煙草
成瀬なる
プロローグ
都会の夜には、慣れない。星の出ていない夜空、いつになっても止むことのない喧騒、漆黒に美しい夜空を濁すような摩天楼の輝きに慣れることは、きっとないのだと思う。人の熱気で温まったホームから、這い出るようにして外気を受ける。酷く冷たい空気が、火照っていた体に吹き付けた。
俺は、手で持っていたコートを着なおして慣れない都会の街を歩く。一歩ずつ足を踏み出すたび、子供が泣き出すみたいに体の芯から体温を奪われ、今では手先の感覚もあやふやになってしまった。コートのポケットに手を入れそのまま手を温めておきたかったけれど、その中にある無機質で硬い物を手に取る。慣れた手つきでスマホを操作し、ロックを外す。時間は、22時を随分と回った頃だ。
時間を確認してしまうと、じっとりと深く沈んでいく慣れない夜を直に感じてしまい、ため息を付きそうになる。けれど、せめてもの救いで俺は、待ち合わせをしている。たった一人の大切と言える女性と待ち合わせをしているのだ。
深い夜に雑多とした都内で好きな人と待ち合わせをするのは、好きだ。夕暮れ時の海辺や夜景の綺麗な丘よりも醜くて美しいと思う。だから、無意識に緩む頬でスマホのメッセージアプリを開き、待ち合わせ場所を再確認する。
場所は、とある本屋だ。二人の行きつけの本屋さんで、俺と彼女が初めて待ち合わせの約束をした場所……なんて、聞こえはいいが、本当は待ち合わせ場所なんてどこでもいい。今日は、ただ彼女のバイト先から近くて、駅からも近いという二人の利点が一致したに過ぎない。
無意識な楽しみさで、予定よりも一本早い電車で来たから、シャッターの閉まる本屋さんに待ち合わせよりも早く辿り着いてしまった。俺は、手に余らせた時間を贅沢に投げ出した。冬の冷気で冷え切った壁に寄りかかって、肩をすくめる。
眼前の通りを疲れ切ったサラリーマンが少しだけ高い缶ビールを傾けながら歩く、鼻先を赤くした制服姿の少女と照れくさそうに視線を泳がせ、ぎこちなく右手を少女の左手へ添える学生が歩く、今夜届けられるプレゼントに夢見る少年の笑顔が歩き過ぎる。
でも、誰の意識の中にも、汚れた都会の壁に体を持たれかける俺の姿は介入していない。当たり前の話ではある。誰かの存在をはらりと隣で感じている冬に、他者を介入なんてさせたくはない。仮にそれが、希望だとか信頼だとか安心なんてものが絡んでいるのならなおさらだ。
俺は、とっぷりと深ける夜の経過にうつらうつらとしてしまう。すると、手を忍ばせていたポケットのスマホが音を鳴らす。
『ごめん! バイトが少しだけ長引いちゃった、10分くらい遅れるかも』
彼女からのメッセージだ。
『おつかれさま。 俺も、まだ着いてないからゆっくりでいいよ』
と、本心からの労いと彼女に対する愛でメッセージを打った。だが、送信をする前に一瞬躊躇って『近くのコンビニにいる』と付け加えた。
返信はすぐに来た。女子大生らしい可愛い絵文字に「ほんとにごめん! すぐ行くね!」と。そんな、無価値で愛おしさを感じるやり取りに心を緩めながら「久しぶり」と俺は、口に出した。
「久しぶりだね。 城詰くん」
薄い唇にマットな暗めの口紅を付けた口から無邪気な声色で言われる。パンツスーツ姿にコートを羽織った女性は、醜い物に囲まれた姫のような笑みを浮かべている。
俺は、彼女を避けるようにして壁から身を起こし、コンビニへ向かう。彼女は、ヒールを鳴らしながら俺の隣を歩いた。
「待ち合わせ?」
「そうだよ」
「なに、彼女?」
「関係ないだろ」
「いいじゃん、教えてよ」
子供を茶化すような彼女の一言一言が、いちいち癪に障った。治りかけのカサブタを剥がされるように、ゆっくりとその傷の痛覚を思い出し、当時と同じ血が垂れる。俺たちは、並んでコンビニへ入る。真っすぐホットドリンクが並ぶ棚へ向かい、ブラックコーヒーとカフェオレを彼女は手に取る。
「ここは、お姉さんが出してあげよう」
「……ありがとう」
レジへ並び、無気力な男性店員と向かい合いながら「26番二つ」と彼女は告げた。その数字の意味を俺は知っていたけれど、止める気にはなれなかった。無邪気な少年の膝がいつまでも治らない理由が、カサブタをすぐに剥がしてしまう。というのと同じで、俺の傷はいつになっても、自分で掘り起こし治り切っていない。だから、彼女が同じ銘柄の煙草を二つ頼んでも止めはしなかった。
俺と彼女は、コンビニの裏の灰皿だけが置かれた喫煙所で煙草に火を付ける。久しぶりに吸った煙草は、やけに胸を焼いていった。コーヒーの苦みが、酷く喉を切り裂いていった。
「俺、煙草やめてたんだけど」
「そうなんだ……私が嫌いになったから?」
何も答えずに、煙草を吸った。次は、胸を焼き付ける感覚とコーヒーの苦みが心地よく感じる。
「俺、ここで彼女と待ち合わせしてるから、どっか行ってくれよ」
「酷いな、煙草くらいゆっくり吸わせてよ」
俺は、また煙草に口を付ける。灰を落とすと、先が尖がっていた。
彼女は、何かに気づいたように煙草の煙を空に吐き出す。
「あ、雪だ。 今日は、酷い日だね」
彼女の言いたい意味が酷く伝わった。本当に、今日は酷い日だ。いや、彼女に出会ってしまったことが酷く日常を崩したのだ。
暗い夜に存在する白い斑点の間を埋める様に、彼女は煙を吐き出す。まるで、継ぎ接ぎの記憶を嫌味ったらしく紡いでいるようだ。
「じゃーね」
彼女は、いつの間にか吸いきっていた煙草を捨てて無感情に別れを告げた。俺は、それに片手だけで返事をして、まだ半分以上も残る煙草に口を付ける。体に振りつける雪に、やけに感傷的な気持ちになった。理由は、ハッキリとしている。
「あ……おまたせ」
申し訳程度の喫煙所から数メートル先で、少しだけ息を荒くする彼女が悲しそうに佇んでいた。
「わりぃ」
俺は、煙草の火を消して、残りの煙草をゴミ箱に捨てた。
この日は、数年ぶりのホワイトクリスマスだというのに、俺の周りだけは流れるべきではない雨が降った。その雨は、随分と遅くまで降っていたようだ。
今日は、本当に酷い日だ。
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