5.


 胸の一番奥を掴み取られたかのような痛みを感じて、サラは思わずそう願った。


 フローライト王の一人娘として、詞梟ミネバの力を自在に扱うことできる者として、サラはフローライト王宮で大切に愛しまれて育った。だからどうすればそんな覚悟ができるのか、サラには理解ができない。


 王城からの追放を王族に命じられるのは、王自身しかいない。ハイトが王城から追い出されるとしたら、その命を発するのはアクアエリア王になる。


 そのことを理解しているはずなのに、ハイトが今紡いだ言葉には、どこにも怒りや悲しみと呼べるものはなかった。自然体のまま発された言葉に宿っていたのは、それを当然とする響きだけだった。


 ハイトの立場から見れば、アクアエリア王は、王である以前に父親であるはずなのだ。だというのにどうして、自分が受けるかもしれない理不尽な扱いに、悲しみや怒りを感じないでいられるというのだろう。肉親に王城を追い出されることを『世の習い』と諦めることができるのだろう。


 ――きっとハイトは、それだけの扱いを受けてきたんだ。仕方がないんだって、そういう扱いを受けるのが当たり前なんだって、刷り込まれてしまったんだ。


 そのことを思い、サラは思わずドレスの上から胸元を握り締めた。なぜだか今、その奥のどことも言えない場所がひどく痛むような気がした。


「サラ?」


 そんなサラのことをどう見たのだろうか。はるか先の水路を見ていたハイトがサラへ視線を引き戻す。視線と言葉に含まれた疑問に首を横に振ることで答えたサラは、追いすがろうとする背後の舟へ視線を向け、瞳を鋭くきらめかせた。


「今そんなことになったら、リーフェとヴォルトが怒り狂うだろうなって思って。そんなことを思ったら、今の私も十分にあの二人に怒られる状況よね、なんて続けて思っちゃって」


 痛む胸を抱えながら、何としてもハイトをあの二人の元に……ハイトの心を昔から支え続けてきた二人の元に、無事に帰さなければという決意をサラは新たにする。


「ハイト、連れ出した張本人である私が言うのもなんだけど、こいつらをさっさとのして王城に帰らないと、あの二人が大騒ぎするわ。今頃、ハイトのことを血眼になって探しているんじゃないかしら?」

「一応、策は考えてある」


 ハイトはサラの視線を追いながら答えると、水面から棹を抜いた。それを足元へ置き、櫓を両手で構える。


 いつの間にか周囲を行き交う船は姿を消していた。流れが緩やかになったのか、ハイトが櫓をこぐ振動だけが舟を揺らす。


 なんとなく風が変わったような気がしたサラは船首の先へ視線を向けた。そしてそこにある物に気付き、絶望の悲鳴を上げる。


「ハイト……っ!!」


 サラの視線の先にあったのは巨大な石壁だった。その壁が水路をふさいでいる。この水路は、ここで行き止まりのようだ。


「このままじゃ……っ!!」

「大丈夫だ。策は考えてあるって言っただろ?」


 ハイトはサラに答えると、櫓を操る腕を止めないままスッと大きく息を吸い込んだ。


「『雨下の蝶ファスターム』所属船頭、イザーク・カルロテより舟を借り受けた者だっ!! 中央一の門の開放を願いたい!!」


 凛とした声が周囲に響き渡る。


 その声が届いたのか、石壁の上にある掘っ建て小屋のような建物の中からヒョコリと男が顔をのぞかせた。


「おんや、誰かと思えばハイト様かい。息災で?」

「息災だが、追われているんだっ!! 急で悪いが、本筋への水門ゲートを開いてくれないかっ!?」


 小屋から出てきた男は、この水路を監視する役目を帯びているのだろう。ハイトとも顔馴染みなのか、ハイトに向ける言葉は軽やかだ。言葉にされる前から用件が分かっていたのか、男はテキパキと小屋の隣にあるからくりを操作している。


 ハイトは迷いなく石壁へ舟を進めながら声を張り上げた。


「どれぐらいで開けられるっ!?」

「この水門は国でも一、二を争う大きさだ。すぐには開きませんぜ。あの舟に追い付かれるより前にと言われたら、ちいと無理だね」

「そこまで無理は言わんっ!! だがなるべく早く開けてくれっ!!」

「あいよっ!!」


 石壁はすぐに見上げるほどの高さまで迫り、やがてコンッと船首が石壁にぶつかった。それを合図にしたわけではないのだろうが、ガコンッとどこかで歯車がかみ合うような音が響く。石壁からわずかに離れるように舟が揺れ、穏やかだった水面にさざ波が走った。


