欠陥品と言われる所以が、直系王族とは思えないほど弱くなってしまった『水繰アクアリーディ』にある事は分かっている。だが理由は本当にそれだけなのだろうかと、ふとした時に思う事がある。


 例えばリーフェのように明晰な頭脳で国政に携われていたら。例えばヴォルトのように卓越した剣技で軍務に携われていたら。例えば兄のように広域な交友関係を味方に出来ていれば。


 そのどれかでもハイトにあれば、たとえ『水繰』の力を失ってもここまで欠陥品と謗られる事はなかったのではないだろうかと、考えた事がないと言えば嘘になる。


 仮にリーフェの命を永らえたまま力が戻ったとしても、それだけで王族としての厚遇を再び受けてもいいのか。即ち自分が王族として求められているのは直系王族としての強大な『水繰』の力だけなのか。ならば何もそれが自分である必要性はないのではないか。


 側近二人に零せば即刻『否』という返事が来る事は分かり切っているから、こんな内心を口に出した事はない。だがふとした時に、そんな事を考えている自分がいる。何度か考えて、そのたびに答えが出ないまま心の奥底に沈めてきた問いだった。


 自分が水龍シェーリンにここまで目を掛けられている理由を、ハイトは知らない。それと同じように、何を持っていれば『欠陥品ではない』と胸を張って言えるのかも分からなかった。


 ハイトの視線は自然と下を向いた。それだけでハイトの内心を察したのか、水龍の眉間に皺が寄る。気配でその変化に気付きながらも、答える言葉を持たないハイトはただ沈黙するしかない。


おもてを上げよ、ハイト』


 その沈黙に雫を落とすかのように、涼やかな声がハイトの耳を叩いた。涼やかでありながらも力に溢れた声に、ハイトは自然に顔を上げる。


 そんなハイトに向かって、気品に満ちた挙措で水龍の指が伸びた。


 静かにハイトの眉間に寄せられた指は気配もなく曲げられ、そして……


『この、阿呆がっ!!』


 バゴンッ!! と、人体が立てたとは思えない破滅的な音とともに、水龍必殺のデコピンを炸裂させた。


『お前はっ!! 事あるごとに言うておるではないかっ!! あの時の判断は間違っていない、己の価値は自分で決めるとっ!! 即ち自分が何も損なってはおらぬという事を知っているのではないのかっ!? 損なっておらぬならば欠陥などないではないかっ!! お前のどこかに気に入らぬ点があるならば疾うの昔に保護者役などやめておるわっ!!』


 何やらものすごく怒られている。


 それは分かる。


 だが額が陥没しそうなほどの衝撃をまともに喰らって体ごと吹っ飛び、ついでに後頭部を背後の壁にぶつけてしまったハイトには、水龍の言葉の半分以上が聞き取れていなかった。両頬、頭頂、そして額と後頭部、すなわちほぼ首から上全部がズキズキと痛んでまともに思考が働かない。


『我がお前を気に入った最初の理由は、お前が抱いて生まれてきた魂が清水のように清らかだったからだ』


 だが水龍のその言葉は、痛みに混乱するハイトの耳にも届いた。


『だがそれだけが理由でここまで世話を焼いてきたわけではない。……お前はいつでも相手と同じ土俵に立とうとする。王族としての立場はもちろんあろう。だが心根の根幹にある姿勢は、いつでも一人の人間としてのハイトリーリンだ。我と対峙する時も、皆に対峙する時も、あの色狂いに相対している時でさえ、お前の心の根幹、立ち合う姿勢に変わりはない。身分や血筋や生き筋を振りかざして、相手を屈服させようとはせぬ。その根幹が、誇りと、勇敢さと、誠実さを作り出しておるのだ』


 静かでありながら力強い声が、ハイトの耳にスルリと入り込んで、ジワリと心に沁み込んでいく。水龍がここまで真剣に語りかけてくる言葉を、ハイトは初めて聞いた。


 その言葉は、まるで乾いた土地に降り注ぐ慈雨のように優しくて。ハイトの心を潤しながら、同時に温もりも与えていく。


『その心根を、我は好ましく思っておる。傍にいて、心地良いと思う。清らかな清水は濁りやすい。だがお前が滾々と紡ぎ出す清水は、いつでも豊かで清らかだ。一時的な感情で濁る事や荒れる事があっても、根っこの部分は綺麗なままなのだ。その根幹を生み出し、磨いたのは、お前の努力以外の何物でもない。そんな努力が出来る人間は、決して多くはないのだ。人は皆、楽な方に流れる。澄み切った水を生み湧かせ続けるには、この世界には誘惑が多すぎる』


 そこまでを一息に言い切り、水龍は軽く息を吐いた。『なぜこんなに分かり切った事をあえて口にせねば分からぬのか』と呆れを含んだ視線が真っ直ぐにハイトに据えられる。


『そんな努力が出来る人間の、どこが欠陥品と言うのか。……そもそも欠陥がある人間に、自分の何もかもを放り出して他人を救おうなどという考えは出来ぬよ。そして周囲も、欠陥品である人間に対して、何もかもを放り出してでも付いて行くなどという覚悟を固めはせぬであろうて』


