7.


 ザッと棹が立てられ、ハイトの腰が沈む。


 その動きに、今まで水の流れに従うだけだった舟がまるで生きているかのようにうねった。


「キャァッ!!」


 船首の先にそびえていた岩の縁をかするように舟が旋回する。その岩に当って割れた流れの峰に添うようにして進んだ舟は、流れに身を任せて岩を迂回した。


 ハイトは素早く棹を引き戻すと、今度は反対側へ棹を差し込む。その先がちょうど顔を見せていた岩に当たり、舟は反対側へ押し出された。そこにまた流れの峰ができていて、舟は再びその流れに身を添わせる。


 流れを見極め、時に身を任せ、時に逆らい、流れの中に見え隠れする岩々を的確にさばいて舟は進んでいく。そのたびに舟は左右に大きく揺れるが、しぶき以上の水隗が舟に入り込むことはない。急流にできた波は一瞬で育っては砕け、波間に漂う者達をともに水底へ引き込もうとするが、ハイトの舟はその誘いを蹴散らすかのように波が砕ける直前を切り抜けていった。


「うわぁ……っ!!」


 気付いた時にはサラは、その光景に見入っていた。必死に体を伏せ、船縁にしがみついてはいるが、急流と波とハイトの棹さばきが見せる世界に、目を奪われてしまっている。


 そんなサラの前で、ハイトがチラリと後ろへ視線を投げた。


「……無謀だと、忠告したというのに」


 その言葉にサラはハッと我に返った。


 ハイトの視線の先を追うと岩間にチラつく船影が見える。ハイトの言葉を無視した敵船は、無謀なことにこの舟を追ってキルナ川に漕ぎ出してきたらしい。


 ただ追ってはきたものの、敵船は水にもまれてろくに舵を取れていないようだ。かろうじて転覆を免れているというありさまで、二艘の間には大分距離が開いている。このままならば振り切ることもできるだろう。


「いや、相手は体勢を持ち直しつつある。それに岩さえ凌げれば、船足自体はあっちの舟の方が速いはずだ。アクアエリア城中の御用船だからな。石柱の多い地帯が丁度終わるだけに、船足に物を言わせて詰め寄られかねない」


 ハイトは棹を操りながら己に言い聞かせるように呟いた。


 その瞬間、ハイトの棹が最後の石柱を突き、サラ達が乗る舟は開けた場所に出る。流れは相変わらず速いが、ドラゴンの牙のような岩々はない。障害物がなくなった分、舟は安定感を増した。だがそれはアクアエリアの水路に慣れない船頭にも利が出るということの裏返しでもある。


「あっちの船頭も中々やるな……。付いて来ないか、転覆するかと思っていたんだが……。慢心は良くないって事か」

「ハイト、そんな呑気なこと言ってる場合っ!?」


 敵船が石柱地帯を抜ける。抜けた直後は流れに翻弄されて船首が回転していたが、ハイトの言葉通り体勢はすぐに立て直されたようだった。辛酸を舐めさせられたせいか、相手の舟から注がれる視線にギラギラとした殺気のようなものが混ざっているような気がする。その殺気を舟足に込めたかのように敵船は真っ直ぐにハイト達が乗る小舟に向かってきた。


「また難所に入れば撒けるかもしれないわ。そういう場所はないの?」

「あるにはあるが、まだ大分先だ。それよりも、もっと手っ取り早く使えそうな場所がある。……船頭としては使いたくない手なんだが、今はそうも言っていられないからな」


 最後の言葉は、まるで囁くかのような口調だった。サラはその口調の変化が分からず首をかしげるが、ハイトはそれには答えずに引き上げていた櫓をおもむろに水へ入れた。水に対する抵抗が増えたせいか、船足がわずかにだが落ちる。それを見た敵船がここぞとばかりに船足を上げた。


「ついに観念したか! ハイトリーリン殿下っ!!」


 その船首から声が飛んでくる。視線を向ければ、船首に座る男は髪を振り乱しながらもなんとか格好をつけようとしていた。だが短時間でゲッソリとやつれた面立ちには、最初に感じた風格も威厳もあったものではない。


「難所を使って逃げ切ろうとしたようだが、その目論見も外れたようだな! もう逃げられないと分かっただろう! 観念して大人しく……」

「そもそも、俺をリーヴェクロイツに連れて行こうとする理由は何だ? リーヴェクロイツ王の命だという事は分かった。それ以上に詳しい事を、お前達は知らないのか?」


 ハイトは櫓に腰を預けて立つと、男の言葉を断ち切るように問いを投げた。櫓が緩やかに動かされているのか、舟は川の中心へ寄るように進路を変える。後方から迫る舟に船体を寄せる形だ。


「ようやくこちらの誘いに乗る気になったかっ!? よしよし、ならばこちらの舟に……」

「いや、全く以ってそんなつもりはないんだが、理由そのものは気になるんでな」


 ハイトと男の会話は微妙にずれている。だがハイトは構うことなく言葉を紡ぎながらさらに舟を中央へ寄せた。横へ推力を使っているせいか、真っ直ぐに追い上げてくる敵船との距離は縮まる一方だ。このままでは不審船の横へ舟を寄せることになる。


