『9月27日午前三時半 貨物船ヤースヌイ号、第三層 PartⅡ』

「――何だよ、思ったよりテメェもこっち側じゃねぇか。ぶっ飛んだ真似しやがって、そのピンは絶対に抜くんじゃねぇぞ」


 しかし、彼女の耳に届いたのは、聞き覚えのある、気取り屋の声。

 目を開け、美奈はその声がする方向へと顔を向けた。そして、その姿を見て、こんな情けない顔はしていられないと、いつもの美奈へと戻る。

 彼女がその心の中で、その力を羨み、少し妬ましく思う気取り屋のかっこつけ。そして、この世の誰よりも日常では役に立たない、ただ飯食らいの昼行燈。

 しかし、この世の誰よりも、こんな時に頼りとなる男。

 六橋美奈は、その名を力いっぱい呼ぶ。


「――っ、幸平! 遅いっての!」

 仁衛幸平。不敵に笑うその男は、残っていた部下を倒し、セルゲイと対峙していた。しかし、セルゲイを無視するように、幸平は美奈の方を向く。

「しゃあねぇだろ、上に何十人いたと思ってんだ。ったく、羽虫みてぇに沸きやがって。まだ上じゃあ、姫梨奈が後処理してんだぞ。――けどまぁ、このデカブツで最後だろ、美奈?」

「そ、そうよ! そのクソ野郎一号と、アタシの下にいる二号で最後!」

 そう嬉しそうに答える美奈の顔を見た瞬間、幸平の表情が一変した。頬を撃たれ、何度も殴られ、蹴られ、それでもなお機会を窺っていた彼女の頬は腫れ、青いあざすら出来ている。

 不敵な笑みが、幸平から消えた。

 幸平は僅かに俯きながら、弾薬が尽きてしまったHK416Cを手離して、床に置く。

「上にいた部下は、四十人以上だぁ。それを皆殺しにするとは、流石カルテルが懸賞金を――」

「おい」

 低く、冷たい声が、セルゲイの言葉を止めた。そして、幸平の目がセルゲイを見据える。

「ウチの仲間を、俺の戦友ダチを、あんな顔にしたのはテメェか?」

 殺意。

 憎しみ、怒り、悲しみ。そんな感情という優しい言葉では表せない、殺意だけが幸平の目にはあった。幸平は最早、この二人を人とは思っていない。彼の頭はシガレフとセルゲイを、必ず殺すべき敵だと認識する。

 思わず一歩後ずさり、答えないセルゲイに幸平は舌打ちし、次にシガレフへとその殺意を向けた。

「なら、テメェだなネズミ野郎。――いや、テメェはもう、そんな上等な生き物じゃねぇ。畜生以下の、カスだ」

 シガレフは、幸平が向けた殺意に心底恐怖しながら、その言葉に反駁する。

「な、何を言うかと思えば。お前らもワシらと同じく、人殺しだろう! 自警団気取りの無頼共が正義の味方気取りとは、随分と笑わせる!」


 幸平は否定しない。左手で頭を掻きながら、

「おう、その通りさ。俺は人殺しのろくでなし。切った張ったに命を懸けるくらいしか能がねぇ、この街にしか居場所のない馬鹿さ」

 だが、幸平はそのまま、言葉を続ける。

「――そこでひとつ、質問させてくれねぇか。俺は馬鹿だからよ、分からねぇことがあんだ」

 美奈を初め、シガレフやセルゲイまでも、突然の幸平の言葉に面食らった。

「俺たちが、クソヤローだったとして。テメェらみてぇなクソ以下の連中を、見逃す道理が何処にあるんだ?」

 自らが善ではないから、目前に蔓延る悪を見逃す。そんな道理はこの世に存在しない。

 敵の姿を捉える幸平の瞳に、怒りと闘志の炎が煌々と燃え盛る。その瞳の炎は、敵と定めたシガレフを飲み込まんとするほどである。

「ウチのボスがよ、こう言ってんだ。例えゴミ溜めに生まれて、泥とゴミで身体が汚れちまっても――」

 幸平が、指の骨を交互に鳴らす。

「そこにあるゴミを拾うことに、価値がなくなることはない、ってよ。その言葉が、俺たちはたまらなく好きなんだよ」


 目の前にいるゴミを始末することこそ、幸平の使命であると言わんばかりに、幸平はシガレフに依然として狙いを定めている。

 力で以て理不尽をばら撒く者たちに抗う者。理世の唱える理想の実行者として、仁衛幸平はそこに立っていた。

 彼はジャケットを脱ぎ捨てた。呆気にとられながらその言葉を聞き、姿を眺めていた美奈は、ふと姫梨奈のある言葉を思い出す。

 幸平がジャケットを脱ぎ捨てたなら、それは彼が本気になった証拠だと。

「つまり。この自警団ごっこは、俺たちの趣味と実益を兼ねた、理想の職業ってワケだ。テメェらクソヤローは当然として、堅気の連中の言葉も、ぶっちゃけて言えば関係ねぇんだよ」

