「……リーフェ、さん?」


 まず真っ先に目に入ったのは、無数の傷を刻まれてもなお白い背中だった。フローライトの衣装ドレス女中メイド服に至るまで腰が絞られた作りになっている。あばらを痛めた身にはそれが辛いのか、それとも無理矢理動くために治療をしていたのか、上半身の衣装を腰まではだけたキャサリンの手にはさらしが握られていた。意識が戻って間がないのか、顔だけを振り向かせたキャサリンの翠玉エメラルドの瞳はトロンと眠気にとろけている。


 だからこそ、今を以ってリーフェは無事に二本の足で床の上に立っていられるのだろう。平素のキャサリンから考えれば……女中としてではなく武人としてのキャサリンから考えれば、この程度の反応で終わるはずがない。


 ――目の前にいるのは、手負いの虎。いや、それ以上の猛獣だ


 女性の半裸を目の前にしても、男のさがなるものは全く騒がなかった。むしろ自分の不幸に全身がざわつき、冷や汗が背筋を流れているのを感じる。


「……」


 リーフェは無言のまま外套マントの留め紐を解くと、外套を脱いでキャサリンに投げて寄越した。キャサリンはその行動に首を傾げながらも、大人しく外套を肩に羽織る。衣擦れの音から察するに、キャサリンは女中服を着直す事よりもさらしを撒く事を優先したらしい。寝ぼけるにしても、もっと正気に戻った時にこっちの身の安全を慮った寝ぼけ方をして欲しいと、珍しく痛み始めた頭を指先で解しながらリーフェは胸中だけで愚痴を零す。


「……生きてらっしゃったんですね」


 そんなキャサリンが、ポツリと言葉を零した。その声音にはやはり、抜けきらない眠気が含まれている。


「殺されてしまったかと……思っておりました」

「何? 君的には、腹黒同士の僕が死んでいた方が都合が良かった?」

「いえ……。安堵、致しました」


 眠気によって枷が外れた本音のように聞こえた。珍しい、とリーフェは僅かに目を見開く。


 サラがキャサリンの事をどう捉えているのかは知らないが、リーフェが思うにキャサリンの本質はここまで無防備に本音をこぼすたちではない。


 キャサリンの根本は、どことなくリーフェに近い。天然に見せ掛けて腹黒く、主のためならば周囲の全てを利用する。主のためならば、自分の身を削る事も厭わない。そんな策士は、己が気を許した人間にさえ、気軽に本音を口にしようとはしないものだ。


 珍しい物見たさに、しばらくお喋りに付き合ってもいいかな、と思った。


 一応の礼儀としてキャサリンから視線を外しながらも、リーフェはキャサリンと対話する姿勢を取る。


「あそこまで……ズタズタにやられた上で敬愛する主を奪われたら……心が、折れます。心が折れた体は、人が思うよりも、ずっと、もろい」


 リーフェがそこにいる事を理解しているのかいないのか、うわ言のようなキャサリンの言葉は続く。


「あの状況は……そうなっても、おかしくなかったものでした」

「心が折れて、再起不能になってたかもって?」


 リーフェの言葉に、コクリ、とキャサリンの頭が肯定するように動く。


「……まぁ、奥の手まで出した上で敗れてるし、図式としては完敗と言ってもおかしくない状況ではあるけれども」


 リーフェはしばらくキャサリンの言葉を胸の内で転がし、言わんとしている所を考えた。


「心まで折れなかったのはきっと、連れ去られた当人であるハイトが、諦めていないからだと思うよ」


 その上で口の端に上がったのは、そんな言葉だった。


「もしもあの時、ハイトが絶望に顔を歪めて、悲鳴でも上げながら強引に連れ去られたのだったら、今頃僕は無力感と絶望感に苛まれて発狂していたかもしれない。そんな状況であんな風に叩きのめされていたら、僕は絶対的な力を前に打つ手がないという現実を突き付けられた事になるからね」


 問うように投げられた視線に答えるというよりも、己の心に向き合うようにリーフェは訥々と言葉を零した。音になった言葉は、自分から零れた言葉でありながら、リーフェの思考に新たな雫を落としていく。まるで泥水を網で濾すかのように、音という網を通して乱れていた心が澄んでいくのが分かった。


