参
怒声に呼応するように一気に湿度が上がる。それを遠い触感で感じた時には室内が水で満たされていた。驚きに目を瞠るアドリアーナが水流に吹き飛ばされる前で、ハイトを捕らえていた触手が引き千切られる。先程のハイトを再現したかのように壁に叩き付けられたアドリアーナの口元から大きく気泡が上がった。
『お前が事あるごとに口に出すこれの『欠陥』は、決して欠陥にあらず。これは何も欠けてはおらぬし、微塵も瑕疵はない。我が慈しみ育てた子に対する侮辱を、我は決して許さぬ』
水の中にあってもハイトの体を借りて紡がれる声は朗々と響くし、ハイトは息苦しさを全く感じない。衣とともに水中をたゆたう髪は銀色に染まっていた。衣や髪の先にうっすらと青い燐光が舞っているのがハイトの視点からでも分かる。
『お前は、今の我の器にこう言うたな。『土は水を堰き止め、澱ませ、吸い込み、いずれその懐へ呑み込む物』だと。如何にも左様』
ツイッと、ハイトの指がアドリアーナを指し示す。息を失ったアドリアーナは苦しそうに喉元を掻きむしっていた。だがそれで空気が得られるはずもなく、逆に溢れた空気の残滓が泡となって宙へ昇っていく。
『だがその土を削り、大地の形を変えていくのは水である。大きく膨れた水は土で築かれた堤防を越え、石を重ねた城を押し崩す。我が従える水は、命を育む恵みの水であると同時に、押し包んで命を奪う滅びの水でもある』
その様を見て、スッと己の瞳が細められたのが分かった。恐らく今のハイトの瞳は、瞳孔が縦に裂けた黄金色の龍眼になっている事だろう。
『我が慈しみ育てた子の性情も同じく。ただただ優しいだけではない。これを本気で怒らせる前に巫山戯けた真似は止める事だ。我が水をこの部屋だけで留めているのは、なるべく穏便にというこれの願いを受けてこそ。これが望むならば、我はこの国ごと湖の底に沈める事もやぶさかではない』
朗々と紡がれる声を前に、ついにアドリアーナの指が力を失った。さすがにこのままではマズいだろうと思ったハイトは、表に出ている相手の袖をそっと引くように意識を動かす。
その動きは、きちんと相手に伝わったようだった。口の中だけで小さく舌が打ち鳴らされたのが分かり、ハイトは思わず意識の中だけで目を瞠る。長い付き合いだが、相手が舌打ちなんていう不作法を見せるのは初めてだ。裏を返せば、それだけ相手がアドリアーナに対して怒っているという事だろう。
『即急に、ここから
軽く腕が払われ、部屋を満たしていた水が引いていく。膝を着いて激しく咳き込むアドリアーナに、ハイトの体を借りたモノは冷たく言い放った。
『これの意志に免じての恩情だ。二度はない』
「あ、貴方は……
国守の神は国を治める王の血筋に力を与える存在だが、王であれば誰もが気安く国守の神と口を利けるわけではない。守護を授けていると言っても、それは神が王という人間個人を好ましく思っているというわけではなく、あくまで国を治める長として認めているというだけに過ぎないからだ。神と直接
だから、アドリアーナの常識から考えれば有り得ないのだ。ハイトの個人的な危機を、ハイトに憑依した水龍が救うなんて。
『我が子を助けるのに、理由が必要か?』
水龍は腕を伸ばすと指先をアドリアーナに向けた。その指先に再び水気が集まり始める。真っ直ぐにアドリアーナに据えられた指先には『次は殺る』という意志が見え隠れしていた。
だが『耽美王』と綽名される
「ははっ……!! 『持たない者』であるはずなのに、貴殿は水龍まで魅了したというのか……!! ますます欲しくなった! 気に入ったぞハイトリーリン殿下っ!!」
ふら付きながらもアドリアーナは自力で膝を上げて立ち上がる。頭の先から爪先まで水を滴らせながらも、アドリアーナはギラギラとした瞳をハイトに据えていた。
「必ず……必ず我が手中に納めてやろう……!! 必ずだっ!!」
叫びながらジリジリと後ろへ下がったアドリアーナは、後ろ手で扉を開けるとそのまま姿を消した。さすがに形勢が悪いと考えたのか、口ではああ言いながらも怖じ気付いたのかは分からないが、とりあえず助かった事にハイトはホッと息を吐く。
『あれが怖じ気付く玉なものか。お前を手に入れるべく策を練りに行ったのであろうて、気色悪い』
その息の動きに合わせて肩が揺れていた。体の主導権が自分に戻っている事に気付くと同時に、自分の喉ではない所から先程の声が響く。
「