 そして、姫梨奈はこうも言っていた。

「――理不尽を片端からぶっ飛ばす。そんな生き方が最高に面白ぇから、俺たちは豊島一家の看板背負ってんだ」


 こうなった幸平は、絶対に誰にも負けはしないと。


 幸平は、倒すべき目下の敵であるセルゲイの方を向き直る。そして、体格ではゆうに幸平を越えているセルゲイへ、あろうことか手招きした。やれるものなら、かかって来いと。

 忌々しそうに顔を歪めるシガレフが、大声で叫んだ。

「殺れ、セルゲイ! その男を、ぶち殺せぇ!」

 大岩のように幸平の前に立ちはだかるセルゲイが、幸平を睨む。だが、彼は微塵もその視線を気にしていない。まるで、雑魚など眼中にない、とでも言わんばかりであった。

「どうしたデカブツ。そのかさばりそうな図体は飾りか?」

 セルゲイの裏拳が、幸平の顔に直撃する。銃弾のように速く、砲弾のように重い一撃をまともに喰らって、幸平は真横の木箱にまで吹っ飛んだ。

 木箱は見事に壊れ、その中にあるじゃがいもがこぼれ出す。


 拍子抜けするほど軽く吹き飛んだ幸平に、セルゲイもシガレフも笑い始めた。あれほどかっこつけておきながら、結局はそのザマなのかと。

 そして、じゃがいもにもたれ掛かる幸平の首を掴んでやろうと、セルゲイが近寄り、手を伸ばした。そのまま首をへし折ってやろうと、セルゲイは考えていたのだ。

 しかし、その右腕を強烈な力で掴まれて、セルゲイは身動きが取れなくなる。掴んでいるのは、幸平の右腕であった。

「――これで、終わりか?」

 振り解こうと腕に力を入れるセルゲイ。しかし、彼の腕はびくともしない。その瞬間にも、幸平はじゃがいもの中から、ゆっくりと立ち上がる。

 その時、セルゲイは確かに見た。鋼のマネキンがシャツを着ているのかと錯覚するほど、鍛えられた幸平の腕と身体を。セルゲイに比べれば、確かに彼の右腕は細い。しかし、セルゲイがその腕を何とか解こうと左腕で叩いた時、彼はまるで鋼を叩いているかのように感じた。

 そしてセルゲイを見上げる幸平の顔には、犬歯を剥き出しにした笑み。セルゲイはこの時、生まれて初めて恐怖を覚えた。


「なら、こっちの番だな」

 幸平が、セルゲイの不意に腕を離す。そこから、彼の顎を貫く右の掌底。どれだけ筋肉を鍛えても、人体の急所と言われる部位を鍛えることは難しい。セルゲイの顎は確実に掌底の衝撃を伝えた。彼の歯が何本か砕けてもなおその衝撃は上へと駆け上り、彼の脳を大いに揺らす。

 そこへ幸平が、連続して拳と掌底を叩き込んだ。左右の顎や頬骨などの硬い部位に対しては掌底を、鳩尾や喉仏などの比較的柔らかい場所には拳を的確に当てていく。寸分の狂いもない、精確無比にして素早い打撃の雨。

 セルゲイも口からぼとぼとと流血しながら、幸平の顔へと拳を撃ち込もうとする。だが、それを幸平は紙一重のところでいなし、更に攻撃を加速させた。まるでセルゲイの攻撃は、打撃の雨を余計に加速させていると思えるほどである。

