「おや」


 ハイトがあえて声を上げることでアドリアーナの視線を引き付けた一瞬でリーフェはアドリアーナの眼前まで踊り出ていた。わずかな足場を蹴り付けてバルコニーまで駆け上がったリーフェは、拳銃を打撃武器代わりにしてアドリアーナの懐に入り込む。


 『地繰クロイティーディ』に遠距離攻撃が阻まれるならばその防御が追い付かない距離に入り込むしかない。だがそんな考えは甘いと言わんばかりにアドリアーナは軽い足捌きでリーフェの攻撃を避け続ける。


「っ…!!」


 纏った衣服の豪奢さからは想像も出来ない軽やかな身のこなしで全ての攻撃を避けたアドリアーナは、リーフェの攻撃範囲内から優雅に身を外した。追いすがるように撃ち込まれた弾丸は、やはり『地繰』によって瞬間形成される壁に阻まれる。


「いくら撃ち込もうとも、私に地熊イアトがついている限り無駄なこと」

「ならば」


 崩れる壁の向こうから笑みを浮かべたアドリアーナが姿を現す。そのアドリアーナに向けて、リーフェは再び銃口を向けた。その筒先に淡い燐光が纏い付く。


「これでどうだっ!!」

「笑止」


 撃ち出される弾丸が、燐光の膜を通る事で奏でる音を変える。だがその事に気付いたのは、毎日のようにその音色を耳にするハイトとヴォルトだけだったのだろう。その証にアドリアーナは嘲笑を浮かべて『地繰』の力を振るう。


 だが次の瞬間、その余裕は崩れ落ちた。


「なっ……!!」


 弾丸が空気をえぐるように進み、土の盾に穴を空ける。アドリアーナの元まで届いた弾は、勢いもそのまま長い髪を一房食い千切って背後の硝子窓を割った。反射的に体を捻って直撃は避けたアドリアーナだが、その顔に刻まれた驚愕までは隠し切れない。


 リーフェはその隙を逃さず畳み掛けるように引き金を引き続けた。そのことごとくがアドリアーナの盾を貫き、髪に、衣に跡を残す。


 今やその場に足を踏みしめているのはリーフェの方だった。アドリアーナはバルコニーの中を飛び回るようにしてリーフェの攻撃を避け続ける。無意識の内に創られ続ける盾が、リーフェの弾丸に撃ち抜かれて片っ端から土塊と化して地へ戻っていく。


「降伏、しろっ!!」


 だが決してリーフェに余裕が出来たというわけではない。


 バルコニーの一角に足場を固めたリーフェの肩は、遠目でも分かるほど一息ごとに上下していた。不自然に荒れた呼吸を宥めすかすように右手の銃を後ろ腰に返したリーフェが、左手の銃を両手で構え直しながら苦しい呼吸を押して叫ぶ。


「ハイトを追わないと宣言しろっ!! 二度と手出しをしないと誓えっ!! さもなくば、ここで殺すっ!!」

「……ほぅ、そんなに威勢のいい言葉を吐かなければならないほど、余裕がなくなってきたか」


 その不自然さに気付かないアドリアーナではない。リーフェの攻撃は、平静を奪い切れるほどアドリアーナを追い詰められてはいない。


「そなた、銃弾に『水繰アクアリーディ』の力を込めているな? 力を凝縮して弾丸にまとわせ、その力を利用して弾が通るだけの穴を空ける。こちらはただの弾と油断しておるからのぉ。『水繰』を撥ね返すほど力は、盾には込めておらん。結果、ただの弾が我が盾を通る。実に上手い。……だが」


 リーフェの指が引き金を引く間隔が広くなり、ついに拳銃は沈黙した。それに反比例するかのようにリーフェの息は荒くなる。肩と言わず全身で息をするリーフェを前に、アドリアーナは憐憫とも感嘆ともつかない笑みを向けた。