シュルリと微かな音を響かせながら部屋の水気が凝っていく。透明だった水塊は銀色と青の燐光を帯び、瞬きをする間に人の形を取った。
癖もなく腰下まで流れ落ちる銀の髪。性別を感じさせない冷たく整った顔。黄金の瞳が輝く上には
歴代のアクアエリア王でさえ見る事は稀だと言われながらも、ハイトにとっては懐かしさを覚える姿。アクアエリア国守の神、水龍の人身での顕現だった。
だが今のハイトにはそんな奇跡を噛み締めている暇も、懐かしさを覚える余裕もない。
「御前、ここに顕現しててリーフェは大丈夫なの……ッタイッ!! ヒタヒッ!!」
『お・ま・え・はっ!! 人の心配をしている場合かっ!! こんな時くらい我が身の心配をせぬかっ!!』
リーフェの命は水龍の力によって守られている。水龍がここにいるという事は、リーフェの方の守りが外れているという事だ。
それに思い至ったハイトは水龍に詰め寄るが、当の
『お前はどうしてこんな危機的状況なのに我を呼ぼうとせぬのだっ!? あのままでどうするつもりだったのだっ!? ええっ!? 答えてみよっ!!』
「ひったい……!! ひょひぇん、指、はじゅして……!!」
リーフェやヴォルトでさえここまで容赦のない暴力は振るわない。ジタバタ暴れてみても、ハイトの両頬を引っ張る指は外れそうになかった。
『リフェルダならば無事だ。こちらにしばらく顕現していても問題ないくらいには、あれの所に力を残してきた故に』
その指が不意にハイトから離れる。ホッとしたのも束の間で、次の瞬間には両側から挟み込まれるように頬を叩かれていた。そういえば昔、悪戯をすると人気のない所でよくこうやって水龍に怒られたよな、とハイトは久し振りに思い出す。
「~っ、ぶ、無事なのか……なら、良かった」
突き抜ける痛みをやり過ごして水龍の言葉に答えると、水龍は呆れたように軽く溜め息を吐いた。水龍の腕が軽く振られ、その動きに従って吹き飛ばされていた家具がフワリと元の場所に戻っていく。
一度水に沈んだというのに、部屋の中はサラリと乾いていた。ハイトが纏う衣も、寝台の敷布もふんわりとした質感を保っている。
『お前に万が一の事があってみろ。リフェルダとヴォルトレインが戦争を引き起こすに違いない。どのみち国際問題だ。おまけにこちらの方が百倍面倒臭い』
水龍は椅子を引くと優雅に腰掛けた。視線で寝台を示されたハイトは大人しく寝台の端に腰掛ける。何をされるか分かったもんじゃなかった時は触れる事さえ嫌だった寝台だったが、今こうして座ってみるとその使い心地は想像以上に快適だった。水龍が現れた途端にこんなに安心しているとは我ながら現金だな、とハイトは内心だけで苦笑する。
『お前の事だ。どうせ我が何とかすると思って、何も考えずに捕まったのであろうて』
「……御前、ほんっとうによく分かってん、ダッ!!」
椅子と寝台が向き合うように体勢を変えた水龍がズビシッとハイトの頭頂に手刀を落とす。一旦沈んだ頭を気力で引き戻すと、水龍はハイトが思っていた以上に怒りを孕んだ瞳をハイトに向けていた。
「……御前を、アテにしてたわけじゃないんだ。本当は、策なんてなくて、
今度は、苦笑が内心に留まらずに口元まで浮かんでしまった。
「だってさ、俺が何かしなくちゃ、リーフェはきっと死んでた。俺の身代を懸ければ止まるかもしれないって分かったらさ、黙ったままではいられなかったんだ。あの場を収めて、少しの時間稼ぎが出来れば、それでいいかなって……」
『それで、お前の身はどうなる? あの場にいた者は、確かに皆命を永らえよう。しかし、お前自身は誰が守るのだ? お前が犠牲になって、あれらが喜ぶと思うのか?』
低い声は、明らかに怒りを孕んでいる。だが怒り以外の感情も垣間見える事にハイトは気付いていた。だから怒りを向けられている事が分かっていても、恐怖に身が委縮する事はない。
『意志の強さとその優しさは、確かにお前の美徳と言えよう。だがそれがお前自身を損ねてはならぬ。お前はもっと己を大切にせよ。……まさかお前、自分が本当に周囲の言う『欠陥品』なのだとは思っておらぬであろうな?』
「それは……」
言葉が詰まって、語尾があやふやなまま消えていく。それを取り繕おうという意思も、今のハイトにはなかった。
『それはない』と断言出来ない事に、変わりはないのだから。
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