蚊帳の外の御茶会

 溜め息が零れても、仕方がない状況だと思う。


「あら、どうしたのよ色男。溜め息なんて似合わないわよ」


 建物の裏口から中へ入り、扉を閉めた所で女がしな垂れかかってきた。下着に等しい薄着姿で身を寄せられれば、服越しでも柔らかな熱が伝わってくる。


 それでも溜め息しか出てこないのだから、自分は相当落ち込んでいるようだ。


「悪ぃな姐さん、辛気臭いツラで押し掛けちまってよ」

「よしとくれ、旦那。あたしらの仲じゃないのさ」


 重傷人のリーフェと泥だらけで気を失ったキャサリン、同じく泥だらけで茫然自失状態のサラを連れてヴォルトが訪れたのは、馴染みのある娼館だった。


 禁軍将軍として公務に出る事も多いヴォルトは、各地に馴染みの娼館を持っている。今回使った娼館も、公務の中で作った伝手つての一つだった。


「お連れのお嬢ちゃん方は、風呂に入れて部屋へ通しておいたよ。ショートカットの方のお嬢ちゃん、肋の一本や二本は逝ってそうなケガだったね」

「目、覚ましたか?」


 ヴォルトの問いに、娼婦達に一姫姉様プリマと敬われる看板娘は首を横へ振った。細い指先に手挟まれた東方産の煙管からは気だるく煙が漂っている。


「……そうか」


 その煙を眺めながら、そういえばその煙管は自分が持ってきた手土産だったなと思った。特に情を抱いたから持ってきたわけではなく、何となく前に足を向けた時に彼女に似合うだろうなと思って持ってきた品だ。相手もそれが分かっているから、品の扱いはぞんざいだ。いたる所に付いた傷は、不埒な客をぶん殴る時にでも出来た物だろう。


 ――……あー…、前に一姐さんの煙管を見たハイトが、そうやってそそのかしてたもんなぁ……。実行したんだな、こりゃあ。


 一番直近でこの娼館を訪れたのは、サラの一件で国境を越えた時だった。城を出た初日の宿をここに願った。思えばあの時は男三人で押し掛けたにも関わらず、女達を部屋へ上げる事も、豪華な酒や料理を頼む事もなかった。娼館側から見れば、随分とシケた客だった事だろう。


「そういや今回、前に一緒だった兄サン達は?」


 その時の光景が脳裡に去来して、拳に力がこもった。それを見たわけではないだろうが、女が問いを口にする。


「……眼鏡の方の兄さんは、中庭の泉水に突っ込んどいた。もう一人の兄さんは、今回は別行だ」

「中庭の泉水?」

「そ。重傷人の兄さんにはあれが一番だかんな。しばらく中庭に人が入らねぇようにしといてくんねぇか?」

「別にいいけど……重傷人にそんなことしていいのかい?」

「いーのいーの、パッと見は水死体だが、あいつにはあれが一番の薬なんだ」


 ヴォルトの言葉に、女は眉をしかめながらも曖昧に頷いた。そんな女を自分の傍らからそっと離し、軋みを上げる従業員用の裏階段に足を掛ける。


「人が必要になったら呼んどくれ。誰にでも声をかけてくれればいいから」


 後ろから投げられた声に、振り返る事なくヒラリと片手を振る。彼女にならばこれだけで謝意は通じるはずだ。


 ――これからどーするよ?


 足を動かしながらも考えるのはその事ばかりだった。


 リーフェとキャサリンは戦力としてはアテに出来ない。いや、リーフェに限っては気合で無理にでも動きそうだが、あまり無茶をさせるわけにもいかない。そんな無茶が後でハイトにバレたらこっぴどく叱られそうだし、そもそもその無茶はリーフェの命を削る。


 それでもリーフェは、必要となればそれくらいの無茶はするだろう。ハイトに叱られても悲しまれても、ハイトという存在が賭けられればリーフェは止まらない。リーフェのそんな性状が分かっているからこそ、ハイトもリーフェの傍らに常にヴォルトかハイト自身がいるように人を配置する。


 ――だが今回は、俺でも止められるかどうか………


 どうせならリーフェも連れてってくれよなぁ、と心の内で明るく呟いてみても気分はまったく晴れない。それどころか余計に溜め息が零れてくる。


 ヴォルトはもう一つおまけに溜め息を吐き出しながら用意された部屋の扉の前に立った。


 娼館が用意してくれたのは、上客が使う二間続きの奥部屋だった。この一角ならば他の客は近付けないし、娼館の者の目も行き届いている。


 安心して滞在出来ると分かっているはずなのに、ヴォルトは武官としての癖でサラリと周囲に視線を巡らせた。守るべき主はここにはいないのに一体自分は何を警戒しているのだろうと、そんな自分が無性に虚しくなる。


「入るぞー」


 そんな虚しさを打ち消したくて、声には今出来る精一杯の明るさを込めた。


「あら、お帰りなさい」


 だがその声に応えがあるとは思っていなかった。


「ヴォルト、さっそくで悪いけれど、ここはどこなのかしら?」

「お、おぉ……。馴染みの娼館に転がり込んだんだ。信頼出来る所だから、身の安全は保証する」

「そう。リーフェの姿が見えないようだけれど」

「怪我と汚れが酷かったから別の場所に転がしてきた。あいつも大丈夫なはずだ」


 ソファーに姿勢正しく腰掛けたサラは、瞳を煌めかせながらひたとヴォルトを見据えた。濡れ髪のまま、元々着ていたドレスよりも質素な下町娘のドレスを身に纏っているというのに、その姿はいつになく王女の威厳に溢れている。


 ――復活した、のか?