「ハイト、この石壁は、ただの壁ではないの?」


 その様子を見ていたサラは、正面に向けていた視線をハイトへ引き戻した。


「これは水門ゲートと呼ばれる仕切りだ。この向こう側は水量の多い大きな川に繋がっている。必要に応じて開く事が出来るんだ」


 ハイトは説明しながら舟の上に櫓を引き上げると再び棹を構えた。


 不審船との距離が徐々に縮まっていく。


「ウィンドの水路は、所々で大きな川に繋がっている。ウィンドの水路全てを安定して満たすには、王城から湧き出る水だけでは水量が足りないんだ。流れの関係もあるしな。だから周囲を流れる川からも水を引き込んでいるんだが、一度に大量の水が流れ込んで、水路に強い流れが出来ても困るんだ。強い流れが出来ると、それに乗る形でしか舟を動かせなくなるから。適度な水量と水流を維持するために、ウィンドの大きな水路や強い流れが生まれやすい場所には、開閉出来る石壁が造られている。それがこの水門ゲートなんだ」

「! この大きな壁が、動くのっ!?」

「ああ。大規模な機関からくりが組み込まれていて、それを操作する事で上げ下げが出来るんだ。動かすには専門の技術者が必要でな。各水門に配置される専門技術者を水門番ウォルーストと呼ぶんだ。王城の動力機の管理をしているのも水門番なんだが、この資格を取るのは船頭連の鑑札を貰うよりも難しいらしい。……さて」


 ギッギッギッと軋んだ音を響かせながら、巨大な石壁が上へせり上がっていく。だがその動きはひどく緩慢だ。生み出されたさざ波が舟を揺らすばかりで、サラ達がいる位置からは大きな変化を感じることはできない。


「なぜ船頭連がわざわざ船頭に試験を課し、鑑札を受けなければ棹を握れないような仕組システムを作ったか、理由が分かるか?」


 ひどくゆったりとした動きは、焦りばかり募らせてサラの胸をヒリヒリさせる。だがハイトは、あくまで焦るそぶりを見せない。


 呑気に問答などしている暇があるのだろうかと思いながらも、サラはそんなハイトの態度につられて、問いに対する答えを考えてみた。


 真っ先に浮かんだのは、王城の水路にいくつも浮かんでいた舟だった。


 ああやって王城に侵入できれば、身元を怪しまれることはないだろう。船頭の姿をして舟に乗ってさえいれば、簡単にスパイ行為ができるのではないだろうか。


「舟が主な移動手段であるアクアエリアでは、船頭の行動できる範囲が広いから?」

「それもあるな。半分は正解だ」


 ハイトは背後に迫る不審船に対して半身に構えると、棹を槍のように構えた。それを見たサラはハイトの邪魔にならないように船底に身を伏せる。


「正解は、腕の未熟な者が棹を握ると、命に関わるからだ」

「命に関わる……?」

「サラ、『詞中の梟ミネバ・ラス・フローライト』はもう首に掛けておいてくれ。落としたら、大変な事になるからな」


 背後に気を配りながら、ハイトがチラリと視線だけをサラに流す。


 その口元にはわずかに笑みが浮いていた。


「でも……っ!!」

「敵船は俺が喰い止める。だからサラは水門が舟の通れる高さまで上がったら、俺に教えて欲しいんだ」


 サラは思わず背後の石壁を見た。


 舟が浮く水面は相変わらず穏やかなままで『詞中の梟』を取り落とす危険などないように思える。だが少しずつ、水の奥深い所がその色を変えてきているような気がした。堰き止められて淀んだ深い緑色から、流れをはらんだ澄んだ青へと。


「……分かったわ。水門は任せて!」


 ハイトの師である船頭は言った。ハイトの腕前は、下手な船頭より上だと。そのハイトが『詞中の梟』を取り落とさないように、と忠告をくれたのだ。ここは素直に従っておくべきだろう。


 サラは素早く判断を下すと『詞中の梟』を首にかけ、しっかりと留め金を止めた。ドレスの布地の下へしまいこみ、いつもの場所にペンダントトップが収まったことを確かめる。それを確かめたハイトは、小さく頷くと手の中で軽やかに棹を回転させた。


「揺れるから、態勢は低くして、しっかり掴まっててくれっ!!」


 ハイトが告げるのと棹が宙を裂くのはほぼ同時。グッと船底を踏みしめたハイトの足が小舟を揺らす。


 次の瞬間、宙を舞った鉤付き縄が次々とはたき落され、周囲で派手に水柱が上がった。


「……っ!!」


 グラグラと揺れる船底に這いつくばりながら、サラは必死に周囲へ視線を走らせる。目線が舟縁にさえぎられて、今の体勢のまま水中の変化を観察することはできない。だが舟が通れる高さまで水門が引き上げられれば、この体勢からでも水門の縁が見えるはずだ。


「ケガをする前に投降した方が利口だぞっ!! ハイトリーリン殿下っ!!」

「罪人のように引っ立てられなきゃならん理由が俺にはないっ!!」


 大きく回転させた棹をパシリと左手で受け止め、足場の悪い船上から繰り出されたとは思えない勢いでハイトは突きを繰り出す。ハイトの攻撃範囲内まで舟を進めていた相手は、それを剣で受け流した。





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