6.
棹一本に近い距離を残して、二艘の舟の間で剣戟が始まる。
敵船は長物の武器を用意していなかったようで、攻防戦はもっぱらハイトが攻勢に回っている。だが操船用の竹竿を使っているハイトは、切断されることを気にしているのか剣との競り合いはなるべく避けているようだ。横からの攻撃を避けて突きを多用しているせいで攻撃できる範囲が限られてしまっている。その動きで牽制できるのは船首に座って剣を握っている大将格の男だけで、他の者は着実に次の攻撃への準備を整えていた。
「罪人? 我が陛下は貴殿を丁重に遇すると仰せだ」
ドボンッと敵船の近くで水柱が上がる。溜め池のように水流が穏やかなこの場所ならば、自力で泳いで近付いた方が早いと判断したのだろう。
船首の男と船頭、その補助に残った者の数を見るに、飛び込んだ人数は二人。あとの二人はここまで来る間にハイトの突きの餌食になって水中へ消えている。
ハイトも相手の動きにはもちろん気付いている。視界が狭いサラにだって分かったのだ。攻撃に立っているハイトが気付かないはずがない。単身、それも操船用の竹竿だけで敵の相手をしているハイトには、遊撃に回った人間まで相手取れる余裕がないのだ。
敵船を牽制している間に、水中に身を躍らせた二人はハイトの攻撃が届かない深さまで潜って姿を消してしまった。遊撃の存在に気を払っているのか、ハイトの突きの勢いがサラの目から見ても分かるほどにそがれる。敵船がそれに気付かないはずがない。船首の男が勢いよくハイトの棹を払うと同時に、敵船の船頭がここぞとばかりに棹に力を込める。
「丁重に遇する気があれば、こんな迎えの手段は取らないだろ。国際問題でも起こしたいのか?」
だがハイトはそんな状況をよしとはしない。
ハイトは払われた勢いを利用して右腕一本で棹を回転させると、棹から離した左手を口元に添えた。ガリッと鈍い音が響き、指先から鮮血が散る。
その指先が、回転を利用して引き戻した棹の先を滑る。滴る水滴を淡紅に染めた棹が、再び水面へ突き立てられる。
「アクアエリアに喧嘩を吹っ掛けてくるのは、ボルカヴィラだけで十分だっ!!」
深く突き立てられた棹は水路の底を捉えたのか、ハイトが手を離しても直立していた。
それを確認するよりも早く、ハイトはヒラリと舟から飛び降りる。さざ波が走り始めた水面は、ハイトの体を飲み込むことなく柔らかく足先を受け止めた。波紋が広がる水面を蹴りつけて、ハイトは躊躇うことなく前へ出る。
「不法侵入でこちらが訴えに出るよりも早く、さっさとリーヴェクロイツへ帰れっ!!」
「な……っ!?」
『欠陥品』と呼ばれるハイトが実戦に使えるほどの『
ハイトはそんな一行に構わず、疾走の勢いを利用して軽やかに水面を踏み切る。着地先には、今まさに浮上しようとしていた遊撃隊の頭があった。容赦なく真上から踏み抜くという想定外の攻撃に構えることさえできなかった遊撃隊は、なすすべもなく水中へ押し戻され、そのまま不審船の向こうへ流されていく。
「な……!? 流れが……っ!!」
「ハイトッ!! そろそろよっ!!」
それを目の当たりにして、ようやく敵船は穏やかだと思っていた水の中に強い流れができていたことに気付いたらしい。ハイトと棹を交えないせいで、二艘の間に距離が開いていたことにも気付いていなかったのだろう。驚愕の声を上げる敵船の船頭が、開いた距離を埋めようと必死に棹を構え直す。
サラは体を伏せたまま水門を見上げていた。ハイトが船尾に突き立てた棹に支えられて、サラが乗る舟は流されずにその場に留まっている。だが強い水の流れを受けて舟が揺れているというのは、全身で感じていた。
ギッ、ギッ、ギッ、と鈍い音を立てながら、石壁の下端が水から引き上げられていく。ザバァッと水が滴る音とともに、ゴウゴウと石壁の向こうを川が荒く流れていく音が聞こえてきた。王城の滝近くでも似たような音を聞いたなと、サラは血の気が下がるのを感じながら持ち上げられていく水門の端を見上げる。
「基本的に水門のこちら側とあちら側では、あちら側の水位の方が高いんだ。本筋を流れる水が水路へ入り込まないように造られた水門だから」
近くから聞こえてきた声に視線を向けると、ハイトが軽やかに舟に戻ってきたところだった。棹を手に取ったハイトはサラの傍らに片膝をつくと、舟を支えながら低く構える。
その頭上から、独特なリズムを刻む鐘がにぎやかしく打ち鳴らされた。
