王子様の決断


 日が昇る直前になると、途端に雲の動きが騒がしくなる。その雲は日が昇れば立ちこめる靄に隠れて見えなくなり、靄が晴れれば俄かに町は活気付く。活気はすぐに人混みに化け、あっという間に町は人の姿に呑み込まれる。


 国は違えども人の生活は変わらないものなのだなと、ハイトは新鮮な気持ちで変化していく町の光景を眺めていた。


「あ! おばさん、そのパンちょうだい!! 二人分!」


 そんなハイトの前を跳ねるように進んでいたサラが街角にかけられた看板を見つけて足を止めた。焼き上がったパンの香ばしい香りと思い思いにテーブルについてパンを頬張る人々の姿から察するに、ここは食事処も兼ねたパン屋なのだろう。


「フローライト通貨とアクアエリア通貨しかないんだけど……。大丈夫? アクアエリア通貨の方がいいのね? これで足りるかしら?」


 上着を被衣代わりにして顔を隠しているハイトは視界が狭まっていて周囲を広く見回すことができない。だが店の女将を呼び止めたサラが、具をたっぷり挟んだサンドウィッチと引き換えにアクアエリア通貨を差し出した姿は見えていた。普段金銭と引き換えに物を買うことなどない王宮育ちであるはずなのに、サラは実に手際よく朝食を手に入れるとハイトを伴って再び雑踏に紛れ込む。


「前に旅をした時に、買い物の仕方をキャサリンに教えてもらったの。旅団を飛び出す時に用意したお金が役に立ったわね。アクアエリア領に行くからって、キャサリンが気をきかせてアクアエリア通貨も用意してくれていたのよ」


 ハイトの視線から疑問を感じ取っていたのだろう。サラはハイトを振り返るとニカッと王女には似つかわしくない元気すぎる笑みを浮かべた。


「とりあえず、朝御飯にしましょ。腹が減ってはなんとやら、だわ」


 サラはローウェル水路が流れ込む大河の堤防にもたれ掛かるようにして足を止めると、手にしていたサンドウィッチの片方をハイトの方へ差し出した。ハイトが礼を言って受け取ると、サラはクルリと背後を振り返り、堤防の石垣の上に肘をつく姿勢でサンドウィッチにかじりつく。


 周囲を行き交う人々も、まさかこんな所でフローライト王女がサンドウィッチにかじりついているとは思うまい。おそらく身元がバレる事はないだろうと思いを馳せたハイトは、とりあえずその事に安堵した。


「? どうしたの? ハイト。食べないの? それともサンドウィッチって、アクアエリアでは馴染みのない食べ物だった?」


 あまりにも呆けてサラを見詰めていたせいだろう。サラが不安をにじませた顔でハイトを振り返った。


「いや、サンドウィッチなら食べた事もあるし、食べ方ももちろん知ってはいるが……」


 アクアエリアで主に栽培されているのは米で、王宮料理も米食を主にした東方料理だが、西方料理に馴染みがないわけではない。リーヴェクロイツに近いアクアエリア西方領ではパンを主食にしている地域もあるし、王都でも城下町に行けばパン屋が看板を掲げていたりする。


 ひとまずハイトはサラを安心させるために、頂きますと呟いてからサンドウィッチにかじりついた。軽くあぶったパンの間には野菜だけでなく、肉や海老、チーズなども入れられている。朝を急ぐ職人達の朝食として売られる物なのだろう。これ一つで満たされるか否か心配していたのだが、それは杞憂だったようだ。


「ん。美味い。いや、考えていたのは、これからどうするかって事なんだ」


 ハイトもサラを真似する形で背後を振り返り、堤防の石垣に肘をつく。アクアエリアとリーヴェクロイツの国境線にもなっている大河は、いまだに朝靄を纏っていて対岸を見透かす事が出来なかった。二人がこの河を越えてリーヴェクロイツに入ったのは今朝の事であるはずなのに、なぜか対岸にいたのがもうずっと前の事のように思えてしまう。