「火薬を扱う銃器と水龍シェーリンが放つ水気は本来相性が悪い。よほどの集中力を発揮しなければ、火薬が湿気て弾が飛ばなくなる。その技、本来は連発するものではあるまい。いくらそなたがアクアエリア一の水遣いであろうとも、全身全霊を一弾一弾に乗せるような集中力は長くは続かぬ」

「っ……、それが! 何っ!?」


 リーフェの指から拳銃が擦り抜けて落ちる。銃を支える力さえ使い果たしたリーフェは、それでもアドリアーナに屈しようとはしなかった。力の入らない腕を肩の関節と遠心力を使って無理矢理横へ振り抜く。その軌跡に青い燐光が舞った。


「集中力が切れたからって、それで終わりじゃないんだよっ!!」

「リーフェッ!!」

「愚かな」


 カーテン状に舞った燐光が水滴へ変じ、瞬き一つの間に水隗に成長する。ただの水隗ならば、リーフェにとっては息をするように簡単に創り出せる代物だ。強大な『水繰アクアリーディ』の力に物を言わせた攻撃がアドリアーナに襲いかかる。


「馬鹿っ!! リーフェ、もう引けっ!!」


 リーフェの足元に転がった二丁銃の片割れが召喚された水に押されてハイトの足元まで転がり落ちる。アドリアーナの姿は勢いを増した水隗に呑まれて見えなくなった。だがハイトの中にある危機感は、収まる所かさらに強くなっていく。


 リーフェが操る水は、徒人にとっては大きな脅威だ。他国の王族にとっても、直系王族を凌ぐその力は脅威に違いないだろう。


 だがその脅威が、地を操るリーヴェクロイツ王族にだけは通じない。


「土は水を堰きとめ、よどませ、吸い込み、いずれその懐へ呑み込むモノ」


 ハイトの危惧は最悪の形で当たった。


 アドリアーナを押し包む水隗を突き破って現れた石の鞭が容赦なくリーフェの足を掬う。アドリアーナの盾を破る事に精神力を使い果たし、それを補うために体力も根こそぎ奪われたリーフェに水隗を目隠しに突き進む鞭を避ける術はない。リーフェの体は信じられないくらいあっさりと跳ね飛ばされ、バルコニーの手摺りに叩き付けられた。


「リーフェッ!!」

「ロベルリン伯、貴殿は智恵者として名を馳せているが、なぜこの中庭がかように殺風景なのか、少しでも理由を考えたか」


 笑みを含んでいるのにゾッと寒気をもたらす声音で囁いたアドリアーナが中庭に立ち尽くすハイトへ視線を落とす。言葉はリーフェに向けられているのに、アドリアーナはやはりハイトにしか意識を向けていなかった。その粘着くほどの執着が、リーフェに向けられていたハイトの意識を引き戻す。


 それと同時にアドリアーナの言葉の意味を考えたハイトは、ようやくこの中庭の意味に気付いた。とっさに視線はサラを探している。ハイトの視線に気付いたサラは、いまだアドリアーナの言葉の意味が分かっていないようだった。


「サラ!! 何でもいいっ!! 『詞繰ライティーディ』でこの中庭の土を覆い隠す物を…っ!!」

「遅い」


 一瞬前のリーフェを真似るかのようにアドリアーナが腕を翻す。その腕の下から舞った燐光の色は黒。そこまで見てようやくハイトの言いたい事を悟ったサラが慌てて宙に指先を滑らせる。


「『ルードラシア』っ!!」


 宙に描き出された単語は、かろうじて土がうねり出すよりも早く効力を発揮した。サラの足元を中心に生み出された樹木が、足を絡め取ろうと蠢く土の触手を弾き返す。だが抵抗出来たのも最初のほんの数瞬だけで、うねる大地に生まれたばかりの樹木は呑み込まれた。それどころか、へし折られた樹木片がサラの足を狙うあぎととなって牙を剥く。


