メイドの決心
1.
ヤバイマズイヤバイマズイ……っ!!
座り心地のいいソファー。東方色の強い、明らかに上物だと分かる調度類。目の前のテーブルにはいかにもおいしそうなお菓子といい香りを漂わせる緑茶。
明らかにメイドの身分には不相応だと思える代物に囲まれながら、キャサリンは内心で滝のような冷や汗をかいていた。いや、きっと内心だけではとどまらず、背中やら脇やらに汗をかきまくっているに違いない。普段サラがまとっている豪奢なフローライトのドレスを代理で着ているから気付かれていないだけであって、この冷や汗がバレるのも時間の問題ではないかという心地さえしてきた。
心の中で目まぐるしく呟かれる単語は、この宿に到着してからずっと同じものばかりだ。
『ヤバイ』『マズイ』
この二種類だけである。
おそらく実際口に出して唱えていたら、キャサリンは早口言葉の世界記録を樹立することができただろう。
――いえ、そんなことはどーでもいいですからっ!!
ヤバイマズイと呪文のように唱えながらも、キャサリンは自分の心の声に自分でツッコミを入れた。
――姫様ぁっ!! ハイト様と話をしたら、一度旅団に戻ってくるのではなかったのですかぁっ!?
サラがひそやかにこの旅団を離れたのは今朝の明け方、まだ日が昇る前のことだった。日が沈む前、当初の予定通りに国境を超えてアクアエリアに入った旅団が、予定通りの宿に到着したのは一時間ほど前のこと。もうサラが単独行動に入ってから半日以上が経過していることになる。
当初の予定では、この宿に入る前にサラは一旦帰ってくるはずだった。
ハイトにサラとキャサリンが覚えた違和感を伝え、話し合いの結果をキャサリンに伝えるために一度帰還する。国境からアクアエリアの王都・ウィンドまでは馬で駆け通して一日半はかかる距離があるが、サラが
――姫様ぁ、いくら『詞繰』で外見を誤魔化しているといっても、そんなに長時間の代役は無理ですってばぁ~
なんだかんだと理由をつけてなるべく自分の傍に人を近付けないようにはしている。だがそれにだって限界はあるのだ。
いくら外見を誤魔化しても、中身までは誤魔化せない。破天荒とはいえ格式高いフローライト王宮で王女として育てられたサラと、紆余曲折の末サラのメイドとなったキャサリンではそもそも育ちが違う。ちょっとしたしぐさを細かく観察していればその差は歴然。旅団の者達がその違和感に気付くのも、そう遠い未来の話ではないだろう。
――それに……
宿の中を動き回る旅団の者達の気配を探りながら、キャサリンはスッと瞳を細めた。
――詞梟を騒がせる御仁は、入れ替わりに気付くでしょうからね
サラが一旦旅団を離れる決意をした要因を思い、キャサリンは気を引き締める。相手も『詞繰』を扱える人間ならば、キャサリンがまとう力に気付くはずだ。それに『詞繰』の力で外見を偽って潜入しているというならば、こちらが想定している以上に身近な者に成り代わっている可能性だってある。
――もしも、相手が分かったその時には
キャサリンは首から下げたチェーンに触れた。
サラが首にかけているのはフローライトの至宝『
――姫様に危害を加えられる前に、消し飛ばす
キャサリンはこれでも、サラとハイトの婚約を祝福している。ハイトが誠実な青年であるということは先の旅でよく分かったし、ハイト自身もサラが破天荒なお姫様であることはよく理解してくれていると思っている。下手な貴族の青年を婿に迎えてフローライト王妃となるよりも、ハイトと一緒になった方がサラは楽しく暮らしていけるだろう。
何よりもサラ自身が、ハイトに気を許しているような気がする。その『気を許す』が『恋をしている』まで発展しているのかどうかは分からないが、とにかくサラはハイトには好意的な感情を抱いているらしい。
そのことを思い、キャサリンは淡く口元に笑みを浮かべた。
破天荒で、誰にでも明るく接しているように見えるが、それでもサラは今まで心を開く相手を選んできた。そうでなければ、ああ見えてもそこそこ陰謀が渦巻いているフローライト王宮で、王女などやってはいけない。
悪意はいつも、善意という膜をかぶせられて届けられる。だからサラは、自分の血筋や立場、容姿に引かれて寄ってくるような人間に、心からの言葉を向けることはなかった。特に『婿候補』と目された相手にサラが心を開いたのは、キャサリンが記憶している限りハイトが初めてであるような気がする。
――まぁ、そうでなければ、何としてでもこの婚約式をぶち壊していましたが
サラが少しでもこの婚約を不本意だと感じているならば、ハイトを暗殺してでも婚約を白紙に返す覚悟がキャサリンにはある。向こうには少々厄介な従者が二人もいるが、相打ち覚悟で挑めばどうとでもなるはずだ。