「ハイト、リーヴェクロイツ王宮に殴り込みにいくプランも大切だけど、リーフェ達に連絡はできたの?」

「舟宿から伝書鳩は飛ばしておいた。……というか、殴り込みっていうのは決定なのか? えらく物騒な響きなんだが」


 キルナ川からローウェル水路に入った舟は、夜遅くなってからアクアエリアの西端、ローウェルに到着した。


 アクアエリア領内の舟屋は、ただ舟を抱え客を乗せるだけでなく、旅人を相手にした宿屋も営んでいる。二人はそこで宿を取り、今朝一番目に出た渡し舟でリーヴェクロイツ領内に入った。


「勇ましい響きでいいでしょ? むぐ……いつの間にそんな手紙書いていたの? はむっ……んぐ、というよりも、お宿に伝書鳩なんていたのね。気付かなかったわ」


 サンドウィッチにかじりつきながら目をクルクルと動かし、遺憾なく好奇心を発揮するサラは何やら忙しそうだ。王宮でならば無作法だと叱られそうだが、ここは王都から遠い街角で、何よりハイトはそんなサラの忙しなさを元気が良くて好ましいと感じている。


「アクアエリアの舟宿は、ただ舟を管理するだけでなく、交通の要所という役目も担っている。交通の要所というのは、人だけでなく物や情報も流れる場所だ。そういう場所には必ず、情報を速く、遠くへ届ける設備があるものなんだよ」


 だがその設備も、船縁に焼き印されたイザークの華押がなければ使えなかっただろう。


 船頭の身分証とも言える華押は、一覧になった台帳で管理されている。舟宿と呼ばれる場所には必ずその台帳が置かれていて、馴染みのない船頭が現れた時には必ず華押の照合がされる。台帳に記載のない華押を持つ船頭は、舟宿に停泊出来ない所か、船頭連の本部に『不審船有』と通報され、正規舟の船頭に徹底的に追撃される事になる。


「アクアエリア内は、舟宿を起点、船頭の華押を鍵としてネットワークが構築されているんだ。華押一つでその舟がどこの舟宿所属なのか、船頭は誰なのかが分かるようになっているから、華押だけでツケ払いが使える。事情があって舟を捨てる事になった時は、所属の舟宿の近くへ行く用事がある舟が、返す舟を引いて戻しに行ってくれるんだ」

「それが船頭さんの言っていた『いつも通りにしてくれれば』だったのね」

「まぁ、そうだな。そうやって使わせてもらった事が何回かあるから」


 ちなみにツケの支払いは、月末に個人宛ではなく所属の舟宿宛てに請求される。忘れないように事前にツケ分の金子をイザークに渡しておかなければならない。そうでなければ操船用の棹で容赦なくしばかれる事になる。


 まぁそれは、今は一旦、横へ退けておいて。


 怒れるイザークの姿を想像して身を震わせながら、ハイトは改めてサラへ視線を合わせた。


「アクアエリア側への伝達は、とりあえず大丈夫だ。あの手紙を見れば、少なくともリーフェとヴォルトには事情が分かる。それで、その殴り込みに関して、サラの中で何か計画プランはあるのか?」

「プランっていうほどのものはないの。でも多分、一番効果的なのは……」


 どこか楽しそうに言葉を紡いでいたサラがピタリと言葉を止めて背後を振り返る。


 その理由を察したハイトは、ひとまず手の中にあったサンドウィッチの欠片を全て口の中に押し込んだ。味わって食べられなかったのは残念だが、どうやらそんな文句を言っていられる暇は与えられないらしい。