「キャァッ!!」

「姫様っ!!」

「サラッ!!」


 キャサリンがサラを片腕で攫って宙へ逃れる。開いた顎はサラの足を捉えることなく宙を噛んだ。だがその陰を回るように宙へ伸びた土の触手がキャサリンの足首を捕える。のた打ち回る龍の尾のように暴れた触手は、キャサリンとサラを振り回すと苛立ちをぶつけるかのように建物の壁へ叩き付けた。鈍い音が響き、建物の外壁が崩れる音が続く。


「キャサリンッ!!」


 サラの悲鳴が響く。キャサリンは自分の体を盾にしてサラの身を守っていた。だがこんな攻撃を続けられたら、いつまでサラを庇い切れるか分からない。何より、このままではキャサリンの命が危ない。


「……っ!!」

「ハイト!! 他所に首突っ込もうとすんじゃねぇっ!! 今は自分の身を守る事だけ考えろっ!! 相手の狙いはお前だっ!!」

「だが……っ!!」

「だがもクソもねぇっ!! 最悪の場合は、お前だけでもこの場を脱出するんだっ!!」


 中庭が荒れるよりも早くヴォルトは敵陣を突破していた。今やヴォルトの前に立っているのは大将格の男一人。その男もヴォルトに押されて下がり続けたためなのか、戦いの場を中庭から建物の中へ移している。


 建物中にいても、ヴォルトは音と気配でバルコニーの上も中庭の状態も察しているはずだ。だがそれでも、ヴォルトは下がってリーフェを助けようとはしない。それどころかさらに相手を押し込み、建物の奥へ入り込もうとしている。ヴォルトは最悪の場合を想定して、このまま建物を通じて外へ出る突破口を開く心積もりなのだ。


「逃がすものか」


 ヴォルトの声を聞き付けたアドリアーナが再び腕を振るう。だがその腕の動きは不意に響いた銃声に止められる。


「だから……っ!! 僕が相手だって……言ってるだろ……っ!!」


 息も絶え絶えに吐かれた言葉に、アドリアーナは感情の失せた顔を向けた。


 その視線の先にいるリーフェは、もはや立っているのか手摺りに引っ掛かっているだけなのかも分からない状態だった。それでもリーフェは、手元に残った銃の先をアドリアーナに向けている。


「リーフェッ!! お前、それ以上は……!!」


 リーフェが構える銃の先は大きく揺れ動き、照準が定まっていなかった。いつも悠然と二丁銃を構えるリーフェの腕が、両腕を以ってしてたった一丁の銃を支え切れずに震えている。


「……死にたいか、ロベルリン伯」


 アドリアーナの声は、表情よりも冷えていた。感情を全て削ぎ落とした声音には、傲慢な意志だけが宿っている。その冷たさに、ハイトの背筋がザッと総毛立った。


「出来るものなら、やってみなよ。間違いなく、国際問題になるだろうけどね」


 リーフェがその冷たさを察知出来ないはずがない。


 だがそれでもリーフェはアドリアーナに嘲笑を返す。


「笑止。国際問題にするならば、すでに今の時点でもできよう」

「人が死なない限り、いくらでも事は揉み消せる。だけど、人の死は誤魔化せない。この僕をしてもね」


 窮地に立たされているのはリーフェの方であるはずなのに、リーフェの言葉には高い場所からアドリアーナを見下ろすかのような響きがあった。ここまで追い詰められているというのに、リーフェはさらにアドリアーナを挑発している。


「試してみたいと言うならば、やってみれば?」


 その言葉か、態度か、笑みかは分からない。


 だがその中の何かがアドリアーナの逆鱗に触れた。


 ザンッと空気を断ち切るかのように、燐光さえ飲み込む鋭さで石の鞭が飛ぶ。バルコニーの石材から作り出された鞭はリーフェの両腕を叩いて銃を叩き落とすとそのままリーフェの体を締め上げた。キンッ、と、リーフェの手元から落ちた金属が甲高い音を立てる。


 その瞬間、ハイトはリーフェの目論見を悟った。


「リーフェッ!! よせっ!! やめろっ!!」


 血相を変えたハイトの叫びにリーフェの口元が笑みを含む。だがその笑みは一瞬で掻き消えた。体を締め上げる圧に耐え切れず、リーフェの口元から朱色の霧が上がる。それでもアドリアーナは鞭を解く素振りを見せない。


