第3話
自然と気持ちに傷は付いていなかった。
引っ切り無しにアルコールの匂いが行き来する居酒屋のバイトが、忙しくて意識が向かなかったかもしれない。それとも、行先も、帰宅する時間も、まともに伝えない彼女に慣れてしまったのかもしれない。
どちらでもいいのだけれど、とにかく心に傷は付いていなかった。
「先、上がります」
まかないを頬張る2つ上の先輩の間延びした「おつかれ~」という声を背にして、ひと気の引いた居酒屋から身を抜け出す。
午前0時を随分と回った外は、刺すような冷たさが充満していた。思わず手をこすり合わせ、息を吹きかける。
昼間の夏とも言える快晴は、雲に重ね塗りされた黒に覆われている。それが、やけに12月の冬を俺に突き付けていた。
息で温められた手をコートのポケットに忍ばせる。そこには、煙草が入っていた。せっかく温めた手を外に出すか悩んだが、そんな思考は一瞬で、近くのコンビニの喫煙所へ向う。
煙草を咥え、息を吸いながら火を付ける。誇張された夜の空気が、熱された葉を介してそこからフィルターを通り口の中に入る。ひとくち目の煙は、吐き出す。
立っていると夜の空気が、俺を一人きりにさせようとしているみたいで縁石に身を屈めた。
ふたくち目に口を付ける。次の煙は、肺に入れた。そういえば、ひとくち目の煙をふかす癖は彼女の癖だ。どうだっていい。
音楽を聴くわけでも、スマホの画面に目をやるわけでもなく。やけに時間の経過を混乱させる午前0時過ぎの空を眺めていた。雲は多い。けれど、全く夜空が見えないわけではない。
無駄な時間を過ごしているな、と思っているとひと気のないコンビニから出てくる姿が横目に映る。反射的に、首をそっちへ向ける。
そこには、何かに気づいたように「あっ……」と声を漏らす女の子がいた。なんとなく、俺の記憶の片隅にいるような気がするが、上手く思い出せない。
上手く思い出せないその子は、急いで店内に戻っていく。
忙しい子だな、と思いながら残りの煙草に口を付けた。5ミリ分の煙草特有の存在感を感じながら、「無理はよくないよ」と馬鹿にするような声と8ミリの煙草を吸う人を思い出していた。
「あの!」
一拍遅れて声に気づいた。顔を向けると忙しそうなその子が、緊張したような表情で立っていた。
「どうかしましたか?」
俺は、残っていた煙草の火を消し立ち上がり彼女に向き合う。
「その……これ!」
コンビニの袋を漁り取り出したのは、有名な棒に丸い飴が付いた有名なキャンディーだった。それのコーラ味だ。
「どうぞ!」と強張った声で、それ以上を告げないその子に混乱していた。横目に映った時は、背丈的に高校生くらいかと思ったけれど、薄い化粧で整えられた顔は高校生から大学生くらいに印象を変える。
そこで、俺は気が付いた。
「……あ、大学の喫煙所ですれ違った?」
強張った彼女の表情が、少しだけ嬉しそうにほぐれる。
「そうです、今日の朝」
その表情を見て、しっかりと輪郭を持って思い出された。
「同じ学科の子だよね?」
「分かります? いつも、前の方の席で講義聞いてる」
「あぁ、思い出したよ。 それより、なんで敬語なの?」
「え……だって、あまり話したことないから」
「何それ、敬語やめてよ」
「なんだろうね、わかった」
2人で深い夜の中、小さく笑い合った。その時だけは、冬の寒さを忘れていた。いや、冬の寒さに意識が向かなかった。
名前もその子の存在すらも気が向いていなかったのに、たった一夜の他愛ない会話だけで、俺の意識の中にその子はしっかりと居座った。とても、幸福的な意味で。
急に興味を持ったその子の色々が知りたくなって、俺とその子はコンビニでホットコーヒーとミルクティーを買い、夜道を歩く。駅の方面は、家とは真逆だけれども別に良かった。
本当に短い時間だった。けれど、とても幸福的で戸惑ってしまうような時間だった。だって、俺とその子の間に無駄な壁なんてものは存在しないんだ。
友人という関係が心地よかった。
一つ先の駅で一人暮らしをしていて、バイト先が俺と近くの場所で、ミルク系の甘い飲み物が好きで、過ごしやすい春よりも酷く寒い冬の方が好きなその子は、駅に着くと「ありがとう」と微笑む。
「夜は危ないからね。 気を付けて」
人気《ひとけ》のない改札前に、終電を告げるアナウンスが響く。深夜1時に迫ろうとする夜風が、俺の背中から吹いて彼女の髪を吹き上げる。
「そうだ」
思い出したように言った。
「なんで、俺にキャンディーくれたの?」
その子といる時間を引き延ばすためだけの意味を持たない言葉だったけれど、今朝見かけた時と同じ歪んだ表情を一瞬だけ浮かべる。
「城詰くんが、苦しそうだから」
疑問符が漏れる。でも、言葉の続きはすぐに返ってきた。
「煙草吸ってるとき……なんか、泣いてるように見えたから」
俺は、否定も肯定もせずに「そっか。 煙草やめようかな」とだけ答えた。
終電を告げる最後のアナウンスが鳴って、その子は改札をくぐり、マフラーで埋めた口元から「また明日」と言う。
「また明日」
と、俺は返した。
終電が行ってしまうと、無人駅みたいな静寂が訪れた。空気の揺れ方だけが変わったはずなのに、入れ替えられたみたいに空気自体が違っていた。温度や匂いや感触まで、全てが違っていた。それで気づいた。
俺は見えている傷を意地だけで無視し続け、痛みに慣れているだけなのだと。傷が大きくなっていることにさえ気づかないくらい、感覚がマヒしているのだと。
煙草を吸おうとポケットに手を入れたが、煙草の代わりにキャンディーを取り出し口に咥えた。煙草を吸う癖で空を見上げると、広がる雲の小さな隙間から月の光が漏れていた。
終電が過ぎた駅には、予定通り次の電車が来なかった。
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