蚊帳の内の戦い
壱
「寝台一式、二十万リラ」
窓のない部屋は、天井も含めた六面全てを土壁で固められている。すなわち今自分は、リーヴェクロイツ王の手の中にいるような物なのだろう。『
「椅子と高机、セットで二十万リラ」
窓がなくても息苦しく感じないのは、土も呼吸をするからだろうか。すなわちこれはリーヴェクロイツ王の吐息という事か。うわ、自分で考えといて滅茶苦茶気持ち悪い。
「衣装一式、……計算不能」
身ぐるみ一式剥ぎ取られ、浴室に突っ込まれた後無理矢理着飾せられ、問答無用でこの部屋に押し込められたハイトは、暇すぎて始めた金子の計算結果に溜め息を零した。
「金の使い所がさっぱり分からん……」
椅子に腰掛け足を組んだハイトは、その姿勢のまま自分の姿に視線を落とした。その瞬間、わずかな首の動きに釣られて、結い上げた髪に刺さった大振りな簪が勢い良く揺れる。
「ぬぉっ!?」
遠心力に振り回されて首がゴキンッと変な音を立てる。それを肘掛けに立てた腕で必死に支えながら、ハイトは何回目になるか分からない溜め息を零した。今度は細心の注意を払ったお陰で、袖口に重ねられた衣がわずかに揺れただけで事なきを得る。
平服をひん剥かれたハイトの目の前に用意されていたのは、アクアエリア式の国典でしか袖を通さないような豪奢な衣装だった。いや、髪飾りや首飾りなどの装飾の事を考えれば、国典でさえここまで華美な装いはしない。良く言えば清貧、悪く言えば質素。それがアクアエリア服飾文化の根幹であるのだから。
「……『
身ぐるみを剥がされた時に持ち逃げでもされたら大変だ。
というよりも、剥ぎ取られた平服は一体どうされてしまったのだろうか。気に入りの一枚だったからぜひとも返して欲しい。着こなれてきて、ようやくあの服のまま棹を握っても違和感がないくらいに体に馴染んできたのだ。こんな趣味の悪い装束なんぞよりずっと価値のある代物なのである。
「そもそもだなぁ、襲色目の並びからしておかしいんだよ、これ。ただ何でも重ねればいいってもんでもねぇんだっつの……」
やる事がなさすぎて、ついには文句が口をついた。せめて窓があれば、リーフェ達と離れてどれ位の時が経ったのか分かるのだが、この部屋にいてはそんな小さな事さえ分からない。馬車に押し込められてから王宮に至るまでの道中もずっと地下道だったから、移動にどれくらいの時間が掛かったのか結局良く分からなかった。
「……あと、どれだけで
時間さえ稼げれば、助けは来るはずだ。自分の参謀が、護衛が、こんな目に遭わされたまま大人しく引き下がるような性格をしていないという事は痛い程に知っている。
そして何より今回は、近隣諸国で一番
それだけの勝算があったから、ハイトは大人しくリーヴェクロイツ王に従ったのだ。……まあ、あの時は、ああしてでもリーフェを止めなければならなかったという事情もあったのだが。
そんな事情を作り出した当事者の一人に思い至り、ハイトは思わずガシガシと頭を掻きむしった。
「……来るよなぁ……来て欲しくねぇんだけどなぁ……収容しただけで満足してくんねぇかなぁ……」
一日、二日は持たせると二人に見栄を切ってしまった以上、何とか時間を稼がなくてはならない。向こうもハイトの符丁を信じて作戦を立案しているのだろうから。
「来て欲しいのは身内の救助であって、あんたじゃねぇんだけどなぁ……」
目下最大にして唯一の懸案は、自分をここに押し込んだ当人とどうすれば顔を合わせなくて済むかという事だ。
ハイトは椅子に腰掛けたままグルリと部屋の中に視線を走らせる。小さな部屋は寝台と高机だけでほぼ埋め尽くされていた。扉を塞ごうにも家具を動かす
――こんな狭い部屋に二人きりで隔離されたら、何されるか分かったもんじゃない……!
