一瞬、何を言われたのか分からなかった。


 言葉は確実に耳に届いていたはずなのに、時が凍り付いたかのように思考回路までもが動きを止める。


「………………………はい?」


 結果、呼ばれたのが自分の名前だと理解するまでに、たっぷり五秒は掛かった。


「……俺?」


 どうしてこの流れで自分の名前が出てくるのだろうか。


 いや、おかしいだろ。


 あの場で一番美しかったのはどう考えても花嫁にされかかっていたサラだし、自分は男で、アドリアーナも男で、おまけに自分はアクアエリア王族の欠陥品と呼ばれるような立場にあるのだが。


 だが聴き間違いと判定するにはやけに自分に視線が注がれているし、その視線は妙に熱を帯びているし、視線と言わずアドリアーナの顔まで上気しているような気がしないでもないのだが。


「いや、ここは……『フローライトの歪み真珠』と称されるサラの名前が呼ばれるべきなのでは……?」

「いや、なんでそーなるんだよ、敵はアクアエリア王宮に忍んで来たんだぞ? 最初っから狙われてんのはお前だっての、ハイト」


 ハイトのぼやきに答えるヴォルトの声には若干呆れが混ざっている。


 いや、確かに言われてみれば、敵はアクアエリア王宮に忍んできたわけだし、あの賊の一行だってハイトの名前は呼んでいたがサラの名前は呼んでいなかったわけだし、冷静に流れを追えば狙われているのはハイトで確実なのだが。


 いや、それでも、だ。


「うぇぇええええ……? 俺?」


 確かに顔が不出来と言われた事はない。言われた事はないが、兄弟で並ぶと顔の造形は兄であるイーゼが優るというのがアクアエリア王宮内の定評だ。背丈も体付きも極々標準。鍛えてはいるから弛んではいないが、鍛え上げてはいないから筋肉美があるわけでもない。


 外見からも地位からも、何一つとしてアドリアーナの目に留まる理由が分からないのだが、一体これはどういう事なのか。


「圧倒的な勢いで神域を染め替えた強大な力。理不尽を真っ向から叩き切る力強い声。何より青い燐光を引き連れながら舞い降りる姿はまるで神の使者……!!」


 顔を引き攣らせるハイトの前で、まるで声劇オペラを歌い上げるかのように朗々とアドリアーナは言葉を紡ぐ。上気させた頬と潤んだ瞳だけを見れば、恋歌でも歌っているかのような雰囲気だ。


「あの美しい姿に、私はすっかり虜になってしまった……!! 寝ても覚めても、思うのは藍玉の君のことばかり……。だが貴君は国政の表舞台には出てこない。他国の王である私は、偶然を装って一目その姿を見ることさえ叶わない。私がどれほど思い乱れ、心を千々に散らしたことか……っ!!」


 ……いや、『ような』ではなく、『恋の歌』だ、これは。


「おいおいおいおい……何か熱狂的な求愛ラブコール飛ばされてんぞ、ハイト」


 ドン引きするハイトの隣で、ヴォルトもげんなりした表情を浮かべている。いや、そんな表情でこちらを見られても困る。こちらにそういう気は一切ないのだから。


「ああ、狂っていると言われてもいい……っ!! 私は思慕の念に狂ってしまった愚かな男だ……っ!! 何としてでも貴君を手に入れたい!! 我が手元に置き、朝に夕に愛でていたい!!」


 腰が引けているアクアエリア・フローライト御一行様に構わず、アドリアーナの言葉は相変わらず朗々と続いている。時に手を差し伸べ、時にその腕で己を抱き包む姿は、本物の声劇歌手に勝るとも劣らない表現力を見せている。


 だがハイトの心がなびく所か逆に離れている事に、リーヴェクロイツ側だけが気付いていない。


「我が元にいれば、どんな贅沢でも許されようぞ。その黒髪に似合うきらびやかな絹も、藍玉の瞳を彩る玉も、いくらでも捧げよう。愛の言葉が必要とあらば、傍らで私が一両日でも注ごう。さぁ、我が元へ参るのだ、藍玉の君、ハイトリーリン・ミスト・フレイシス・リヴェルト・アクアエリア……!!」


 キラキラとした光を振り撒きそうな勢いでアドリアーナがハイトへ腕を差し伸べる。バルコニーと地上でその腕が届くはずもないのだが、ハイトはとっさに体を横へ流してその腕を避けた。ハイトと言わずヴォルトやサラ、キャサリンまでもが腕から逃げるかのように体を流す。


「クッ……ククッ……」


 そんな中、唯一身じろぎする事なくアドリアーナの口上を聴いていたリーフェが、不意に声を上げた。


「クククッ……ハイトの美しさに気付いたその審美眼……『耽美王』というのは事実だね……クククッ…………」

「そうであろう!? 分かってくれるか、ロベルリン伯!!」


 賛同を得られたアドリアーナが嬉しそうに身を乗り出す。


 だが逆に地上の一行はリーフェから逃げ出すかのようにジリッと後退した。筒先をアドリアーナに向けたまま顔だけを俯かせて不気味に笑うリーフェの姿に、ハイトの顔面がこれ以上ない程に引き攣る。