でもサラは今、この婚約を心から喜んでいる。だからアクアエリアへ向かうこの旅を楽しみにしていたし、不穏な空気を感じたからハイトに伝えようと必死になって飛び出していった。
だからこそキャサリンも、自分の元で不穏分子を潰せるならば、どんな手段を使ってでも潰しておこうと覚悟を固めていた。
「……ずっと、姫様に一番気をかけていただけるのは、私だったんですけどねぇ………」
キャサリンのことを気にかけながらも、進む足を止めようとしなかったサラの姿を思い出す。そのことに、大きな喜びと、一抹の寂しさを覚えたことも。
「――――……」
そんな感情を大切に心の奥底にしまい込み、キャサリンは呼吸一つで背筋を正した。
いつまでも泣き言ばかり言っていられない。主の望みを叶えること。それも主の一番傍近くに侍るメイドの大切な職務であるはずだ。この職務は、たとえサラの隣にハイトが立つようになっても譲らない。
「お休みの所、失礼致します」
もう一つ息をついて、気合を入れ直す。
その瞬間、廊下へ続くドアがノックされた。
「喉が渇いていらっしゃいませんか? このノルワーグ地方特産のワインを御持ち致しましたので、是非とも御賞味頂きたいのですが」
聞き慣れない声だ。男性のものだが、高めのトーンは年をとった男のものではない。おそらくサラと同年代か、それより下くらいの年頃。少年から青年への過渡期を過ぎたくらいの男性の声ではないだろうか。少なくとも、フローライトからの旅団の中で聞いた声ではない。
「……どなたかしら?」
宿の者だろうか。だがフローライト側の人間の取次がないというも不自然だ。この部屋の表には必ず護衛の兵が立っているはずなのだが。
――それに
キャサリンは首からスルリとハンマーを引き抜くと、ひと振りして柄を長く伸ばした。それをいつでも振るえるように片手に構え、ソロリとソファーから立ちあがる。
平素サラの護衛も兼ねるキャサリンの聴覚は、並みの人間よりも敏感だ。だがその聴覚をもってしても、ドアの前まで迫る足音を拾うことはできなかった。
廊下は絨毯も何もない、ただの板張りだった。その上を足音の一つも立てずにここまで近付くことなど不可能に近い。今ドアの前に立っている者がただの平民だとは思えなかった。
「この周辺の宿屋を御得意様としている、出入りの酒屋です。フローライトの王女様がこの宿に御宿泊と聞き、是非ともと願って参りました」
相手の声を聞きながら、慎重に気配を探る。
どうやら相手は一人ではないらしい。少なくとも、二人。言葉をかけてくる者の他に一人、息をこらして潜んでいる者がいる。ますますただの酒屋というには行動がおかしい。
――ついに不穏分子が尻尾を出したか……
扉を開くべきか否か、キャサリンは息を詰めたまま思案する。
その瞬間、まるでその息遣いを読んだかのように扉の向こうから声が響いた。
「恐れながら。
「わたくしがアヴァルウォフリージアですわ」
「いいえ、貴女は女中様だ」
この部屋に滞在しているのは、フローライト王の一人娘だ。その部屋にメイドの一人や二人、控えていてもおかしくはない。そのことを踏まえての発言かと思ったが、それ以上の確信をもって相手の声はキャサリンの言葉を否定してきた。今のキャサリンの声は、サラが残していった力でサラの声そのものになっているはずなのに。
――まさか、本当にフローライト王族がこの旅団に紛れ込んでいたっていうの……っ!?
キャサリンは思わずハンマーの柄に絡めた指に力を込めた。
フローライト王族の血を引く者ならば、キャサリンの言葉が嘘だと瞬時に分かるはずだ。フローライト王族を相手にいくら言葉で取り繕うとも意味はない。そのことをキャサリンは身をもって知っているし、その事実を知らない者達を相手に何度も口上を述べてきた。
――最近で言うと、アクアエリア御一行様相手でしたっけね
そのことを思った瞬間、パチリと脳内でピースがはまった音が響いた。
まさか、という思いが胸中に走る。
フローライト王族以外にもう一つだけ、今のキャサリンの言葉を嘘と判じることができる一族がいる。
相手の気を受けて染まりやすいという、水の属性を持つあの血族の者ならば。先の旅でエルザが火の気配を色濃くまとうことを見抜いたあの喰わせ者の従者ならば、扉越しでもキャサリンの気配を感じることができるはずだ。
だが彼が今ここに現れる理由が分からない。わざわざここへ出向いてこなくても、彼らとは三日後に嫌でも顔を合わせなければならないのだから。
「火の血を引く女中殿、アヴァルウォフリージア殿下は御在室か」
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