フワリと、頭を撫でられたのが分かった。


 次いで、トンッと背中を押される。


 ――誰、だろう


 ハイトやヴォルトの手ではない。二人はこんなに柔らかく自分には触れない。やるならもっとガシガシと遠慮なく触れてくるはずだ。


 だがリーフェは、その二人以外で自分の頭を撫でてくる人物に心当たりがなかった。


 自分に二親がいるという事は事実として知っているが、リーフェの記憶の中に『親』と呼べるような存在は居なかった。


 物心付くよりも早く邪水龍の依代よりしろ、贄として捧げられたリーフェの記憶は、ハイトに命を救われた所から始まっている。だから二親がいる事も、血の繋がった兄がいる事も情報としては知っているが、親子として、家族として接した事は生まれてこの方一度もなかった。顔だってまともに合わせた事はないし、そもそもリーフェは会いたいと思った事さえない。そんな感情さえ湧かない程に、リーフェと血を同じくする者との縁は薄かった。


 水のようにたゆたう意識の中で、リーフェはぼんやりと考え続ける。


 そんなリーフェを包み込むかのように、清涼な水が周囲を取り巻いているのが分かった。その水に触れた場所から血と土の穢れが拭われ、傷が癒されていく。リーフェの周囲を取り巻く水は、命を育み命とともに巡る、神気に溢れた恵みの水だった。


 ――ああ、そうか


 その水に姿を隠そうとする気配を捉えて、リーフェはようやく手の持ち主に心当たりがついた。


 ――水龍シェーリン人形ヒトガタは、中性的な面立ちの、細身の武人なんだっけ


 国守の神は、時折人の姿を取るという。その姿を直に見る者は歴史上でも稀だというが、ハイトはそんな奇跡を実にケロッとした表情でリーフェに語ってくれた。それもそうだろう。ハイトは力を失うまで、毎日のようにその奇跡に相対していたというのだから。


 ――君が人形を取った水龍に子守りをされていたっていう事実、まだ城中でも知らない人間の方が多いんだから。みんな龍神の姿の水龍に守られていたと思っているんだから、あんまり気軽に語っちゃ駄目だよ。


 そんな事を思っている間に、身体の感触は刻々と戻ってきていた。水の中に溶けた水龍の気配はもはや遠い。水龍は、リーフェに目覚める事を求めている。目覚めて、ハイトの役に立てと命じている。


 ――そうだね、いつまでも黙ってらんないよね。ヴォルトに対しても。


 ヴォルトの事を思い出したら、ムカっ腹が騒いだ。


 ――いや、僕が悪いってのは分かってるよ? 分かってるけどさ、君、職業柄怪我には詳しいでしょ。肋骨が逝ってるかもしれない人間の鳩尾に拳を叩き込むってどういう事なのさ?


 ヴォルトがリーフェをこの娼館に運び込んだ時、リーファは微かにだが意識があった。だからヴォルトに必死に訴えたのだ。今すぐにでもハイトを迎えに行く。自分なら大丈夫。ヴォルトが行かないと言うならば自分だけでも行くから手を離せ、と。


 そんなリーフェに返されたのが『つべこべるっせぇっ!! 実力行使で沈めんぞっ!!』という言葉と同時に繰り出された容赦ない拳だった。


『実力行使で沈める』と予告するのと実際に行使するのがほぼ同時ってどういう事なの、という文句を最後にリーフェの意識は闇へ落ちた。


 ――真っ先に返礼に行くから、待っていなよね


 心に決めて、体の反応を確かめる。


 リーヴェクロイツ王に完膚なきまでに叩きのめされた体は、水龍の神気を受けてほぼ完全に回復していた。痛みはどこにも感じないし、動かしても違和感はない。穢れを祓われた肌にサラリと流れる水の感触が心地良く、五感が冴え渡っている事が分かる。


 体に無茶な回復を強いたのだから、治った部分が脆いままなのは仕方がない。激しい戦闘にでも出ない限り、動く分には問題ないはずだ。


 それだけの事を確かめてから、閉じていた瞳を開く。その瞬間、水龍の気と分断された体が空気を求めて躍動した。体が勝手に暴れて頭が水面を突き抜ける。


「ゲホゲホッゲホッゴホッ!! ガッ……はっ……はっ………はぁっ…………」


 足が底石を蹴り、体が安定する。荒く息を吐きながら周囲に視線を走らせると、自分が放り込まれていたのが中庭の泉水の中だったと分かった。落ち着いて足を着いてみれば、水位はリーフェの腰下までしかない。リーフェが感覚で捉えていた無限に続く水界は、水龍の神気で創り出された異界だったのだろう。


「……というか」


 回復させるために自分を水に沈めておくというのは、有効な手段だとは思う。


 だがこんな場所に放り込んでおくというのは、如何な物なのだろうか。


「泉水って言えば聞こえはいいけどさ……これ、多分、洗濯物とか汚れ物を洗う、洗い場の一部だと思うんだよねぇ……」


 ほぼ正方形の中庭を分断するように造られた泉水は、真ん中辺りで一度長方形の泉に貯め込まれ、前後は水路のようになっている。客室から覗けるという立地上、作庭エクステリアの一部に見えるように工夫されているが、泉水の傍らに造られた幅広の階段といい、いかにも洗濯作業に便利そうな階段先の平地といい、庭木の中に巧妙に隠された物干縄ロープといい、ここが家事に使われているという事実は明白だ。何よりこの水辺の造りがアクアエリア王城の洗い場にそっくりである。