「そなたならば分かってくれると思っていたぞ! この恋焦がれて浮き立つ、どうしようもない心を……っ!!」

「いや、これっぽっちも分かんないけど」


 そして次の瞬間には、アドリアーナ当人の顔も引き攣っていた。


「……え?」

「浮き立つ? 地に足が着いていない心境で、どうして主を支えられるって言うの? どうしようもないとか何? 平静を欠いた状況で付き纏えば、ハイトに迷惑掛けるだけじゃん」


 フツフツと地の底から湧き上がるような声でバッサリとアドリアーナの世迷い事を叩き切ったリーフェはユラリと顔を上げた。眼鏡越しにアドリアーナを睨み付ける瞳が、青い燐光を纏って苛烈に輝く。


「ハイトリーリン殿下の右腕ナメんな。忠臣と呼ばれる人間ナメんな! 僕の忠義をあんたの浮ついた劣情なんかと一緒にするなっ!!」


 ブワリと舞い上がる風に燐光が散る。その風に含まれているのは水龍シェーリンが放つ清涼な水気であるはずなのに、ハイトはその中に確かに暗く重い殺気を感じた。その殺意はリーフェが真っ直ぐに構える銃身に絡み付いて、今か今かとアドリアーナに飛びかかる瞬間を待ち侘びている。


「ハイトの美しさは、その精神にこそ宿る。見た目に惑わされた者なんかに分かるものか」

「……ほぅ? そなた、最初に私の審美眼を褒めていなかったか?」

「外見の美しさに目を留められた点は褒めたよ。でも、そこ留まりじゃ、とてもじゃないけど及第点はあげられないね。第一、龍は天空を自由に舞うからこそ美しいんだ。その龍を鳥籠に押し込めて手元に置こうっていう精神、僕には理解出来ないね」


 リーフェの剣幕にアドリアーナが笑みの種類を摩り替えた。その気配を鋭く察知した階下の兵が一斉に得物を構える。対するヴォルトが長刀を構え、キャサリンが一振りでハンマーの柄を引き伸ばす。


 ――全面対決は避けられない


 ハイトは覚悟を決めるとヴォルトから距離を取るように後ろへ下がった。その傍らにサラが従う。そんなサラの指には油断なく『詞中の梟ミネバ・ラス・フローライト』が握り込まれていた。


「貴方がやろうとしている事は、それくらい大それた事だ。ハイトが自らの意志を以って、快く貴方の鳥籠に入ると言うならば、僕達はそれに従う。だけど、他から寄せられる圧力に屈して自らの意志を曲げて籠に入らなければならないと言うならば、その圧力を撥ね返し、圧し折る事こそ臣下の役目」


 言い切ったリーフェが、初めてハイトを振り返った。


 一時爆発しそうだった殺気は、湖面のように凪いでいる。だが一度怒りを呑んで意志という水の下に押し込んだ分、その殺意はより深く、より暗く瞳の青を際立たせる。


「我が殿下の意志は如何に」

「……俺は、誰かに飼われるつもりはない。飼われなければならない理由もない」


 それでもハイトが望めばリーフェは下がる。自分の従者達の気持ちを省みなければ、この場で刃を交わす事態は避けられる。誰に断りも入れず国外に出て、自らの意志ではないといえども独断で他国の王と対面している以上、対立は最小限に留めるべきだという事も、十分に理解している。


 だがその選択肢があり、戦いを命ずる責の重さを自覚しながらも、ハイトはリーフェを下げる道を選ばなかった。


「理不尽な要求をこちらが呑む必要はない。火の粉を避けて通れないと言うならば、水龍の大水を以ってその火を呑み込むのみ」


 リーフェの瞳を見据えて、凛とハイトは言い切った。その言葉を受けて、リーフェの瞳が深く笑みを湛える。


「御意のままに、我が殿下」


 密やかな声はハイトの耳にしか届かなかった。


 言葉に被せるように響いた銃撃が、張り詰めた中庭の空気を断ち切るかのように震わせる。


「捕えよ。ハイトリーリン殿下以外はくびり殺して構わん」


 リーフェが放った弾丸は瞬時に形成された土壁によって阻まれていた。衝撃でボロボロと崩れる壁の向こうから、笑みを含んだ冷徹な声が響く。


「ヴォルト! 下は任せたから!!」

「気ぃ付けてな」

「君もね!!」


 リーフェが引き金を引くのと同時にヴォルトは前へ出ている。改めて敵の分担がなされた時には、すでに敵方の前衛が二、三人倒れていた。そこで止まる事なくヴォルトは一条の光と化した長刀を振るい続ける。想定以上の速さに動揺したのか、敵方の陣形が乱れた。


「深追いする必要はない! 引ける所まで押したら一気に引くぞ!!」

「おや、そんな甘いことを言って。そもそも逃がすと思うているのか? ハイトリーリン殿下」

「だから、貴方の相手は、まず僕だって」


 だが階下の様子はアドリアーナの目に映っていない。アドリアーナの目はひたすらハイトを追っている。


 その視界に、唐突にリーフェが割り込んだ。






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