23 激情に突き動かされるままに


「いいのか? こんな遅くまで飲んでいて」


 夕食後、食堂でエディスと向かい合って飲んでいたアドルは、エディスの言葉に杯を傾けていた手を止めた。


「……たまにしか会えない友人との酒なんだ。今夜くらい、かまわないだろう?」


「俺が来たらアドル様がかまってくれない、なんてフェリエナ様に恨まれるのは御免だぞ、俺は。ま、お前は可愛くねられて、悪い気はしないんだろうが」


 酔いが回ってきたのか、裏声を出すエディスに、アドルは苦笑する。


「……そんなことにはならんさ」


 杯を傾け、表情を隠す。

 が、十年来の友人は何かを感じ取ったらしい。


「お前、まさか……?」

 エディスの眉が寄る。


「奥方の寝室に、ろくに通ってないんじゃないだろうな?」


 「ろくに」どころか「一度も」なのだが、それを教える必要はない。

 アドルの沈黙を肯定と受け取ったエディスが、信じられないと目を見開く。


「あんな愛らしい奥方の何が不満だっ!?」


「不満などない」

 間髪入れずに否定する。


 実際、フェリエナは驚くほどよくやってくれている。

 女主人としての城の采配も、縫物や糸紡ぎといった手仕事も、パタタや他の畑の世話も、村人へ薬を煎じて渡すのも……。

 なぜ、毎日そんなに身を粉にして務めてくれるのかと、不思議に思うほどだ。


 無理をしてくれるなと、いくらアドルが伝えても、フェリエナは「このくらい、領主の妻としては当然のことでございましょう?」と微笑むばかりで取り合わない。


 その言葉を聞くたび、アドルの胸はひどく痛む。


 領主の妻。


 妻というのなら、アドルが何より欲しているのは――。


「アドル?」

 いぶかしげなエディスの声に、慌ててかぶりを振る。


「本当に、フェリエナに不満などない。ただ……彼女をうしなうのが、怖いだけだ」


 数年後には手放さなければならぬ、大切な女性ひと

 それならば、せめて――彼女につけてしまう傷が浅くあればいいと願うのは、あまりに傲慢ごうまんすぎるだろうか?