 その言葉にハイトは思わず目を見開いた。そんなハイトに向かって水龍は口の端だけに淡く笑みを浮かべる。


『お前自身が気付いていない力に、お前の周囲は疾うの昔に気付いておる。気付いて、魅了されておるのよ。我もその一角である故に、よぉくその事は分かっておる』

「……御前ごぜん………」


 呆然と呟く事しか出来なかった。胸の内に湧き上がる感情があるのに、それを言葉に表す事が出来ない。


 そんなハイトに気付いているのか、水龍は静かに腰を上げるとハイトへ片腕を伸ばした。その手がガシッとハイトの頭を鷲掴み、そのまま寝台へ叩き付ける。


『寝不足だからそんな後ろ向きな思考しか回らぬのだ。寝ろ。どうせこの部屋にいても出来る事など何もない。助けの手を待つ事以外はな。ならば来る時に備えて体を休めるのが一番賢い選択だ』


 枕に顔を押し付けられて酸欠になるよりも早く、水龍の手はハイトから離れていった。引き際の指先が辛抱強く髪に絡まっていた飾りを取り除いていく。仕上げにハイトがガシガシと髪を掻き回すと、ほぐれた髪がサラリと肩口に広がった。


『リフェルダ達と離れてから、ほぼ丸一日が過ぎておる。その前の晩とて、お前は碌に寝ておらぬであろうて。人の体は眠らないとすぐに駄目になるとリフェルダに事あるごとに説教しているお前がこんな事でどうする』

「……そうか。今は朝なのか」


 言葉に出してみると、寝不足の体が一気に重たくなったような気がした。きっと張り詰めていた緊張の糸が切れてしまったせいもあるのだろう。


『こら、完全に寝入る前にその袍を脱げ! 寝苦しいであろうが!』

「リーフェ達は今……」

『向こうも行動を始めておる。詞梟ミネバの姫の気配が高速で動いておる故』

「……そっか」


 夢うつつのまま問いを投げると、水龍の言葉を無視した形になったのに、水龍は律儀にハイトの問いに答えてくれた。その腹いせとも言える勢いで水龍の手が容赦なくハイトの体を転がす。眠気に負けつつあるハイトから無理矢理襲の袍を剥ぎ取っているのだろう。幼い頃、式典に疲れて着替えないまま寝入ってしまうハイトを、水龍はよくこうやって転がして着替えさせてくれた。懐かしいなぁと思った時には、意識の半分以上が睡魔に吸い取られて溶けている。


『我が付いておる故、安心して眠るが良い。あの色狂いの好きにはさせん。……まぁ、国ごと沈めるというのはハッタリだがな』

「やっぱり……」


 水が部屋を満たしたあの時、外開きであるはずの扉は開かなかった。つまりこの部屋に掛かっていた水圧は、扉の強度よりも低かったのだ。水龍が手心を加えていたわけではない。本拠地とも言えるアクアエリア王城から遠く離れている上に、邪水龍を抑えるためにリーフェの元に大半の力を残してきた水龍には、あれが現状で行使できる範囲ギリギリの力だったのだろう。同じ国守の神である地熊イアトの影響もある。あれ以上の事を成すならば、水龍はリーフェの元に残してきた力を使うしかなかった。それはそのままリーフェを見殺しにするという事に繋がる。


 それをしなかったのは、ハイトを思っての事なのだろう。本当に、水龍はハイトに甘い。下手をすれば、側近二人なんかよりも、ずっと。


「……御前、婚約式の、事なんだけど………」


 沈んでいく意識の中、もはや自分が何を喋っているのかも定かではなかった。


 だからこそ、こんな言葉が出てきたのかもしれない。


 問いたくても問えなかった、ウィンドの船上での、あの問いが。


「俺は、嬉しいけど……サラは、どう、思って………」


 ――サラ自身は、この婚約の事をどう思っているんだ?


 裏で色々ゴチャゴチャ画策されるのに腹が立つと言っていた彼女は、この婚約自体についてはどう思っているのだろう。婚約相手であるハイトに関して、どう思っているのだろう。


 自分のように、前向きに捉えてくれているのだろうか。恋とまではいかなくても、好意を向けてくれているのだろうか。それともサラはあくまでこの婚約を国策の一つだと思っていて、ハイト自身に関しては特に何も思っていないのだろうか。ハイトリーリン『で』いいではなくて、ハイトリーリン『が』いいと思って欲しいというのは、我が儘な事なのだろうか。できるならば……


『眠れ』


 眠りとの境で考えに沈むハイトの頭に、フワリと柔らかい手付きで水龍が触れた。そこにわずかな苦笑が混じったような気がしたのは、ハイトの気のせいだったのだろうか。そう思いながらも、懐かしい感触にハイトの口元は知らず知らずの間に笑みを浮かべる。


『考え事は、ゆっくり眠った後だ。そうすれば、おのずと答えは見えてくる』


 その言葉を幕引きにして、ハイトの意識はたゆたう眠りの海に溶けていった。






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