「リーヴェクロイツ王っ!! やめてくれっ!! 貴方の狙いは俺だろっ!! 関係ない者を痛め付けて何になるっ!?」

「貴殿に私の誘いを断らせる要因となっているのは、この者達なのであろう? ならば全て始末してしまおう。そうすれば貴殿は何の憂いもなく、私の宮を訪れることができる」


 アドリアーナはリーフェへ片腕を向けたまま、もう片方の腕を中庭へ伸ばした。スッと何かを摘み上げる動きに合わせてハイトの背後でゆったりと触手が立ち上がり、まるで浜辺に津波が押し寄せるかのように背後の建物に向かって蠢いていく。


「……っ!? 何よっ!! 来ないでよっ!!」


 その先にはサラとキャサリンが倒れていた。うつ伏せで倒れるキャサリンの下からサラの悲鳴が響く。キャサリンは気を失ったのか、サラの悲鳴を聞いてもピクリとも動かない。サラはそんなキャサリンを連れて逃げようともがくが、サラがキャサリンの下から抜け出すよりも、触手がキャサリンごとサラを壁際へ押し流し、縫い留める方が早い。肩まで泥に覆い尽くされてしまったサラに反撃の手段はなかった。


「サラッ!!」

「……っ!!」

「王宮騎士団の名にかけて、貴様は私が止めるっ!!」


 中庭の惨状を見たヴォルトがさすがに引き返そうと身を翻す。だがその前に滑り込んだ男がすかさず剣を繰り出した。せわしなく響く剣劇の音が、ヴォルトの助力も望めない事をハイトに突き付ける。


 ――どうする……っ!? どうすればいい……っ!?


 中庭の中で泥を被らず、無傷で立っているのはもはやハイトだけだった。だがそれはハイトに戦う力がなく、アドリアーナが意図してハイトを戦いに巻き込まなかったからにすぎない。その立場を逆手に取って、リーフェとヴォルトはハイトだけでもこの場から離脱させようとしている。だがその策の中に、当の二人の身を守る手立ては最初から盛り込まれていない。サラとキャサリンの命を守る術もだ。


 ――どうすればあいつらを守れるっ!? どうすれば事態を好転させられる!? このままじゃ……っ!!


 ハイトの読みが当たっているならば、リーフェの命が危ない。最悪の展開しかハイトの脳裏には浮かばない。


「……っ、リーヴェク……」

「屈しなくていいんだよ、ハイト」


 その予感を裏付けるかのように、場違いなほどに穏やかな声が聞こえた。


「分かっていたさ。土剋水。水は土に堰き止められる。土も石も玉もリーヴェクロイツの支配下だ。水龍の水は、地熊の土には通用しない」


 鮮血を口元から滴らせながらも、リーフェの声音は怖い程に冷静だった。締め上げられた事で乱れた襟元からリーフェが常に着けている首飾りが姿を見せ、そのままスルリと外れる。シャラリと、泥に汚れてもなお輝きを放つ銀飾りが、幽けき音を奏でながらリーフェの足元に落ちる。


 その瞬間、リーフェが放つ気配が歪んだ。


「でもそれは、国守の神の水龍に限っての話」


 ザワッと空気が揺れる。リーフェの気配に触れた場所から、滴るほどの水気が放出されていく。だがその水気はハイトが慣れ親しんだ神気に溢れた物ではない。この水は、力を以って全てを押し流し、命を奪って腐らせる、死気を帯びた水だ。


「その括りを外れた力ならば、純粋力量が大きい方が勝つっ!!」


 死気水を帯びた空気にリーフェの髪が翻る。前髪の下から現れた瞳は、藍玉アクアマリンとは似ても似つかぬドロリと濁った紫色に染まっていた。衣に隠れた首元から這い上がるように醜い鱗状の痣が広がっていく。





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