「この『中央一の門』と呼ばれる水門の向こう側は、王都で一番の暴れ川と呼ばれるキルナ川だ。水路を知らない未熟者が迷い込めば、一瞬で舟は転覆し、乗客の命は川に飲み込まれる。そういう難所が、このウィンドの水路には幾つもあるんだ。だから船頭になる者は船頭連の試験を受け、知識、技量ともに一定の水準を満たしている事を証明出来なければ棹を握らせてもらえないんだよ」
流されそうになる舟を棹一本でその場に留めながら、ハイトは流されまいと抗う不審船へ言葉を向けた。
その瞳には、師からこのウィンドで棹を握ることを許された者としての誇りが垣間見える。
「ハイトリーリンとしてではなく、ウィンドの一船頭として忠告しておく。お前達にキルナ下りは無謀だ。命が惜しければ
「開門ーっ!! 中央一の門、開門ーっ!!」
連打される鐘の音に負けないように、
その瞬間、体に伝わる舟の揺れ方が変わった。船首が向かって左へ流され、舟を水路の中へ押し返そうとしていた力が消える。その代わりに舟を飲み込まんとするかのような強烈な力が舟を錐揉みさせた。ハイトはその流れに逆らわず、むしろその力に上乗せするかのように棹を差し、舟の動きを加速させる。
「キャッ……!!」
ガクンッと体が揺れる。王城の滝下りの時と感覚は似ているが、内臓がせり上がるようなあの独特の浮遊感はない。ただものすごい勢いで舟が押し進められている。そのことが周囲の光景を目にしなくても分かる。
「サラッ!! 前に渡した
ゴウゴウと唸る川音に負けないようにハイトが船尾から叫ぶ。サラが船縁に掴まりながらソロリと顔を上げると、ハイトは片膝をついた体勢のままサラのことを見つめていた。急流に揺れる小舟の上にいるというのに、ハイトは正気を疑いたくなるレベルで落ち着いている。
「も……もちろん、持ってるけど……っ!!」
前の旅の途中でハイトからお守りとして渡されたリボンは、今もサラの手首に結ばれている。花の形に結ばれたリボンの中心には、ハイトの血を固めて作ったリラ・アクアマリンがあしらわれていた。
「だったら、大丈夫だ」
「だ……大丈夫って、何がよっ!!」
サラは思わずハイトの発言に噛みついた。だがハイトはそれに構わずに笑っている。
船はその間も急流の上を滑るように進んでいた。鋭い岩肌が流れの中にのぞくキルナ川は、ハイトが『暴れ川』と評した通りの川だった。水流が多い、流れが速いというのは当たり前で、両岸からも流れの中にも鋭い断面を見せる岩肌がのぞき、まるでドラゴンの口の中に舟を浮かべているような光景だ。その岩々にぶつかった水が白く砕けては渦になって飲み込まれていく。
流れに押されて岩にぶつかったとしても、あの渦に巻き込まれたとしても、サラの命はないだろう。ハイトが『腕の未熟な者が棹を握れば命に関わる』と言ったのは、誇張ではなく事実だったのだ。
だというのに、ハイトは爽やかに笑っている。まるで顔面蒼白になっているサラの方が場違いであるかのような爽やかさだ。
「王藍玉は、持つ者にアクアエリア王族と同等の加護を与えてくれる。万が一流れに落ちても、王藍玉がサラのことを守ってくれるはずだ」
「そんな万が一、考えたくないっ!! 私は『本の国』の人間なのっ!! 水は苦手なのっ!!」
「さっきまで楽しそうにしていたじゃないか」
「さっきまでと今じゃ全然違うじゃないっ!! ウィンドの水路は水が穏やかだったし、きちんと船頭さんもいたし、こんな川って感じじゃなかったし……っ!!」
そもそも、純粋に王都観光を楽しんでいた時と、敵船に追われて急流下りをしている今を一緒になんかされたくないっ!!
サラの心の叫びは声になることなく悲鳴となって消えた。ガクンッと舟が大きく揺れ、水しぶきがサラの髪とドレスを濡らす。岩の縁にぶつかりながら押し流される舟は、今や転覆直前まで揺れ動いていた。
「まぁ、こうなっちまった以上、サラがどう感じていようとも、俺はこう言うしかないんだけどな」
そんな状況にサラは涙目になっているというのに、やはりハイトは奇妙なまでに落ち着いていた。その上あろうことか、ハイトは膝に手を当てて、揺れる舟の上でゆっくりと立ち上がる。
「ハ、ハイトッ!?」
錐揉みされる不安定な舟の上、それも船尾に近い場所。ふとした拍子に転がり落ちてもおかしくない場所に危なげなく立ったハイトは、両手で棹を構えるとひたと前を見据えた。片足が軽く持ち上げられ、コンコンッと爪先が軽快にリズムを刻む。
その音を合図に、棹が躍った。
ハイトの纏う雰囲気が、変わる。
「俺を信じろ! サラッ!!」
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