイーゼの席だ。テーブルを挟んでサエザルとアクアエリア王が正面に対峙する形で一行は席に収まった。


「でも、リフェルダに茶の扱いを教えたのは母上なのでしょう? リフェルダはハイトの軍師。つまり母上は軍師の地位ポジションにある者の師という事なのでは?」

「コラ、イーゼ。影護衛でしかないあたくしがロベルリン伯の師などと大それた事を言うんじゃありません。確かにあたくしは、あの子に請われて基本的な事はお教えしたけれど、今のあの子の腕前はあの子が必死に努力をして身に付けた物です。あの子の努力を蔑ろにするんじゃありません」


 だが席に収まったからと言って、すぐに対談が始まるのかといえば、決してそんな雰囲気ではなかった。王妃と王子が軽口を弾ませているのを王が楽しそうに眺めている様は、まるで本当にプライベートなお茶会を垣間見ているかのようだ。


 水龍に選ばれた者しか立ち入れない神域に通され、どれだけ厳めしい話し合いが始まるのかと身を固くしていたサエザルは、そんな雰囲気に拍子抜けしてしまった。思わず跳ね回る軽口を聞き流しながら手元の茶器に口をつける。ほんのりと温かい緑茶は、水面を渡る風と緊張に冷えたサエザルの体をゆっくりと温めながら、微かな甘味とともにサエザルの胃へ落ちた。


「……緑茶は渋いばかりのものだと思っておったが、かように甘いとは……。紅茶に砂糖を落としたのとはまた違う、優しい甘味だ。実に美味しい」

「緊張が溶け出していくかのようでしょう?」


 その言葉にサエザルは思わず顔を跳ね上げた。



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