「そりゃあさ……あれだけ泥だらけだったら、洗濯物みたいな物だろうけどさ……」


 首元と両手首を確かめると、あの時外した銀飾りが戻ってきていた。きっとヴォルトが泥の中から探し出してくれたのだろう。


 王藍玉リラ・アクアマリンは触れた水を浄化し、水龍の神気を帯びた御神水に変える事が出来ると耳にした事がある。ヴォルトもこの銀飾りがあればどんな水でもリーフェを回復させてくれると分かっていたからここに突っ込んでおいたのだろうが、何となく釈然としないのは何故なのだろうか。


 リーフェは瞳を眇めながら階段脇へ上がった。貼り付く前髪を片手で掻き上げて、眼鏡がない事に気付く。ヴォルトが預かってくれているのか、あの攻撃でなくしてしまったのかまでは分からなかった。


「チッ……!! 先の旅の後に買い替えてもらったばっかだったのに……っ!!」


 舌打ちとともに『水繰アクアリーディ』で全身の水気を吹き飛ばすと、リーフェは衣の乱れを正しながら建物へと足を進めた。この娼館は、前の旅の時にも宿を求めた場所だ。以前の訪いで建物内の構造は完璧に頭に叩き込んである。


 一行が匿われるとしたら、前回も提供してもらった奥部屋しかない。あの部屋以外だと客が間違えて入り込みかねないからだ。娼館側がそんな危ない場所にヴォルトの連れを匿うとは考えられない。


 そう当たりを付けると、リーフェは軽く首を回しながら二階の窓を眺めた。四方を見回し、恐らくあの部屋の灯りが件の奥部屋だろうと見当を付ける。


 その灯りの下にバルコニーがある事を確認してから、リーフェはトントンッと片足の先で軽やかに拍子リズムを取った。そしてその勢いに乗せて己の体を宙へ押し上げる。


「よっ! とっ! ほいっ!!」


 リーフェは決して体格に恵まれている方ではない。その体で重い拳銃を扱うためには、何はともあれ支えとなる足腰の鍛錬を疎かにしてはならないとヴォルトに諭され続けてきた。リーフェの壁上りは、足腰の鍛錬の一環であり、副産物でもある。


 案外副産物も役に立つよね、などと考えている間に、リーフェは目標に定めたバルコニーの手摺りを飛び越えていた。膝を軽く曲げて衝撃を殺し、ゆっくりと体を起こしてから手首や足首を回して調子を確かめる。


 大人しく階段を使って上がって来なかったのは、すでに営業を始めた娼館の客と鉢合わせになるのを避けたかったからというのも勿論あるが、己の体の調子を確かめたかったという理由の方が強い。


 ――この分ならば、思っていた以上に動けそうだね


 一通り見分を終えて、小さく安堵の息を吐く。同時に、自分の不甲斐なさで他国の王宮へ連れ去られた主の事を思った。


 あの瞬間、確実に自分はハイトの心を傷付けた。ハイトが自分に向ける温かな心を無碍にしたのだと、分かっていた。


 あの時の判断と方針が間違っていたとは思っていない。あの状況を切り抜けるためにはあの方法しかなかったのだと、今でもリーフェは思っている。


 でも、だからこそ、今度は自分の命を無駄にするような行動をしてはいけないのだと、リーフェは心に深く刻んでいた。


「……まぁ、それでも……いざとなったら、削る事に躊躇いはないけども」


 その削り時は、自身の在り様に添う場面でなければならない。そしてその場面を、今回の旅の間に作ってはならない。出来れば旅が終わっても、ずっと、この先も、そんな場面は作り出してはならない。それがリーフェに出来る、ハイトの心に報いる唯一の方法だ。


「……ん。まぁ、頑張るよ」


 リーフェは深い溜め息とともに反省を終えると、気分を切り替えて中の気配を探った。


 実を言うと、リーフェの『水繰』を使った気配探知はそれほど精度の良い物ではない。ハイトのように特殊で普段から親しんでいる気配ならば離れていても追えるが、王族に連ならない人間の気配は実の所、常人に毛が生えた程度の感知しか出来ない。武人として鍛えたヴォルトの勘の方がよっぽど正確だ。


 サラやキャサリンは王族の血が入っているから、気配の中に常人にはない色が混じる。リーフェはその色の違いを察知しているだけにすぎない。例えるならば、水の中に同じ水を落としても見分けは付かないが、色を着けた水を落とせば軌跡を追う事が出来る。そんな所だろうか。


 ――まぁそれだけでも分かれば、そこそこに便利なんだけど


 そんな事を思いながら室の中に気を凝らす。カーテンの閉じられたすぐ向こうに微かな赤い気配が、距離を置いて強い琥珀の気配があった。赤はボルカヴィラの血を引くキャサリン、琥珀はフローライトの血を引くサラだ。


 ヴォルトは王族の血を持たないただの貴族だから、ここからでは察知する事は出来ない。だが二人の気配がここにあるという事は、一行のために用意された部屋がここであるという事に間違いはないだろう。


 ガラス窓は鍵が開けられているようで、軽く押すと抵抗なく開いた。あまり外から声を上げて他の客に目を付けられても面倒臭いし、何より中にいるキャサリンはリーフェ以上、ヴォルト未満のそこそこの武人だ。声を掛けなくても気配くらい察しているだろうと、リーフェは無言のまま硝子窓の隙間に身を滑り込ませ、後ろ手で窓を閉める。


女中メイドさん、ヴォルトとサラは向こうのへ……」


 その判断が間違いの元だったと知ったのは、声を上げた後だった。






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