 ヴォルトが半ば引きずるようにサラをここに運び込んだ時、サラは口が利けないほど放心していた。全身泥に塗れた事か、死ぬような目に遭った事か、腹心のメイドをボロボロにされた事か、そのどれに魂を抜かれてしまったのかは分からない。だがサラは息をするのもやっとという状態だった。その事に間違いはない。


 ヴォルトは思わず目を瞬かせながらサラを観察した。


 常よりも琥珀の瞳を強く煌めかせたサラは、ヴォルトを見据えたまま両手で髪の水気を拭っている。その手の動きが、心なしか荒いような……


「そう、娼館なの。だから胸が大きくて綺麗な女の人がたくさんいたのね。『胸が小さい子用のドレスなんてあったかしら?』ってなるわけねっ!! 好きで貧しいんじゃないわよ育たないのよっ!!」


 ――いや、王女が貧しいって………


 これ以上似合わない単語もないのではないだろうか。


 ヴォルトは扉を閉める事さえ忘れて胸中でツッコミを入れた。それを無意識にでも口先に出すような不粋な真似はしない。それが仮にも伊達男で通っている男の心得である。


「あんなの脂肪の塊じゃないのよ!! どうして男っていうのはそんな脂肪に惹かれるわけっ!? ねぇ! ハイトもやっぱり胸の大きな女の人の方が好きなのっ!? どうなのよヴォルト!!」

「いや……ハイトがそんな事を言った覚えはないが……」


 どうやらサラは、猛烈な勢いで怒っているらしい。その怒りがサラを復活させたという事だろうか。


 ――というか、ハイトがどうこうって、気にしてんのか


 その事が、ヴォルトにとっては意外だった。


 王族の婚姻に、当人同士の意志は関係ない。国と国、血族と血族の思惑が絡んだ、謂わば政略の一つの形だ。ハイトとサラだって例外ではない。二人の婚姻にはアクアエリアとフローライトの思惑が複雑に絡み、現に当人同士の意志とは関わりのない所で話は粛々と進められている。


 ハイトはそれを理解しているし、口では何と言おうとも、それが己の抗いようのない宿命だと内心では受け入れているようにヴォルトには思える。優しすぎるハイトの事だ。己の心を相手に寄せる事が出来なくても、相手を蔑にするという事は決してない。だがそれ故に、相手に心苦しさを抱く事になるだろう。


 そんな事態だけにはなって欲しくないと、ヴォルトもリーフェもずっと願ってきた。そのために暗躍する覚悟はもちろんあったが、最近はその暗躍の機会も巡っては来ないだろうと何となく安心している。


 ハイトは政略や国の思惑に関係なく、サラの事を好ましく感じている。


 奥手……と言うよりも、周囲の自由奔放さに振り回されて自分の事にかかずらっていられなかったハイトの周囲には、今までその手の浮いた話は一切なかった。そんなハイトがようやく心に描くようになった女性だ。ヴォルトとしては是非ともこのまま順調に話が進んで欲しいと思っている。


 だがサラの方はハイトをどう思っているのか、ヴォルトは知る機会がなかった。サラと顔を合わせたのは前の旅の一件だけだし、その一件でだって落ち着いて話をしたわけではない。


 サラは、近隣諸国の中でも一際格式高く矜持プライドも高いフローライト王国、その唯一の直系王族だ。フローライト王宮で張り巡らされる策謀は、アクアエリアの比ではないだろう。加えて男女の立場の違いもある。サラの方は感情など関係なく、ただの政略相手としか捉えていないかもしれないと漠然とした不安を抱いた事がないと言えば嘘になる。


「……ちょっとヴォルト、どうしてそんなに嬉しそうな顔しているのよ?」

「え?」


 何やらブツブツと文句を続けていたサラがじっとりとした目をヴォルトに据える。反射的に片手で口元を擦れば、確かに己の口元はうっすらと笑みを刻んでいた。


「何よ、私が真剣に悩んでいるっていうのにそれを笑うっていうのっ!?」

「いや違う違う、凹んでたサラがとりあえず元気になって良かったなと思ってたんだ」


 サラはフローライトの王族だ。サラに嘘は通じない。だが口に出した言葉も、嘘ではない。


 ヴォルトは嘘を吐くのではなく、本心の一部を伏せて言葉を発した。サラはその言葉を吟味するように瞳を眇めたが、嘘のない言葉に嘘を見つける事はいくらフローライト王族といえども出来る事でない。サラは不満をわずかな吐息に混ぜて零すとプイッとヴォルトから視線をそらした。