馬車の中で注がれ続けた熱視線を思い出し、ハイトは思わず悪寒に身を震わせた。指の先まで鳥肌が立っているのが分かる。
なるべく視線を合わせないようにしていたからハイトの勘違いかもしれないが、あの舌舐めずりには一体何の意味があったのだろうか。思わせ振りにやたらと触れてくるあの指先には、何の意味があったのだろうか。
――俺にそっちの気はないっ!! 断固お断りだっ!!
『貞操の危機』という言葉を、男の身でここまで真剣に噛み締める日が来るとは思っていなかった。父や母、兄にこんな話を知られたら腹を抱えて笑われそうだし、育ての親とも言える
――とりあえず、出られなくなってもいいから鍵穴だけでも破壊しておくか? それとも、壁に穴を開けられないか試してみるか……
とにかく、文句を口にして震えているよりも行動を起こした方がまだマシな気がする。ハイトはそう思い直すと、髪に刺した簪を引き抜きながら椅子から立ち上がった。
だがそんなハイトの目の前で、ハイトの考えを打ち砕くかのようにガチャリと重い音が響く。
「ほう! やはり似合うな! 私の目に狂いはなかった!」
「……っ!!」
音を響かせたのは鍵が掛けられていた扉であり、その扉を開いたのはもちろんリーヴェクロイツ王アドリアーナである。
「やはり貴殿にはあんな質素な服よりもこうした華やかな衣装の方が似合うな! ……ん? 髪飾りはどうした? セットにしてあったはずだろう?」
アドリアーナは問いを口にしながらも御機嫌な様子で部屋の中に入ってきた。
扉を閉めてしまえば、アドリアーナとハイトの間合いは二歩しかない。何かをしようと思えばすぐにでも出来る間合いで、ハイトとアドリアーナは対峙する。
「……簪という物は、女の髪を彩る物だ。男の俺が身に付ける物じゃない」
「男であるのか女であるのかが問題であるのではない。貴殿に似合うか否かが問題なのだ」
不意を突かれて手を伸ばされないよう、ハイトはさりげなく二人の間に高机と椅子が入るように立ち位置を変える。その動きに気付いたのか、アドリアーナがわずかに笑みの種類を変えた。
「それに、婚儀の場では、貴殿が最高に美しく見える姿でいてもらいたいのでな。男物であろうとも女物であろうとも構わん。むしろ私が王として男であらねばならぬから、貴殿が女物を纏うくらいで丁度良いのやもしれぬ」
「……は?」
婚儀の場で華やかに着飾らなくてはならないという理屈は分かる。だがなぜ今その言葉が出てくるのか、さらに言えばなぜそこにアドリアーナがいる前提なのか、もっと言うならばなぜアドリアーナがいるからハイトが女物を身に付けなければならないのか、さっぱりもって分からない。……いや、何となく、うっすらとならアドリアーナが言わんとしている事は分かる。だがハイトの本能はその『言わんとしている事』を理解するのを全力で拒んでいた。
「ハイトリーリン殿下、貴殿、私とこんな所まで来ておいて、何事もなく帰れると思っていたのか?」
「こんな所って、ただ俺はリーヴェクロイツ王宮に招かれただけなんだが」
「もっと言うならば、帰れると思っていたのか?」
「俺はアクアエリアの王族だ。家族も臣下も守るべき民も、全てアクアエリアにいる」
「だが、貴殿が『帰るべき場所』と思い描いている場所は、はたして本当の意味で貴殿を欲しているのか?」
アドリアーナは熱に浮かされた瞳の中に僅な狂気を溶かし込んでハイトを見ていた。無意識なのだろうか、獲物を見定めた肉食獣のように真っ赤な舌がアドリアーナの唇を這う。
「王族としては欠陥品。周囲は貴殿をそう評しているらしいではないか。そんな人間を、アクアエリアは本当に欲しているのであろうか?」
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