3.


「ステファノ? 何かございまして?」


 ハンマーをペンダントの大きさに戻し、ソファーに腰を落ち着けながらキャサリンはノックに応えた。


「失礼致します」


 その声を受けて開かれた扉の向こうにいたのは、声から推測した通り、この旅団の長でもあるフローライト宰相、ステファノ・ライド・コルデロイだった。宿に到着してからしばらく経ったというのにいまだに旅装をきっちり着込んだステファノは、常の厳しい顔を心持ち穏やかに崩しながらキャサリンの前に立つ。


「長旅、お疲れ様でございます、殿下。もはやここはアクアエリア領。アクアエリア王城へは、明後日の夕刻、到着することができましょう」

「想像よりもずっと快適な旅でしたわ、ステファノ。感謝しております」


 アヴァルウォフリージアとして如才なく受け答えをしながらも、キャサリンは油断なくステファノを観察した。


 ステファノがたまたまこのタイミングで現れたとは思えなかった。ただの挨拶ならば、もっと早い時間帯に訪れたはずだ。侵入者の報告を受けたから王女の身の安全を確認しにきたが、無闇に不安がらせたくないから様子を探っている、といった所だろうか。


「ところで殿下、部屋の前の護衛兵がどこへ行ったかは御存知ですかな?」

「あら、不在でしたの? 気付きませんでしたわ。でもここまでの旅の間、ずっと気を張ってくれていたのですもの。少し席を外したくらいで咎めないであげてくださいね」

「咎めるなど。御心配なさらず。席を外させたのは、わたくし自身ですから」


 だがその予想は、どうやら外れていたようだ。


 穏やかな口調で告げられたのは、キャサリンの想定していない言葉だった。てっきりリーフェ達が上手く席を外させたのかと思っていたが、扉の前に護衛の兵がいなかったのは、そもそもフローライト側の指示であったらしい。だがその意図するところが理解できず、キャサリンは思わず瞳に力を込める。


「……それは、どういう意味で命じたのかしら?」


 問いを投げながら、ペンダントの先を握り込む。その動きの中に含まれているのはステファノに対する不審だ。だがそのことに気付きながらも、相対する宰相は穏やかな表情を崩そうとはしない。そのことがキャサリンの中の不審をさらに大きくする。


 ――まさか、不穏分子は宰相に成り代わっていたっていうの……っ!?


 彼が本物の宰相であるならば、ここでアヴァルウォフリージア姫の護衛を緩める理由がない。この地はすでに、フローライトの威光が届く場所ではないのだから。『フローライト王女一行』という名前が護衛の一助になる場所ではない以上、護衛には細心の注意を払うべきだ。


 もしもこの旅程で万が一のことがあれば、ステファノの首とて安泰ではない。アヴァルウォフリージア姫に傷がつくようなことがあれば、ステファノは命を以ってその罪を贖わなければならないだろう。キャサリンが知るステファノは、そのことを理解した上で王女が滞在する部屋から護衛兵を外す人間ではない。


 ――そんな可能性は考えていなかった……っ!! まさか旅団のトップがすり替わっていたなんて……っ!!


 不穏分子が誰かに成り代わっている、と予測はしていたが、まさかこんなに責任のある立場の人間に成り代わっているとは思ってもいなかった。


 ここまで観察していてその働きぶりに違和感がなかったというのもあるが、何といっても宰相は国王の重臣だ。貴族としての地位も高い宰相に成り代わっていたと知られれば、フローライト王族の血を引く人間とてどんな処罰を受けるか分からない。


 最初から疑う余地などない人物だった。警戒していたのは最初の方だけで、今の今までほぼノーマークだったと言ってもいい。サラを除けば旅団の最重要人物とも言える人間に、あえて成り代わるはずがないという無意識の考えもあった。そこまでのリスクを冒さなくても、旅団に紛れ込む方法などいくらでもあるのだから。


 キャサリンの中で宰相に対する疑惑が膨れ上がっていく。だが同時に、キャサリンはためらいも抱いていた。


 不穏分子の正体が割れたら自分の所で叩き潰しておこうと、確かにキャサリンは心に決めていた。だが今ここで宰相が偽者だと分かっても、この男が旅団の最高責任者であることに変わりはない。ここで責任者を叩き潰し、サラの帰還も叶わなければ、この旅団は指揮する者を失うことになる。指示を出す者がいなくなれば、旅団の者達は混乱するだろう。最悪、アクアエリア王城を前にして旅団が立ち行かなくなるかもしれない。


 予定通りに王城入りできなければ、アヴァルウォフリージアの名前に傷がつく。リーフェ達がハイトリーリンの名前に傷をつけたくないように、キャサリンだってアヴァルウォフリージアの名前に傷をつけるわけにはいかないのだ。


