恋文

膕館啻

恋文(上)

どれだけ目で追っていても、貴方が私に気づくことはないのでしょう。ただ見ていればそれだけで……それだけでこの胸は震えるというのに。

嗚呼、優しくされたいなどとは思っていません。あなたの生き様をこの瞳に映し、それにそっと触れられたなら。私など記憶に残っていなくとも構わないのです。


片思いというのは苦しいものです。それ故に、恋焦がれる自分に少なからず溺れているのでしょう。貴方の姿を見る度呼吸を忘れ、心拍数が上がり、熱が灯ります。頬を紅くした私のこと、端から見れば可笑しくも見えるでしょう。ですがそれは、自分自身ではどうにもならないのです。抑える術がありません。


これは私が貴方から離れようと覚悟し、今の気持ちの全て吐き出してみたものです。……ですが、やはり駄目なようです。忘れられる筈ありません。こんなにも頭の中は貴方で一杯だと言うのに、離れようとするのはそれ相当に難しいことのようです。

ですから私は勝手ながら貴方を思う毎日を、今日もここに記して参ります。


貴方にはきっと赤が似合う。あの甘味処に行く前にある着物屋を見て思いました。身に纏ったら、まるで花が開くように、ぱっと華やかさが出るだろう。

気がついたら窓に鼻を付けるまで、近づいてしまいました。

買って贈ることも過ぎりましたが、名も知らない者からの贈り物など、不審に思うに違いありません。このような時に、どうにもならない思いをぶつける術はないのですね。

どのくらいそうしていたのかは分かりませんが、結構な時が経っていたのかもしれません。店主の方が中から現れて、誘われるままそこへ入りました。布も近くで見ることができましたが、嘘を取り繕う余裕もなく、櫛だけ買って帰ることにしました。

いつかこれで貴方の髪を梳き、あの着物を私の前で着てくれたなら……。きっと想像に出来ないぐらい、幸せに震えるのでしょう。

人の頭というものは厄介ですね。私があれこれ考えているようなことを、貴方が慕い人に対し望んでいるならば、滑稽なまでの一方通行です。

今朝も勝手に貴方が喜びそうだと、家の前に咲いていた紫陽花に語りかけてしまったことも、迷惑に映るはず。……しかし貴方は何も知らない。私が毎晩枕を濡らしていることも、姿を思い浮かべて嬉々としていることも。

結局人生とはそういうものなのでしょう。もしかしたら、本来結ばれるべき人間は決まっているのかもしれません。運命的に出会うことも計算済みで、私はそれに選ばれなかった。……などと空想のことを語ってもしかたありません。この鬱々とした日常に、明るい夢を見ることがなくなってしまいました。今では占いや、その類のものも信じていません。そんなものに縋っても貴方は手に入らない。


私は貴方に想いを告げようとも、ましてや目の前に現れようとも考えてはおりません。しかし他の誰かも、こうして貴方のことを考えているかもしれない。気づかないかもしれませんが、貴方は魅力的だから気を付けてほしいのです。私のようなものばかりではないでしょう。中には力ずくで、権力を振りかざす輩もおります。貴方は利口なお人でしょうからうまくかわされるかと思いますが、そんなものに目をつけられ、頭を一瞬でも悩ませてしまうことが歯痒いのです。


……紫陽花色の布を買ってしまいました。贈るわけでもないのに、私の手は一心不乱に縫っていきます。貴方が着ると想像しただけで、ただの布の筈なのにとても愛おしい物に変わります。赤いものは特別な際に、これは普段用に、などと考えるだけでも楽しくて仕方ないのです。


数日ぶりに姿を拝見しました。ああ……少しやつれただろうか。残暑が続いているので、疲れが溜まってしまったのかもしれません。

あそこの甘味処はご存知ですか。冷えたぜんざいはとても美味なんですよ。貴方も知っていてくれたら嬉しい。

私は何度も何度も声をかけることを頭で練習していますが、いざ姿を見るとそれだけで一杯で、声を出そうとはもう思えなくなってしまいます。きっと私は怖いのです。それは大多数が想像するような嫌われないかだとか、貴方の好みでなかったらどうしよう……等そんな感情も勿論持ち合わせてはおりますが。もしかすると私の中の、貴方像が壊れるのが嫌なのかもしれません。我が儘だとは自分でも分かっておりますが、これが性というものなのではないでしょうか。なんて自分に言い聞かせても仕方ありませんね。