「おばちゃん、本当にこいつらなのかい? アクアエリア通貨で支払いをしていった二人組っていうのは……」

「間違いないよ! ほら、あのいかにも怪しそうなヤツ! チラリと見えた髪は黒かった!! 間違いなくアクアエリアの人間だよっ!!」


 ワイワイガヤガヤと集まった人々が、ハイト達を囲むように人垣を作り出していく。半円を描くように二人を囲っているのは、見も知らぬ町の住人達だった。唯一見覚えがあるとしたら、サラが呼び止めたパン屋の女将くらいだろうか。


「な、何なの? 私達、何かした?」


 聡明と名高いフローライトの王族であるサラも、さすがにこの状況を即座に理解する事は出来なかったらしい。大きな琥珀色の瞳をキョトキョトと瞬かせてからハイトを見上げるが、ハイトだって説明してやりたくても全く以って状況が分からない。


「何かした? なんてとぼけてんじゃないよ! 王宮から触れが出てんだ。フローライト風の少女とアクアエリア風の男、二人組の窃盗団の話がね!! 盗みのために付け火をしようなんて、許されることじゃないんだよっ!!」

「ちょっと待ってよ! 誤解というか、言いがかりもいい所だわ!! 私達は観光のためにリーヴェクロイツに来ただけよ! あなた達は、私達の外見がフローライトとアクアエリアの人間らしく見えるからって、それだけで窃盗団扱いするの? 私達の他にも、リーヴェクロイツに暮らす人とは異なる外見の人はたくさんいるはずだわ。あなた達はそのすべてを窃盗団扱いするつもり?」

「つべこべつべこべ、理屈ばかりでうるさいよ! じゃあ訊くけどね、観光が目的だって言うのに、どうしてそんな風に顔を隠してるのさ? アクアエリアから来る人間はいないことはないけどね! あんたらはいかにも怪しいのさ!! おまけに観光が目的だってんなら、どうしてリーヴェクロイツ通貨を持ってきてないんだよ? 観光って言うにはちょいと準備が足りないんじゃないのかいっ!?」


 サラの言葉は正論だったはずだ。だがどこか異様な熱気に包まれた群衆にサラの言葉は届かない。サラの言葉を受けて反論しているようにも聞こえるが、向こうは最初からこちらが窃盗団だと決め付けていて、こちらが何を言っても聴く気など欠片もないのだ。


「申し開きは詰め所で聴こうじゃないか。潔白だってんなら、どこへだってついて来てくれるんだろうね!?」


 その言葉にサラはハイトを振り仰いだ。言葉尻から群衆が本気で、その言葉が決して演技ではないということが分かったのだろう。


「多分、あおられてる」


 ハイトにだけ聞こえるように囁かれた言葉に、ハイトも浅く顎を引いて同意を示す。


 恐らくこの触れは、ハイトとサラを捕まえるために出されたデマだ。昨日今日でそのデマがここまで早くこの町に浸透しているという事は、今なお積極的にこの騒ぎを煽っている人物が近くにいるに違いない。詰め所など、その人物が控えるのにはぴったりの場所ではないか。そんな場所に連行されれば、せっかく振り切った追っ手の手中に嵌る事になる。それだけは、何としても避けたい。


 どの道、ここまで嫌疑の目にさらされて囲われているのだ。大人しく従おうとも逃げ出そうとも、周囲の対応が変わるとは思えない。そもそも疑いが晴れるとしても、この場でハイトとサラが己の身分をつまびらかにするのは余りにも危険リスクが高すぎる。


 ――何か一瞬、皆の視線を逸らせる隙さえ見付けられれば………


 上着の下で視線を巡らせながら、そっとサラの片手を取る。サラはそれだけでハイトの内心を覚ったようだ。空いた片手が『詞繰ライティーディ』を繰り出そうと緩やかに構えられる。


 その瞬間、群衆の背後から火薬が爆ぜる音が響いた。


「っ!!」

「な、なんだっ!?」

「何? 何が起こったのっ!?」


 群衆の視線が、一気にハイト達とは反対方向へ引き付けられる。


 その瞬間をハイトは見逃さなかった。





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