恋文(下)

あの日から甘味処には入れておりません。胸が苦しくて、前を通るのすら緊張するようになってしまいました。貴方を見る機会が減ってしまったのは残念ですが、先日のことだけでしばらくは一杯です。何も言ってはいないけれど、毎度同じ場所に指定席のように座らせてくれた女将さんには、少々悪い気もしますが。

確かに貴方に近づけたのは嬉しい。ですが、それよりも後悔の念が付き纏うのです。自分の不甲斐なさに落ち込み、頭を打ってしまいたい衝動に駆られます。

しかしこれらも全て、貴方の知らないところで行われているのですよね。もし私が逆の立場だと思うと少し怖いものがあります……。

私がこうして一人で騒いでいても、世間は何も変わりません。ただ淡々と時を刻むだけです。誰々が夜逃げをした、不倫をしているなどという話は私の耳にも入ってきます。そんな噂は新たに目新しいものが出来ると、どこかへ飛んでいったかのように消えてしまいます。そんなとき何度、貴方の手を引いて見知らぬ土地に連れて行ってしまいたいと思ったことか、数え切れません。


衝撃が強かったので、前向きに捉えることを忘れていました。貴方が私のことを好意的に見ていた可能性も否めないのです。

貴方はどう思われたのだろうか。知りたい、気になって仕方ない……綺麗に映りましたか? 愛らしく見えましたか? 貴方が守りたい人と思うのはどんな方なのですか?

私は貴方から頼られる存在にもなりたいのですが、理想は一歩後ろから貴方のことを見ていられる関係性が良いのです。

……いえ待って下さい。それだけ運命の出会いになるのなら、声をかけてきてもおかしくないのでは? いや、現に私自身がそんなことをしていないのだから、会ってすぐに声をかける人などは少ないのでしょう。それに一目惚れという概念が、貴方にはないのかもしれません。じっくりと寄り添うべきか判断してから、愛を育み始める関係の方が貴方に合っているでしょうか。


もう一度、もう一度だけ行ってみよう。万一にも会いたいと思ってくれていたら、きっと来てくれるだろうから。私は物事を良い方に考えつつもそれをすぐに否定し、期待せずにいようとして、本当は期待してしまうような面倒な人間です。どうかあのお店を気に入ってくれないだろうか。そうしたらその部分の趣味は私と合うことになる。

……そう上手くいくはずもなくて、本日は一見もすることなく帰宅です。


私は貴方が幸せに暮らしているのをそうっと見ていたいのです。

起きてすぐは少しぼうっとなされていて、まるで幼い子供のよう。お仕事から帰ってきたときに、疲れているはずなのにこちらを労い、微笑んでくれる。休日に切ない映画を見てその内容を思い出し、歪む眉から見せる憂いた表情……見ていないのに想像するのが容易いのは何故なのでしょうか。

もしかしたら貴方と私は、前世で近しい存在にあったのかもしれません。そのときもやっぱり、きっと私はこんな性格のままなのでしょう。

どうしましょうか……欲しいと思ってしまう。何度見ても色褪せることなどない魅力にどんどんと惹かれ……募らせた想いは消えることなく積もっていく。

なんて一方的な愛なのだろう。全てを伝えてしまったら、その愛しい唇から吐かれる言葉は一体何か。優しい貴方は丁重に断ってくれるのですかね。いっそのこと閉じ込めて、全てを私色に染めたいなどとも考えて……。


何にもありません。私と貴方の間には何もないのです。振り返りたい過去も、昔話になるような出来事もある訳がありません。しかし私の方は、手から零れ落ちそうなほど語れるのです。実際には何も起こっていないのに、私だけが知っている、私だけが覚えている。その思い出がここの紙の上でだけ真実になる。インクと紙が無機質なモノであると同時に、とても大切なモノに見えます……私の思い出と同じですね。

……本当は話したいことが沢山あったのです。


甘いものがお好きなのですか? ここは落ち着いていて雰囲気もいいので、私もよく通っているんです。でもあまり目立たないところにあるから近所の方しか知らなくて……えっ、やはりこの近くにお住まいなんですね?

ああ、そういえばここの窓から貴方のことをお見かけしたことがあります。あちらは駅ですよね? ですからもしかしたら遠いところから通われているのかと思いましたが……へぇ一つ隣の駅ですか。私はあまり遠くには出かけないので……はい、大体は近所で済ませてしまうんです。

あっ……すみません、つい見とれてしまいました。いえ、貴方はとても綺麗で美しいですよ。年なんて関係なしに……美しくて……可愛いらしくもあり、色んな方から好かれるのでしょう。私も、甘えたいとも……甘えてほしいなどとも思いますよ。それほど魅力的に私の瞳に映っていますから……。

……本当は貴方のことをもっと前から知っていたのです。初めに会ったのは電車の中でした。ええ、あの電車ですよ。先ほども話した通り、私はあまり遠くに行かないので電車を利用することは少なく……たまたま乗ったそのときに、貴方をお見かけしたものですから、勝手ながらも運命だなんて思ってしまいまして。扉の前で窓の外を見つめる貴方のことを見ていたら……胸の高鳴りを抑えることが出来ませんでした。

一瞬で世界が二人きりになったみたいに、ただ貴方を見つめて……心はその姿を覚えるのに必死で。この人とお知り合いになりたいと思って……。

すみません……叶うならば一度だけ……頭を撫でて頂けませんか。その何度も焦がれた手で、私に触れては貰えないでしょうか……。そんなに泣かないでという優しいお言葉も、私の身体には大きすぎて、溢れて溢れて……止まらない。


一度だけでも目が合えば、それで良かった。


……雨が痛い。これはきっと私への罰だ。冷たさが一層強く、体へと打ち付けてくる。


紫陽花……やっぱり似合うと思いますよ。

一房を胸に持ち、上を見上げると、淀んでいるはずなのに澄んで見えました。

……さようなら。今度会えたならそのときは……。いや、これ以上期待を寄せることはしてはいけない。ただ貴方が幸せならそれで……それでいい……。


赤に染まった私は貴方に似合う人になれたでしょうか。

やはり、この色も合いますね。とっても……まるで花開いたみたいに、綺麗ですよ。



《完》

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