やっぱり私は、貴方に声をかけようなどとは思えないのです。今のままで幸せですから。貴方が生きている、お姿を拝見できるぐらいには近くに住まれている。それ以上の幸せなんて私には大きすぎて、とても入りきりはしないでしょう……。


気がついたら二人分のお土産を買ってきてしまいました。いつの間にか手に取っていたのです。少しずつ私の中の何かが浸食してきている気がするのは、気のせいでしょうか。ですがこんな小さなことで、馬鹿のように心は上昇してしまうのです。貴方も罪なお方ですね……なんて一度言って見たかったりして……。


今日は子供が可愛い傘をクルクルと回し、雨上がりの空の下を駆けておりました。とても愛らしく自然に頬が上がってしまう、そんな光景でした。ふと私はこんな子が欲しいと考え……つい想像してしまいました。貴方との暖かい家庭というものを。

子沢山よりは、子一人に私と貴方で静かに暮らしていきたい。派手なことを望まないのが私の性分なのです。ですからこの古くも暖かい街は、私に合っておりました。出来ればずっと身を置いていたい。

こんな話をしていたら無性にやるせなくなり、浪費してしまいました。一人では多い荷物の重さが、更にその気分を後押しします。

私は生涯独り身なのでしょうか。こんなとき貴方なら何と言ってくれるでしょう。安易な言葉はかけずに、優しく頭を撫でてくれたり……なんて私も現金な奴ですね。簡単に落ちたり上がったり……。

しかしそれほどまでに貴方の事を想っている人間がいるということは、知っていてほしい。もし叶うなら、少しでも貴方の為になれることがあるのなら……人は誰かに憧れを抱くと、頑張れるものです。どうしたら不審がられずに私のことを教えられるかと考えてみましたが、良い案は浮かびません。


あっああ……ああ……嗚呼! 少しお待ち下さい。これが夢かどうか……ま、まずは汗を拭きましょう。万年筆を持つ手が震えます。上手く字が書けません。だって貴方とあんな近くまで接近するなど……。

本当に不意打ちでした。どうやら甘味処はお知りになられていたようですね。私はあの場所で古本を読みながら通りすがる貴方を、運が良いときは窓の向こうに発見することができるというような事を、密かな楽しみにしていました。

そして本日、まさかこの中に入って来られるとは想定外でした。貴方はいつも真っ直ぐに駅の方に行ってしまいますから……。

一人でした。私の横を通ったときは呼吸も出来ず、不自然にならないようにと振る舞うつもりでお冷やに伸ばした手はガタガタと震え、仕方なく文字が羅列された紙にしか見えなくなった本に視線を合わせつつ、背中に感じる貴方のことを思っておりました。

女将さんを呼ぶ声を注意深く聞き、何度も何度も頭で再生させて……今までよりも私と貴方が一緒に居る姿を、鮮明に思い浮かべていました。

結局貴方がいなくなるまで、その場におりました。もしかしたら、またあの場所でお会いできる日が来るのでしょうか。

貴方の中ではただのすれ違った一人に過ぎないのに……より一層燃え上がってしまったこの心は、どうすればよいのでしょう。

あまりに緊張したのでほとんど記憶に残っていないのですが、今思い返すと後悔も蘇ります。服は汚れていなかっただろうか、髪はちゃんとしていただろうか、貴方の目に私はどう映ったのでしょうか。

あの店は座席の仕切りに薄いくもり硝子を使っているので、私の姿はぼやけて見えていたはず。貴方がどの席に座ったのかまでは分かりませんでしたが、もし私の一つ後ろならその後の行動まで見られていたかも知れない……。

嗚呼、恥ずかしい! 今日のことを何度も何度も繰り返して考えれば考えるほど……。考えすぎて少し疲れてしまいました。やっと水を飲み落ち着いたところで、床に就きます。けれどしばらくは眠れそうにありません。

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