弐
その言葉に、ハイトは背後に隠した拳を握りしめた。その中に握り込まれた簪が力に耐え切れずに僅かに曲がる。
「貴殿の価値が分からん人間の元に、なぜ貴殿はわざわざ帰ろうとするのだ? 私はこんなにも貴殿を欲している。貴殿の美しさにならば、どれほどの富を投じても良いと思っている。リーヴェクロイツは同性での婚姻が認められておるで、貴殿を側室として迎え入れてもなんら問題はない。傍仕えにしたり、ただ収容するだけでは貴殿の美しさに報いることなどできまい。私は貴殿にそれだけの価値を感じている」
アドリアーナはその瞳をハイトに向けたまま手を差し伸べた。
「自分で言うのも何だが、私は美人だぞ? そして一国の王であり、権力も富も飽きるほどに持っている。それを貴殿に注ぐと言っている。『持たない者』である貴殿の結婚相手として、これほど良い条件の人間もおらんであろうて」
その言葉に、ハイトは一度瞳を閉じて己の心と向き合った。
――欠陥品
幼いあの日の決断以降、影で、日向で向けられ続けて、今では自分でも折に触れて口に出している言葉だ。今更こうして正面から言われても、その事自体には何も感じない。
だが。
「……貴方が言う通りかもしれない」
ハイトは静かに瞳を開くと、背後に引いていた手をアドリアーナが差し出す手に向かって伸ばした。長い袖に包まれた手が柔らかくアドリアーナの手に触れる。それに何を思ったのか、アドリアーナの表情が溶け落ちそうなほどに緩んだ。
「だが、周囲が何と言おうと俺の価値は自分が決めるし、俺の居場所も自分で決める。その事であんたに囲われる理由はないっ!!」
叫ぶと同時に伸ばした手を払う。長い袂がアドリアーナの手を弾いて体勢を崩し、袖の中に隠されていた簪が鋭くアドリアーナの首筋に投げ打たれた。さらに踏み込んだ足で引きずる裾を割り、高机の足を払ってアドリアーナに向かって転がし、その反動を利用して自身は元より後ろへ下がる。
その間にハイトの視線はアドリアーナが背にした扉に向けられていた。何とかアドリアーナを退かして抜けられないだろうかと思案しながら、髪に刺さった他の飾りに手を伸ばす。
「よくその衣装でそこまで動けるのぉ」
だがハイトの反撃はそこまでで封じられてしまった。
「武芸はそこそこと聞いておったが、比較対照はお付きの護衛であったのか。中々どうして、油断ができぬ」
「……っ!!」
背にしていた土壁から触手が飛び、ハイトの両腕を捕獲して壁へ叩き付ける。背面から壁に叩き付けられたハイトは、受け身を取る事も出来ずに息を詰まらせた。手を掛けていた髪飾りが床に落ち、支えを失った髪が解けた時には、両足も触手に捕らえられ壁に磔にされている。
「己のことは己で成す。それがアクアエリア王族のモットーだとか。それは護身の域にも及ぶのか」
アドリアーナの首筋は、薄皮が一枚破れてうっすらと血を滲ませていた。あと半歩でも横へずれていたら、ハイトが放った簪はアドリアーナの喉元に突き刺さっていた事だろう。その殺気と衝撃の余韻を残して、アドリアーナの背後の壁に突き刺さった簪がシャラシャラと揺れる。
「ただ美しいだけでない。その中に鋭利な刃物のような鋭さを秘めている。欠陥品と言われてもなお、その言葉に抗う。『持たない者』であるのに『持つ者』に従おうとはしない。……ますます気に入った」
痛みをやり過ごしてアドリアーナを睨み付ける。ハイトが敵意の視線を向けてもアドリアーナの笑みは崩れなかった。首筋の傷を撫で、滲んだ血を拭った指先が、見せ付けるかのようにアドリアーナの唇へ運ばれる。
「折れようとしないその瞳をへし折りたくなる。決して屈しようとしないその瞳が折れた様は、きっとこの上もなく美しいのであろうな」
真っ赤な舌が、真っ赤な血を舐めとる。
その指先は、そのままハイトへ伸ばされた。
「……俺の心を圧し折りたいがために、一億リラの身代金を懸けたのか?」
「ああ、あの脅迫状は、アクアエリアの代表者を対話の席に着かせるためのフェイクにすぎん。ハイトリーリン殿下を誘拐した上であの脅迫状を残しておけば、アクアエリア側は極秘裏に使者をこちらへ出したはず。その使者殿に正式にハイトリーリン殿下を譲り受ける交渉をしむければ、貴殿を合法的に手中に収めることができたはずだからのぉ。やつらの手違いで順番が狂ったおかげで、脅迫状はロベルリン伯の手で握りつぶされてしまったらしいが。……なに、不服であったか? 私は貴殿の価値をたった一億リラぽっちだとは思っておらぬぞ? パッと思いついた金額を書いただけで……」
「……結局あんたが欲しいのは、美術観賞用としてのハイトリーリンか」
自分に伸びてくる指を見ても、恐怖や危機感は生まれなかった。先程まで抱いていた悪寒までもがスッと引いていく。
「欲しているだの愛でるだの、そもそも『丁重に遇する』だの、それは全部人としてではなく
「それとこれとに、なんの違いがあるというのか」
アドリアーナの指がハイトの頬に触れ、首筋を辿り、襟を留める飾り紐に掛かる。指先だけを見ていれば、その動きはハイトを慈しんでいるようにも見えただろう。だがアドリアーナの目だけを見据えていたハイトには、アドリアーナの瞳がドロリと凝った劣情と狂気を湛えてより一層闇を深めたのが見えていた。
「何と言おうとも、もはや貴殿には抗う手段はなかろう。アクアエリア王族一の水の遣い手である貴殿の参謀殿にも私の『
各王族の力は、己の血に宿る国守の神が支配する地が近ければ近いほど威力を増す。アクアエリア王族ならば、
「なに、怯えることはない。私は男でも女でも、美しければいくらでも愛でることができる。
男の指とは思えない細くて綺麗な指が、恐ろしいほど器用に留め紐を解いていく様を、ハイトはどこか他人事の様に見詰めていた。
事実、今のハイトの立場からしたら、他人事に等しいのかもしれない。
何故ならば今、ハイトの体を支配しているのは、ハイトであって、ハイトではないのだから。
『これに触れるな、色魔』
ブチッと、何かがキレる音が自分の内で
『これが揉める事を避けたがるから黙って聴いておれば。どこまでも付け上がりよって、この常春頭が』
厳めしく威厳に満ちた男にも女にも聞こえる美しい声に、アドリアーナが動きを止める。訝しげに覗き込むアドリアーナの瞳に映ったハイトの瞳が、ジワリと滲むように色を変えた。
『その劣情に満ちた指を退けよ、無礼者がっ!!』
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