第1話

 深海から浮上するように意識が覚めていく。

 まだ浅い眠りの中で「あぁ、朝が来たんだな」と思いながら浮上しきるまで受動的に意識を任せる。こんな目覚めの時は、決まって良質な睡眠を取れているのだ。

 深海の群青色が、白い朝の色を帯び始め、覚めかけの意識の中で淡い香りを見つけた。そして、俺の意識はハッキリと覚醒する。

 閉じていた瞼を持ち上げた世界は、カーテン越しの日差しと底冷えのする寒さで満ちていた。俺は、布団に潜り込む猫に気を遣うようにして体を起こし、スマホを開く。時間は、午前6時56分だ。そのまま、午前7時に鳴り響くはずの目覚ましを止め、ベッドから出て、コタツに電源を入れる。温まるまでの間、ワンルームのキッチンへと向かい電気ポットでお湯を沸かす。その間に、玄関の換気扇を回して煙草に火を付けた。

 冬の朝の冷気は、世界を潔癖な物に変えている気がする。昨夜まで汚染しつくされた世界の空気を朝の冷気で洗い上げるのだ。その空気と一緒に吸い込む煙草は、異常なほどおいしく感じて、コーヒーの苦みが引き立つ。

 火のついた煙草を口に咥えて、1カップ分のコーヒーと1カップ分のリプトンのアップルティーを作る。部屋の中が、コーヒーと煙草の匂いで充満しきった頃、さっきまで意識を投げていたベットから小さな体が身を起こす。

 乱れた髪とぶかぶかの俺のジャージを着た唇の薄い彼女は、ぼんやりとした意識で辺りを見渡し、俺を見つけると「おはよ」と微笑んだ。

「おはよ、紅茶飲む?」

「うん。 砂糖入れて」

「もう入ってるよ」

 彼女は、口元から幸福を溢れ出させながらベッドから身を出し、小さな両手でコップを包み、換気扇下の俺の隣へ座った。

「煙草、欲しい」

 吸いかけの煙草を彼女の薄い口元に運ぶ。彼女が、うつらうつらとさせた顔で煙草を吸い込み、ため息交じりに煙を吐く。

「今日も冷えるね」

「そうだね」

 そんななんて事のない朝だ。


「じゃ、行ってくるね」

 俺は、紺色のコートと彼女にもらったマフラーを巻いて半身を玄関から外に晒す。靴を履いた足先から、冬の冷気が這いあがってきて酷く冷え込んだ。

「行ってらっしゃい」

 彼女は、ベッドから体を伸ばし見切れながら手を振る。その顔にある表情は、真っ白な紙しか知らない微笑みがあった。

 そんな微笑みに小さな幸福を感じながら、アパートの扉が閉まるのを背中で感じる。振り返った。けれど、そこは汚れた扉しかない。冷たいアパートの廊下を歩きながら、階段を下り外へ出る。

 純粋な冬の外気に触れ、そこで俺の意識はしっかりと現実に引き戻された。

 やけに、煙草が吸いたい気分だ。

 自分の部屋にいる彼女のことを思い出しながら、俺と彼女の、恋人でも友達でもないダラダラと停滞している関係について考える。

 彼女と出会ったのは、夏が始まったばかりの頃だ。深夜を回ったバイト終わりにいつも煙草を吸う路地裏に彼女はいた。

 駅前に行けば、喫煙所はいくらでもある。でも、俺は、バイト終わりに高架下の路地裏にある喫煙所で煙草を吸うのが好きだった。いや、喫煙所というには、少しだけ合法性に欠けるような場所だ。ステッカーと落書きまみれの小さな灰皿、誰かが盗んできたようなベンチが置いてあるだけの即席の喫煙所。

 そこで、煙草を吸うたびに「やんちゃな誰かが、勝手に喫煙所を作ったんだろうな」と思う。けれど、そんな歪んだような場所で深夜に煙草を吸うのが、堪らなく好きだったんだ。

 田舎で過ごす風鈴と祭囃子の夏が嫌いで、都会の鳴りやまないサイレンと遠雷のような人々の声も好きになれない人が、のけ者のたまり場に集まる。だから、俺と彼女が出会うのは必然だったのかもしれない。

 社会の流れという惰性で大学に入学し、それとなく勉強をして酒を飲み、記憶をなくし、名前も忘れた女の子と朝を迎える。その度に感じる虚しさを煙草の煙に託すような俺と、金がなくなったらアルバイトをして金が溜まればフラフラとどこかに行くような彼女は、似ていないようで似ている。

「煙草の火、貸してくれるかな」

「どうぞ」

 劇的な感動や誇れるような愛も恋もない会話が、俺と彼女の出会いだ。

 バイト終わりに喫煙所で会えば、深夜までやってる飲み屋で酒を飲み、お互いに気持ちよく酔っ払って、そのまま手を振って「またね」と言い合うこともあれば、手を繋ぎ合って終電がなくなった駅を彼女の好きなロック音楽を口ずさみながら歩く時もある。それを何度も繰り返していたら、秋になって彩りが失われ、互いに彩りを求め合うように距離は近くなった。

 数か月前のことが、恐ろしく最近のように思う。けれど、夏の蒸し暑さは消え、どうしようもなく冷たい冷気があるし、自然の彩りはイルミネーションの人工物に置き変わっている。そんな冬を迎えてしまった。

 腕時計に目をやり時間を確認する。1限の講義が始まるまで、あと20分ほどある。一瞬躊躇いながらも、俺はリュックの奥に入れてある煙草を手に取って、裏手にある喫煙所に向かった。


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