 アドルの言葉に、何か思い当たる節があったらしい。エディスが沈痛な顔になる。


「そういえば……。ランドルフ伯爵の奥方が、亡くなられたそうだ」


「まだ若かったはずだろう?」


 思わず驚きの声が出る。何年も前の婚礼の時に見た記憶しかないが、まだ二十代の若さだったはずだ。

 沈痛な面持ちのまま、エディスが頷く。


「産後の肥立ちが悪かったそうだ。熱が下がらず、そのまま……。赤子は無事だったらしいが」


 確か、亡くなった奥方は二人目だったはずだ。

 女性にとって、出産は命を賭けた大仕事だ。身分が高かろうと低かろうと、命を落とす危険が潜んでいるのは変わりない。


 エディスが気遣わしげにアドルを見る。


「お前が恐れる気持ちはわかるよ。妻を子どもを産む道具としてしか見ていないランドルフのような男は反吐へどが出る。だが、お前はそんな男ではないだろう?」


 どうやらエディスは、フェリエナを出産で喪うような事態をアドルが恐れていると思っているらしい。


 そんな事態、起こりうるはずがないのだが、それでもエディスの言葉は、アドルの心胆を凍らせるに十分だった。


 突如、よみがえった恐怖に身体が震える。


 杯を卓に置こうとして失敗し、かつんと倒れた杯から、残っていた葡萄酒が卓に広がる。


「アドル様!」

 後ろに控えていたギズがあわただしく布を持ってくる。


 卓を拭きながら、ギズが痛ましそうにアドルを見つめる。


「アドル様。いたんでくださるのはありがたいのですが、もう……」


「もう、何だ!? 彼女はわたしが殺したも同然だろう!?」


 かっ、と激情が胸をく。

 だが、叫んだ途端、アドルを襲ったのは深い後悔だ。


「すまん……。お前に怒鳴る資格など、ないというのに……」

 肩を落とし、悄然しょうぜんびると、ギズはゆっくりと首を横に振った。


「わたくしはちゃんと承知しております。アドル様がどれほど悔み、ヴェルブルク領を立て直すべく、努力してらっしゃるか……」


「……そうか。まだ一年も経っていないのか……」

 エディスが遠い目をして呟き、三人の間に重苦しい沈黙が横たわる。


 と、ギズが重い空気を振り払うように、明るい声を出す。


「まあ、臣下であるわたくしとしましては、変な意地を張るのはいい加減やめて、アドル様には一刻も早く、奥方様と結ばれていただきたいのですがね」


「おいっ、ギズ――」

「結ばれる? 子どもが授かるではなく?」


 くそ、と心の中で悪態をつく。

 なぜ、エディスはこんな時だけ、やけにかんが鋭いのか。


 エディスが信じられないものを見る目で、アドルを注視する。


「もしかして、まだ? おい、冗談だろうっ!? 婚礼からもう三カ月近く経つんだぞ!? 何を考えているっ!?」


「何だっていいだろう! おいギズ、よくも裏切ったな! お前だって、わたしの決断を支持するようなことを言っていただろう!?」


 思わずギズをにらみつけると、アドルが信頼する有能この上ない家臣は、あっさりと肩をすくめてみせた。


「ええ。アドル様の甘さを好ましく思っている心に偽りはございません。ですが、臣下としましては、早くお世継ぎのお顔を見て、安心したいという望みも真実でして」


 ふう、とギズが芝居がかった仕草で吐息する。


「奥方様の愛らしさに早々に陥落するかと思いきや、思いがけず、鉄壁の理性を発揮されるのですから」


「お前……っ」


「ひどく酔ってらっしゃいましたし、婚礼の夜で片がつくと思っていたんですがねぇ……」


 アドルに射殺すような目で睨みつけられているというのに、ギズは悪びれた風もなく言ってのける。


「というか、どういうワケだ!? 結婚しているのに、未だに結ばれていないなんて……!? 冗談にしても、タチが悪すぎるだろう!?」


 エディスが酔っぱらい特有の大声を上げる。


「冗談でこんなことができるか! これは夫婦の問題だ! お前には関係ないだろう!?」


 アドルは会話を断ち切ろうと顔を背ける。が、エディスはその程度で追及を緩める男ではなかった。


 突然、襟首えりくびを掴まれ、首が絞まる。

 卓に身を乗り出したエディスが右手を伸ばし、アドルの襟首を掴んでいた。


「友人が不幸に落ちていくのを、指をくわえて見ていられるか!」


 思わず胸を突かれ、振り払おうとした手が止まる。


「それに」

 エディスが荒い息のまま、言を継ぐ。


「フェリエナ様のことは、俺も好ましく思っている。お前が彼女を不幸にする気だと知って、黙っていられるかっ!」


 熱情をはらんだ声。

 その声を聞いた瞬間、自分を襲った感情が何かも自覚できぬまま、アドルは力任せに、エディスの手を振り払った。


「フェリエナに手を出してみろ! いくらお前といえど許さんぞ!」


 怒りのあまり、視界が紅く染まるようだ。

 しかし、エディスは更に挑発するように、傲然ごうぜんあごを上げる。


「そんなに大事なら、誰かに手をつけられる前に、ちゃんと妻にしたらいいだろう?」


「そんなこと、できるわけがないだろう!?」

 怒りに任せて、吐き捨てる。


だまし討ちのように縁談を結んで、こんな辺鄙へんぴな地に連れてきただけでは飽き足らず、おびえる彼女の純潔を奪うなど……っ! フェリエナを抱くなど、死んでも御免だっ!」


 叫んだ瞬間、かたりと食堂の扉が鳴る。


 驚愕に見開いた目に映ったのは。


「み、水差しの水が切れて、その……」

 蒼白な顔で唇をわななかせるフェリエナだった。


「す、すみま……」

 かすれた声でびたフェリエナが、不意に身を翻す。


 そのまなじりに光るものを見た気がして、アドルは気づけば後を追っていた。


「フェリエナ!」

 呼びかけてもフェリエナは止まらない。

 ドレスの裾をからげ、螺旋階段を駆けあがっていく。


 一段飛ばしで後を追い。


「待ってください!」

 強く腕を引いた途端、よろめいて段を踏み外したフェリエナが、どさりと胸に倒れ込んできた。


 手から滑り落ちた青銅製の水差しが、けたたましい音を立てて転がり落ちていく。


「お放しください!」

 腕の中でフェリエナが暴れる。


 涙にぬれた新緑の瞳と、血の気の失せた唇を見た途端。


 

 アドルは思わずフェリエナを抱き寄せ、くちづけていた。


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