 ――いやな、ハイトに良い相手が見つかったな、何て言葉は、やっぱりハイトが帰って来てから口にしたいんだよな、腹心としては


 サラへの言い訳を胸中に転がしながら、ヴォルトはサラが座るソファーと対面に置かれたソファーへ腰を下ろした。


「隣の寝室にキャサリンが寝かされているはずだ。……会ったか?」


 ヴォルトは静かに切り出した。


 その言葉にサラは顔をそらしたまま唇を開く。


「……ありがとう。手当てと着替え、私だけだったら、ここまでしてあげることはできなかった」


 サラは髪に添えていた両手とタオルを降ろすとヴォルトへ顔を向け直した。


「ごめんなさい。事を焚きつけたのは私だわ。私が敵を追いかけることをけしかけたりしていなければ、ハイトがリーヴェクロイツ王宮へ連れていかれることはなかった。リーフェやキャサリンが大怪我をすることもなかったはずだわ」

「こっちが追う、追わずに関わらず、リーヴェクロイツ側は遅かれ早かれハイトと接触した。接触されればハイトもリーフェも戦う道を選んだはずだ。どう転ぼうともこうなっていたんだ。サラが気にする事じゃねぇよ」

「……珍しいのね。ハイトに関することなのに、嘘がないわ」

「まるで俺がハイトの事で毎回毎回嘘を言ってるような言い方するんだな」


 険しい表情でヴォルトの言葉を吟味していたサラの肩から僅かに強張りが取れる。そんなサラにヴォルトは力の抜けた笑みを向けた。


「ハイトの人生は、ハイトのもんだ。俺はハイトの運命もハイトのもんだと思っている。ハイトは自らの手でこの運命を選んだ。俺はハイトの運命がより良いもんであるよう常々心の底から祈ってはいるが、ハイトが自ら選んだ運命に口を挟む事は出来ない。その領分に入っちゃいけないと思ってる」


 ヴォルトの言葉をサラは静かな瞳で聞いていた。


 己の声がサラの心に届いている事を確かめながら、ヴォルトは言葉を続ける。


「リーフェにしても同じだ。リーフェが自ら選んだ運命でボロッカスになったんなら、『しゃあねぇな、もう少し厳しく鍛えてやんねぇと』くらいにしか思わねぇよ」

「……運命論者ね」

「遊び人してるとな、運命を信ぜざるを得ない時もあんのさ」


 軽く肩をすくめるとサラはわずかに笑みを浮かべた。サラがドン底を脱した事を確かめたヴォルトは、切り出すタイミングを見計らっていた言葉をようやく口にする。


「それに今のハイトには、救出するまでに一日二日の猶予がある。だからなるべく前を向いていたいんだ。事の反省はハイトを救出してからでも出来るが、ハイトの救出は今しか出来ない。こういう事でも口にしてねぇと、中々顔を上げてらんねぇからな」


 その言葉に、サラの瞳が大きく見開かれた。


「救出するまでに一日二日の猶予があるってどうして言えるの? リーヴェクロイツ王のあの様子からだと、すぐによからぬ手が伸びそうなのに……」

「ハイト自身が、別れ際に手信号ハンドシグナルでそう言ってきた。だから俺達は、それを信じる」


『俺達』という言い方にリーフェも同意だという意図を込める。


 もっとも、リーフェはあの符丁の意味を理解している癖に、今すぐにでも飛び出して行きそうになっていたから、ヴォルトが半ば強制的に泉水に沈めてきたわけなのだが。


「右手の人差し指で一回転、これで『一日』。さらに中指を追加して一回転、これで『二日』。最後に全ての指を伸ばして二回転。この符丁は時と場合で意味が変わるが、今回の場合は『持たせる』。統合トータルで考えると『一日二日は持たせるから、必ず迎えに来い』って感じだな」

「いつの間にそんなやりとりを……」


 驚きの言葉を零した唇がキュッと引き結ばれる。その動きだけでサラも自分達と思う事は同じだと察したヴォルトは身を乗り出した。


「リーフェとキャサリンはあんな状態だ。無理に頼る事は出来ない。サラ、知恵を貸してくれねぇか。ハイトを取り戻すのに、知識大国フローライトの知恵がいるんだ」

「ヴォルト、頼むのは私の方よ。あなたの武力を私に貸して。敵を、真正面から叩き潰すために」


 サラの瞳が強い意志を受けて煌めく。その様はどこかハイトに似ていた。


「喜んで。歪み真珠バロックパールの姫君」


 ヴォルトはその瞳を凶暴とも言える笑みで受けた。


 サラはその笑みに鷹揚な首肯を返す。


「あのね、ハイトと一緒に実行しようとしていたプランがあるの。ハイトと二人で、ヴォルトやリーフェ、キャサリンにも手伝ってもらおうって話していたんだけど……」






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