「理由? そんなものが必要なのか?」


 サラはそれを指摘したい衝動を必死にこらえた。このままでは敵船に接舷されてしまうことくらい、ハイトなら分かっているはずだ。分かってやっているのだから、何か理由がある。それを相手に悟らせてはいけない。


 一方ハイトに問いを投げられた男は、心底問いの意味が分からないとでも言いたそうに眉間にシワを寄せていた。


「命じられれば従う。臣下にとって、自らが仕える王の命は絶対なのだ。そこに理由など、必要なかろう」

「そうか、知らないのか」


 追い上げて来た舟が舳先をハイト達の舟につける。そこからすり上げるように敵船は舟を前へ進めた。ハイトはその舟をさらに奥へ押すように力を込める。敵船の奥は切り立った崖が続いていて、舟が逃れるような場所はどこにもない。

「愚かだな」


 ソロリと、ハイトが棹を水上へ引き上げる。敵船の男達はハイトが投降するつもりだと信じ切っているのか、ハイトの行動には全く注意を払っていない。だからその棹の先がひそやかに相手の船縁を標的に定めたことに、サラだけが気付いていた。


 ハイトの狙いに気付いたサラは、体の支えを舟縁から船底の骨木に移してソロリと身を伏せた。サラの行動を見たハイトが、一瞬だけ淡く口元に笑みを刷く。


「理由を知らなければ、いざという時に諌める事も出来ないじゃないか」


 その笑みは、次の一瞬で消えていた。


「ただ従順に従うだけで、主が間違った道を行くのを諌めもしない者は、忠臣とは言えないんじゃないか?」

「な……っ!? 貴様、言うに事欠いて……っ!!」


 男はハイトの胸倉を掴むように体を前へのめり込ませる。


 だがハイトは相手の反論を受け付けなかった。


 グッと櫓にハイトの全体重が掛けられ、舟がさらに崖へ寄せられる。逃げ場のない敵船はそのまま岩壁に激突した。船体がガリガリと不穏な音を立てて削れ、地割れのような振動が二艘の舟を襲う。衝撃を予測していなかった男は、面白いくらい簡単に敵船の船底を転がった。


 ハイトはその衝撃に歯をくいしばって耐えると、さらに相手へ追い打ちをかけるように敵船の船縁を棹の先で思いっきり突き飛ばす。敵船は再び崖へ叩きつけられ、ハイト達が乗る舟は反動で流れの中心へ押し出された。ハイトはその流れを的確にとらえると、櫓に体重を乗せてさらに流れを加速させる。


「あ……っ!!」


 そんな中でも船体を立て直そうと奮闘していた敵船の船頭が水の中に転がり落ちる。船頭はそれでもハイト達の舟に取りすがろうと腕を伸ばしたが、天を翔けるような速度で進む船にその腕が届くはずもない。


「ま、待てっ!!」


 船頭を失った舟はゆったりと、だが確実にキルナ川の凶暴な流れに飲み込まれていく。


「っ…らぁっ!!」


 それを尻目に流れを反対側へ渡り切ったハイトは、舟の左横の流れに棹を突き立てるとその棹を軸にして舟の舳先を左へ急旋回させた。ハイトの両腕と上半身が棹を支え、腰から下が舟を回す。


「っっっ~~~っ!!」


 派手に水しぶきを上げながら舳先を回した舟は、左へ直角に進行方向を変えて安定した。崩れ落ちる水壁がサラにも降りかかったが、舟の被害はたったそれだけで、喫水ギリギリまで下がった舟縁は中に水を入れないまま平穏を取り戻す。


 それを視線だけで確認したハイトは、引き抜いた棹を再び差し直すと、船首を向け直した先へ舟を押し出した。瞳にうっすら青い燐光が舞っているのは、急旋回の補助に『水繰アクアリーディ』を使ったせいだろうか。安堵の息の深さから思うに、今の大技はハイトの腕をしてでも成功するか否かは賭けだったのかもしれない。


 ハイトが舟を差し入れた先には、細い水路が続いていた。本流から外れた流れは静かで、旋回した時にすでに舳先が水路に入っていた小舟はハイトが棹で押し出すと抵抗することなく小舟を迎え入れる。水門はないが、岩壁がくり抜かれて小さな洞が口を開けていた。古い時代に造られた取水口なのか、幅は狭いものの高さと水深は十分にあるようだった。このまま舟で入っても舟が天井や水底につかえることはないだろう。


「な……っ!? な……っ!!」


 敵船の男達は、周囲の景色に溶け込んだ水路の存在に気付いていなかったのだろう。舟を操るすべを失った男達は流れの向こうからハイトの姿を茫然と見つめたまま、舟を水路へ寄せることもできずに押し流されていく。伸ばされた手は何もつかむことなく、男はそのポーズのままサラの視界から消えた。





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