4
街を覆う空は、どこか淀んでいる気がした。
黒い空をぼんやりと見上げてから、彼は巡る。薄暗い街を。ゴミだらけの街を。溢れかえるゴミの山を目で追い、そうして逸らす。
この街はもはや、ただの吹き溜りだ。どこから戦いだか、風に転がるそれを見下ろし、嘆息は飽きない。もう幾日、幾年、繰り返してきただろうか。唯一の友であり、家族であり、同僚である弟と、たった二人で。広く果てしなくも思える小都会で、彼らは彼らだけを頼りに生きる。生きなければならない。それが使命、仕事、任務、生業、義務。
時を告げる鐘が鳴る。今日もまた、仕事が溜まる。終わらない奉仕作業。半ば機械的に足元へ飛ばされてきたゴミを拾いあげれば、それに口付けた。
――ひとつ、ふたつ、みっつ。
時計台は忙しなく回る。僅かに輝く星の光が、ひとつ、生まれた。しかし、まだ減らない、彼は何も変わらない。耳を塞ぐ。それでも雨は、彼の気持ちなど知るはずもなく。降る。落ちる。吐き出される。
――よっつ、いつつ、むっつ。
そういえば、もうひとりの姿が見えない。あの弟だ。たった二人で、この量を捌くのは骨が折れる。たった一人では、それこそ心が朽ちてしまいそうだ。目を閉じて、口付けた。
――ななつ、やっつ、ここのつ。
カランと弾ける音が響いた。この街に、音の出るゴミなど珍しい。耳を頼りに視線を動かせば、暗闇に輝く破片。鈍く光る、ガラスの欠片。
彼はそれが何かを知っていた。すぐにわかった。しかし、辺りを見回した。わかっていても、信じたくなかったから。
――とお。
鐘が鳴る。頭の奥に、脳を揺さぶるような低い音色。雨粒が戸を叩き、まるで気を急かすよう。
「……るさい」
雨音は悲鳴。死者の降り注ぐ涙。堪えても、堪えても、それは隙間から入り込み。
「……うるさい」
幾度も覗いた光景が、瞼を閉じればスクリーン。セピア色に焦げさせても、鮮明な赤が脳裏に広がる。
「うるさいッ!!」
彼の怒号に、ガラスが落ちた。
鋭い刃を向ける曇りガラス。拾いあげれば指が切れる。赤が広がる。「僕に触ってはいけない」そう聞こえた気がした。曇ったガラスは、心を閉ざしたように奥が見えない。だから彼はここへ持ってきた。他のゴミと混ざらないように。
「ごめんね、痛かったよね」
そっと抱き締め、小さく呟く。雨音は止まらない。じわりと広がる赤を感じながら、瞼を落とした。
膨大なゴミを、人間の感情を、死者の在り方を。たった二人が受け止めるには、あまりに多い。幾ら祝福しても、見送っても、それを淡々とこなすには心も未成熟で。
人間に共感してしまうことは悪いことだろうか。仕事が辛いと嘆くことは悪いことだろうか。人の営みなど、覗き込みたくはなかった。そうすれば、こんな疑問も不快も感情も、抱かずに済んだかもしれないのに。誰か、答えを教えてくれと、望む必要などなかったのに。
苦しむ人を送ることが、還りたくないと願う人を送ることが、また死にたくないと願う人を送ることが、本当に正しいことなのでしょうか。
雨上がりの街を歩む。
昨日よりも随分と増えたようだ。湿った地面は、どこか足元がおぼつかない。灰色のガスが、空を流れている。これはいつものことだ。街には灯りなどない。住民は、こんなにもたくさんいるというのに。
目で数え、息をする。星灯は見えない。昨日輝いたあの星は、もう地獄へと旅立ったのだろうか。思案と共に、また嘆息。腕に抱いた曇りガラスに映るのは、光が消えた彼の瞳だけだ。そうしてから、反射する自分の顔に、彼は思わず息を呑んだ。覗き見えたのは、彼か、もしくは。
泣いている。呼んでいる。助けてくれ、と心が叫ぶ。ガラスは鏡、見えない裏側。曇った空と、涙の雨。
次の鐘が鳴るまで、あと24時間。
――じゅう。
弟は、可愛らしい子だった。弟だから、そう思ったのかもしれない。彼とそっくりな顔で、声で、二人で仕事を任されるようになった頃は、はしゃいでいたかもしれない。
――きゅう、はち、なな。
兄である彼とてそれは同じだった。二人でずっと一緒に、この街で、天から遣われし祝福を任される。仕事のこともそう、この環境もそう。彼らにとって、至極喜びに満ちていた。
――ろく、ご、よん。
重大な任であるにも関わらず、仕事の内容は至って簡単だった。あまり思案することが得意でない弟もすぐに手順を覚え、二人で祝福数を競っていたときは楽しかった。と、笑う。
――さん。
その数が、自分たちを苦しめた。作業効率が上がって、一日で運ぶことのできる量が増えるたびに、息苦しくて堪らなかった。そうだから、このガラスの主は思いついてしまったのだ。
――に。
曇りガラスを拭い、自分の瞳を映し出す。ガラスの中で彼を見つめる瞳は、流す涙を止める術など知らないようだった。
「私が君と同じことを繰り返したら、この世界はどうなるのだろうか」
掠れた声が笑う。ガラスの中で、彼は笑う。
「……まあ、どうでもいいか」
――いち。
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