3

 そして、今日もまた。その時は来る。


 鐘が鳴り。

 雨が降り。

 街に死者の思念がうず高く積み上がる。


「……いったい、」


 いつまで、と。零れかけた言葉は吐息に混じって消えていった。

 街の一角で立ち止り、弟は緩慢な動作で空を仰いだ。鈍い光を放つようになった虹彩に映るのは、透明度の高い澄んだ夜の青。まるでビードロの様に星が煌めく美しき空。

 まるで鏡合わせのようだと、ゴミの溢れる街の中で弟は歪な笑みを口端に乗せた。

 鐘が鳴ってから、どれだけのゴミを空に還ることができるように時計台へ送っただろう。わからない。少なくとも十は数える筈だと、歪な笑みを乗せたままぼんやりと口の中で反芻する。

 両手の指で足らなくなってから、数えることを放棄した。

 両足の指で足らなくなってから、感じることを放棄した。

 ただ、無作為に。

 ただ、無感動に。

 ゴミが空へ還る為に。祝福のキスを粛々とひたすらに行使していく。

 これではまるでただの作業だと、頭の片隅で叱咤する声が鳴り響いたけれど。しかし弟にとってそれは、最早意味をなさない雑音にも等しかった。


 端的に言ってしまえば、疲れていた。

 垣間見る人間の、死の記憶に疲弊していたのだ。


 以前はひとつひとつ、ゴミの持ち主が迎えた結末を見届けていた。その千差万別の終焉に喜び、怒り、哀しみ、時には涙しながらも。弟は来世への希望と安寧を願い、祝福のキスを施していた。

 だからすべてが全て、綺麗な終焉でないことは重々承知している。


 あるゴミにあったのは、陰惨な事故だった。

 自由を奪う難病だった。

 自然が起こした災害だった。

 人と人が起こした人災だった。

 灼熱の炎が踊る地獄だった。

 細い呼吸を押し潰す孤独だった。

 肌身が凍る氷点下の感覚なき痛み、無抵抗のまま呼吸を奪われる苦しみ。

 或いは、己を死に向かわせるほどの仄暗い感情。


 少数であったそれらが増えたのは、特に、己が死を選ぶ魂が増えるようになったのは何時からだったろうか。

 何度も何度も見送った。次なる生では幸福であれと、幾度となく囁いた。

 けれど、戻ってくる。


 どれだけ祝福を施しても。

 どんなに幸福を願っても。

 すぐに、戻ってきてしまう。


 その繰り返しを続ける内に、弟の中でむくむくとひとつの考えが育っていた。


 ゴミの選別。

 空に還すゴミを選定する。


 ゴミを空に還し、次に転生してもすぐに自死を選び戻ってくるようなら、最初から転生の機会を与えない。

 幸あれ、と送り出したところで次の生が真実幸福であるという確証はどこにもない。自死を選んだ魂のゴミを還し、再び転生してもまた自死という昏い選択を選ぶくらいなら。


 兄には口にしたことのない、弟だけが抱いた思想。

 天使とは本来、平等でいなければいけない。ゴミがどんなものであれ、どんな生き方をしたものであれ、すべてに転生の機会を与えるのが私たちの役目だと自負する兄にこんなことを言ってしまえば、静かに怒りながらも弟を諭しただろう。どんな道を歩もうと、転生とはどんなものにも公平でなければいけないのだと。

 なにより、心配する。優しい兄に余計な心労を、弟である自分がかけてはいけないと、胸中に仕舞いこんでいた。


 けれどもう、弟は限界だった。


 空に還すことで再び自死を繰り返す可能性。来世へ転生すること自体が地獄かもしれない。

 一度でもそう考えてしまうと、幸あれと送り出すことが、弟にはもうできなかった。


 再び街を歩き出す。


 せめて、来世にも救いのあるゴミを還そう


 その歩みはひどくゆっくりで、鈍い光を放つ双眸で周囲をゆっくりと見回す。

 落ちているゴミを見つけても、すぐには触れない。じい、と目を凝らし、そしてようやく手にとってキスをする。

 事務的に。機械のように。淡々と処理をしていく。

 その中で、弟が触れようとしないゴミがあった。視界に入っていない筈が無いものを無視し、目を凝らしてゆっくりと歩く。


 ……何処かでぱきり、と音がした。

 微かだがしっかりした音に、弟は立ち止まった。

 小枝でも踏んでしまっただろうか。だが足元を見ても、音がなるようなものはどこにもない。

 再び歩みを進めると、またぱきん、と音がした。

 再び足を止める。聞き間違いではない、はっきりと耳に届いたのに、その音がどこから聞こえたものなのか判然としない。


 ぱきん、

 はきん、


 薄氷を踏むような、そんな音。

 鳴り止まないそれに本能が足を止めろと叫んだが、弟には届かなかった。


 あれも違う。

 あっちも、違う。

 これも、きっとちがう。


 周囲に目を凝らし、数多のゴミの中を甲高い音と共に進んでいく。

 そしてようやく見つけたのは、たくさんの醜く汚いゴミに埋もれた、小さいけれど来世の灯りが残るゴミだった。

 この子ならきっと大丈夫。ああ、はやく空に還してあげよう。

 微笑んで弟はそれに手を伸ばし。


「え?」


 自身の手に、腕に、罅が入っているのを見つけた。ぱきんぱきんと音をたて、罅は急速に、確実に広がっていく。

 戸惑いに顔をあげると、正面にあったガラスに罅割れた顔が映った。白く艶やかだった背の翼も、曇ったような色の水晶に様変わりし、罅割れていて。


 己の身に何が起きたのかわからないまま。

 弟の意識は、そこで途絶えた。

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