第2話

 1限が始まる前の喫煙所に人の姿はない。何より、冬の冷たい風が吹く外の喫煙所で煙草を吸うような人の方が少ない。室内の暖房が効いた場所で、友人と教授の悪口を言いながら煙草は吸っていた方が幸福的だ。けれど、俺は、大学の敷地内にあるコンビニの裏手の殺伐とした喫煙所が好きだ。

 捻くれているのかもしれないな。

 そんなことを考えながら澄んだ空気越しの青空を見る。木目調の縁取りをして「夏の快晴」というタイトルが似合いそうな空だ。

 煙草の煙を美しい空の絵画へ吐きつける。どれだけ美しい物でも、1人の捻くれ者の身勝手な行動で汚されてしまうんだ。それに対して値打ちが付くのならいい。躍動的で感情的な絵画が、称されるのはよくあること。でも、煙草の煙を吹き付けた絵画が称されることはない。

 煙草に二口目を付ける。肺に煙を入れると胸を刺すような感覚がある。

 俺は、これが好きだ。初めて煙草を吸った時の……もっと、詳しく言うならば、彼女の吸っている煙草を吸って咽た時を思い出す。そして、彼女の顔を思い浮かべる。

 酷い気分だ。

 考え事をしながら吸う煙草は、あっという間に根元まで燃え切ってしまう。不安定に残る灰を灰皿に落として、吸い殻を捨てた。

 腕時計に目をやると1限が始まる時間は、随分と過ぎてしまっていた。けれど、俺は、急ぐわけでもなく喫煙所を後にする。その途中に、1人の背丈の小さい女の子とすれ違った。横目に映るその子が、やけに顔を歪めているように見えたから煙草臭くないか気になった。


   *


 高校の方が、放課後の勉強による疲れは感じていた。大学の講義なんて、本当に雑な時間を過ごしている。

 寝ている人がいれば、化粧を直す女子生徒、漫画を読む人がいれば、スマホゲームに一喜一憂する人がいる。俺も、そんな無駄な時間を過ごす一人だ。入学当初は、緊張と期待に胸を膨らませて毎日を送っていた。けれど、丁寧にタイトル付けしたノートは、ほとんど落書きで埋まっているし、90分間の授業を惰性で過ごし、放課後を迎えている。あとは、バイトをしたり、友達と酒を飲みに行ったり、家にいる彼女にケーキを買いに少し遠出をするくらいだ。

 そんなルーティンに似た毎日を送る中で、今日はバイトに行くという日を過ごす。

 その前に、一度、家に帰ろう。

 そう思いながら大学を人の少ない裏道から出て、住宅街に絡まったようにある踏切を渡る。その途中、コンビニによってチーズケーキを2つ買った。

 チーズは苦手だけれど、チーズケーキが好きな彼女のために。


 西日が当たらないアパートは、少し早めに深い影が刻まれていて寂しげに思える。名ばかりのエントランスから2階の部屋ヘ向かう途中に嗚咽交じりの泣き声が聞こえた。俺は、上を向く。古びた換気扇が唸っていただけだ。

「ただいま」

 鍵の掛かっていない玄関を開ける。すぐに漂ってきた甘ったるい匂いに顔を歪めた。

「あ、おかえり!」

 朝とは違い、元気のある声で出迎えの言葉が返ってくる。けれど、俺は、女性特有の甘ったるい香水の匂いに顔を歪めていた。

「出掛けるの?」

 言葉に出して虚しくなった。化粧をして、香水で彩り、アイロンで髪をセットする彼女に対して愚問だ。

「そうだよ。 もう少ししたら出掛ける」

「あっそ」

 1人暮らし用のテーブルを化粧道具で占領されているから、ベッドへ雑に腰を下ろす。

「不機嫌だね」

「別に」

 彼女は、手慣れた手つきでアイロンを扱いながら鏡越しに話す。

「だって、今日バイトでしょ?」

 機嫌を取るような彼女の言葉が苛立たしかった。、なんて前置きは自分を正当化する言葉でしかない。

 お前は、俺がバイトだろうが何だろうが出掛けるんだろ。

 そう思いながら、彼女の後ろ髪を眺める。そして、またくだらない愚問を投げた。

「……どこ行くの?」

「んー……飲み屋だよ」

「そう」

 愚問、だろうか。いや、女々しく回りくどい質問でしかないのだ。そんなことは、自分が酷く理解している。けれど、認めたくはないのだ。俺の中にある「嫉妬」という感情を見破られたくはないんだ。

 彼女は、俺の恋人ではない。だからといって、友人でも親友でもない。

 醜い感情を落ち着かせるために、そう思う。そのたびに、胸が虚しさで締め付けられる。

 髪を巻き終えた彼女は腕時計に目をやり、イタズラに微笑んでベッドの上の俺に近づく。部屋に帰って来た時の嫌な甘ったるさが、排気ガスでぐしゃぐしゃに汚れた外にいるときの彼女の香りで嫌ではなかった。

「……口紅、塗り忘れてるよ」

 薄い唇は、純粋な少女のような生きている色付きだ。でも、その口から「いいの、煙草吸うから」という言葉は、永遠にその唇を醜くする。

 彼女は、俺の上着のポケットから煙草を取り出す。

「やっぱり、不機嫌だね」

「別に」

「私、君のこと好きだよ」

 何も答えない俺の変わりみたいに、ライターのノック音が部屋に響く。彼女は、煙草を吸いながら微笑みをスマホに向ける。煙草が吸い終わるまでの間、酷く虚しくて汚い空気が、部屋に充満する。窓を開けてやろうかと思ったがやめた。

 その汚さと甘ったるさに心地よさを感じているのかもしれない。うまく表現できない。

 最後の一口を吐き出して「よし!」と彼女が声を出す。そして、またベッド上の俺に近づき、純粋な色付きの唇を俺の唇に重ねる。

 煙草の匂いが嫌じゃなかった。

「じゃ、行ってきます」

 立ち上がり俺から離れる。玄関まで見送らなかった。その代わり「何時くらいに帰ってくるの?」と聞いた。

 でも、彼女は「どうだろうね」と笑うだけで答えなかった。

 この質問も愚問だ。

 恋人でも、友達でも、親友でもない俺と彼女にとっては、全てが無意味な言葉なんだ。

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