「アクアエリアからのお客様をお通しできるように、でございます」


 身構えるキャサリンの前で、ステファノが右腕を上げる。堅物ぶりで有名な宰相からは想像もできない優雅な挙措でキャサリンへ腕を差し伸べたステファノは、白手袋に包まれた指先で器用にパチンッと音を鳴らした。その音とともに光が舞い、一陣の風となってキャサリンへ襲いかかる。


「っ……!!」


 とっさにキャサリンは顔を庇うように両腕を上げた。唐突に生まれた風はキャサリンを取り巻くように吹き荒れ、慣れない髪やドレスを勝手気ままに荒らしていく。


 目を固く閉じて足を踏ん張るしか対処が取れないキャサリンは、研ぎ澄ました聴覚の向こうで小さな溜め息を聞いた。


「まったく……。破天荒な性格はシルヴィア様譲りか。まさか旅団を飛び出していくとは考えもしなんだわ」


 溜め息とともにこぼされた愚痴は、宰相の口調を模してはいなかった。だがその口調は、宰相以上に聞き慣れた響きをまとっている。


 それに気付いたキャサリンは思わず顔を跳ね上げた。その動きで跳ね除けられた突風の残滓が、内巻きのショートヘアに戻ったキャサリンの髪を揺らす。だがキャサリンはサラの『詞繰ライティーディ』が破られたことよりも、目の前に立つ人物の正体に愕然としていた。


「もっとも、シルヴィア様はその破天荒さを実行に移すだけの体力がなかったわけだが」


 宰相の姿を借りたその人は、キャサリンへ向けていた腕を宙へ差し伸べた。キャサリンの周囲をいまだ飛び交っていた琥珀の光をまとう風は、その腕に向かって戻っていく。


「そう考えると、サラの方がより厄介な存在ということかな?」


 風は男の腕にまとわりつくように寄り添うと、パッと琥珀色の光を散らして消えた。その光の残滓の中から現れた梟が、フワリと大きく羽を広げてから男の腕に足を留める。艶やかな羽をフーッと膨らませた梟は、『のう?』と同意を求める男に冷めた視線を向けると『勝手にやってろ』と言わんばかりに琥珀の瞳を閉じてしまった。


「……っ!!」

「良い、そのままでいなさい。わしは今、ステファノ・ライド・コルデロイの姿を借りておる。お前が心の内に浮かべた者は、フローライトの王宮に今もおるでの。……もっとも、王宮にいる王は、いささか平素より冗談が通じんかもしれぬがな」


 相手の正体を悟ったキャサリンが礼を取ろうとソファーから滑り降りる。


 だが当の男はそれを鷹揚に止めた。


「ですが……っ!! なぜこのような場所におられるのです……っ!?」


 貴方様がこんな真似をしなければ、姫様が旅団を飛び出していくこともなかったのにっ!!


 というか、フローライトの王宮で散々『付いていく!』とダダをこねて、姫様に『付いてきたら絶交』と冷ややかに言われていたのをお忘れかっ!! あの言葉は姫様の本気百パーセントなんですよっ!!


 ……という言葉が喉元まで出かかったが、キャサリンはそれをグッと飲み込んだ。万が一この会話を外部の誰かに聞かれて男の正体を悟られたらマズイというのもあるが、下手にこの男の弱点を突いて話をこじらせても困るというのが最大の理由だ。


 ――賢王、の部類に入るとは、思うのですが………


 その賢王は、己の一人娘が絡むと、どうにも愚王に成り下がるからいけない。一番その『愚王』の部分に振り回されているのは、サラとその相手役と見込まれたアクアエリアの第二王子殿下だろう。


「いや、今回はわしの身勝手などでは決してないのだぞ? そうであったらば、宰相殿が協力などしてくれるはずがなかろうが」


 思わずじっとりとした視線を向けるキャサリンの前で、男はことのほか真剣な表情を見せた。だがその真剣さの中には、どこか温かさを感じさせる笑みも宿っている。


「王として、フローライトの王宮に留まり、王たる務めを果たさなければならないということも、もちろん承知しておる。だがな。政務を代行できる者はあれども、サラの父親を代行できる者は、この世界に誰一人として存在しておらぬのだ」


 その温もりを強いて形容するならば、父親の顔、とでも言うべきか。


 サラが見ていない所でサラのことを語る時の表情だと気付いたキャサリンの胸の内から、相手を非難する言葉が消えていく。


「サラの父親として、どうしても一度はアクアエリア王宮へ出向かなければならぬと思うておったのだ。どうしても、先方と直接言葉を交わしたいことがあるのだよ、キャサリン。……しかし、その行為が、意図せぬ形であれども迷惑をかけたというならば、償いをしなければならぬな」






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