「でも、そうじゃない。ハイトは自らの足で、自らの意志を以って、リーヴェクロイツ王に従った。相手に向かって笑みを向けていた。そのどちらもが好意的な感情からではないけれど、ハイトは絶望なんてしていなかった。ハイトは、僕達が救出に向かうのを、信じてくれている。その時までハイトなら必ず己の身を守れるって、僕達は信じている」


 ハイトが別れ際に送ってきた手信号ハンドシグナルの意味は理解している。意識が落ちる前はそれを知っていたからこそ気が逸っていたのだが、今は落ち着いて思考回路を回す事が出来る。


「だから、心は折れない。心が折れなければ、体は多少無理をしても付いてきてくれる。……それに僕には、ハイト不在時に無茶をしないようにって怖い御目付けが二人もいるからね。負の感情に思考を傾けたままでいたらしばき倒されるよ」

「まさしく今のように、ですか?」


 返った言葉に、伏せていた瞳を上げる。さらしを巻いた上から女中服を着直したキャサリンの瞳は、膜を張っていた眠気が薄らいで本来の煌めきを取り戻しつつあった。


「まぁ、否定は出来ないけど」


 キャサリンの正気がどこまで戻ってきているのか窺いながら、リーフェは何と答えるべきかを考える。どう答えれば後々に有利かと思案したが、結局良い返し文句は思い付かなかった。口から零れたのは、曖昧な肯定だった。


「『神さえも疑ってかかる食わせ者』と言われるロベルリン伯も、お目付けの手にかかれば形ナシですか」

「あのね、言っとくけど、僕の専門は策謀なの。戦闘が専門じゃないの。逆に戦闘専門のヴォルトが僕に負けてる方が問題なんじゃないの?」


 どこまでが本音でどこからが冗談かは分からない。だが万が一この問答がキャサリンの記憶に残っていて、後々の雑談に供された時に『ロベルリン伯は自身がマイスト将軍に劣ると認めた』などと言われては堪ったもんじゃない。


 リーフェは険のある口調で切り返すと、キャサリンの脇をすり抜けるようにドアへ向かった。このドアの向こう側に居室リビングとして使える部屋があるはずだ。サラの気配はそちらからしている。ヴォルトもそこにいる可能性が高い。これ以上キャサリンにこの話題で絡まれるのは煩わしいし、さっさとヴォルトに返礼をして現状を確認しなければならない。


「そういえば今更ですが。リフェルダ・ロベルリン・ハイライド様」


 リーフェの本日の大きな失態を三つ上げるとしたら、リーヴェクロイツ王に敗れた事とこの部屋の中に声を掛けずに入ってしまった事、そしてこの瞬間の空気の変化に気付けなかった事だろう。


「なぜ、この部屋にいらっしゃるのです?」

「え?」


 これからの事に思考を切り替えていたリーフェは、一瞬問いが出てきた流れを読み取る事が出来なかった。


 呆けた顔で振り返ったリーフェの頬をかすめて、伸ばされた木槌の柄が扉板に突き刺さる。あまりの鋭さに、木槌が突き刺さった場所からは焦げ臭い臭いが立ち上っていた。


「淑女の着替えを、のぞきましたね?」


 ニコリ、と、木槌を握り締めたキャサリンが、女中として完璧な、そして武人としての豪腕を微塵も感じさせない愛らしい笑みを浮かべる。


 だが周囲の空気に放出されているのは、間違いなく殺気だった。キャサリンを中心に部屋の重圧が変わっていくのが分かる。


「ええっとぉ……」


 リーフェの頬を、一旦引いたはずである冷や汗が流れ落ちていく。思考回路を全力回転させてみたが、こんな時に限って碌な切り返しが出てこない。『アクアエリア第二王子の智恵処』と日頃称賛されている智能が描き出したのは、逃走や応戦といった対応策などではなく、ハイトと出会ってから今までの走馬灯だった。


「……覗いてたんじゃなくて、部屋に入ってたんだけど」


 無意識の内に零していた言葉に、キャサリンがニコリと再び笑みを浮かべる。


 そして目にも止まらぬ勢いで木槌がリーフェの心臓に向かって繰り出された。






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