 そして、幸平はマイケルを倒した時とは逆に左足を軸足として、駒のように回転。一連の動きを、最早映画を見るような感覚で見ていた美奈は、ぼそと呟いた。

「――勝った」

 右足を用いた、後方回し蹴り。首が百八十度回り、セルゲイはその場に膝から崩れ落ちた。

 力を以て、力に対抗する。言うは易いが実際は難しい。しかし、一瞬とも思える緊迫した戦いを経て、その場に立っていたのは仁衛幸平だった。

 体格差という不利を覆すほどの、洗練された暴力の技術。鋭く研磨された剣のようなその力は、理不尽に飼われた獣を見事に打ち倒したのである。

「じゃあな、デカブツ。あの一発は、そこそこ効いたぜ」

 ふと鼻血が出ていることに気づき、幸平は手の甲でそれを拭いながら、美奈へと近づく。

 美奈がようやく我に返り、慌てて幸平を指差した。

「あ、アンタ! 吹っ飛ばされた時は、一瞬どうなることかと思ったわよ! 無駄にひやひやさせんな!」

「相変わらず、うるっせぇな。ンなことより、このクソヤローはどうすんだよ」


「た、頼む! 助けてくれ! このガキ共を撃ったのは、さっき死んだあの男だ! ワシは関係ない!」

 この期に及んで、シガレフは先ほどまでの憎たらしい態度を一変させ、放っておけば靴でも舐めそうなほど卑屈になり、幸平たちに許しを請う。

「テメェも、すがすがしいほどのクソヤローっぷりだな」

 幸平はそんなシガレフを後目に、左脇のホルスターからシグP226を抜いて、その銃口を彼に向ける。美奈はそんな幸平の前に、自らの右手を出した。

「なんだよ、こんな時に。金ならねぇぞ、治療費は自腹だ」

「違うわよ! ――この男は、アタシが殺すわ」

 美奈のその言葉を聞いて、幸平はその場に屈んだ。そして、彼女の目をまっすぐに見つめた。嘘は許さないという、彼なりの意思表示である。

「拳銃(ハジキ)は脅しの道具じゃねぇ。殺しの道具だ。コイツの引き金は修羅の巷、人殺しのろくでなしへの片道切符だ。その覚悟は、出来てんのか?」

 今ならまだ、堅気の世界まで引き返せると、彼は暗にそう言っていた。理不尽と欲望、暴力と硝煙が満ちあふれる、インサニオの裏の顔。その世界への招待状を使えば、もう二度とまともな世界には帰れない。どんな理想を抱き、信念を貫き、誰かを守るために引き金を引いたのだとしても、それが自分の都合であることは変わりないのだ。

 そして、自分の都合で誰かの命を奪った人間は、少なくとも善人とは呼ばない。むしろ悪人に限りなく近い存在、悪党となる。

 そう呼ばれる覚悟は出来ているのか。幸平のまっすぐな目は、それを美奈に問うていた。

 だが、それでも。美奈は幸平に伸ばした手が、引っ込むことはなかった。

「分かってる。けど、コイツはアタシの手で殺す。それが、アタシなりのケジメってヤツよ」

 美奈の顔に、そしてその瞳に、一切の迷いや偽りはない。六橋美奈という人間が進むべき道を、彼女は既に決めているようだった。

 幸平はその顔を見ると、彼女の襟首を左手で掴んで、シガレフの上から無理矢理退かす。

「ちょっ、アンタ! 何やってんのよ!」

「そういやぁ、ボスに言われてんだった。シガレフはなるべく、生け捕りにしろってな」

 慌ててシガレフを再び捕まえようとする美奈だが、幸平が未だに襟首を掴んでいるせいで、身動きがとれない。


 その間にも、シガレフは二人を嘲笑いながら、階段の方へと走り始めた。

「ほれ、出口に居る若衆の所まで走れ、クソヤロー。後で嫌ってほど情報を引き出してやっからよ」

 しかし、そうは言っても幸平は拘束の類など一切していない。このままでは、逃げられてしまうだろう。

 みるみるうちに、シガレフは幸平と美奈から離れていった。

「ば、馬鹿め! やはりお前たちには頭が足りんようだな! この船には隠しの――」

 その時、一発の銃声。

 幸平が右手で構えるP226の排莢口から空になった薬莢が落ち、軽い金属音が鳴った。まるでそれが、シガレフの命の価値だと言わんばかりに。

「嘘に決まってんだろ」

 幸平の目には、やはり何の感情も浮かんでいない。丸めた紙屑をゴミ箱へと投げ捨てる時、いちいちその紙屑に何かしらの感情を抱く者などいないだろう。幸平にとって、今まさに引いた引き金は、その程度のものだった。


 しかし、驚いたのは美奈である。彼女は驚くあまり目を丸くして、幸平の顔を見た。

「アンタ、何で――」

 そして噛みつくように、美奈は幸平に詰め寄る。しかし幸平はそんな彼女の頭を、わしわしと雑に撫でた。

「引き金を引くのは、俺の仕事だ。テメェはそんなツラになるまで、命張ったんだ。これ以上、重荷を背負うこたぁねぇよ。それに――」

 ジャケットを拾い、再び袖を通す幸平。いつも通りの気怠そうな背中を向けながら、彼は美奈にこう言った。

「人殺しなんざ、進んでなるようなモンじゃねぇ。俺が代わりに引き金を引けるなら、俺が引いてやる。俺には、それくらいしか能がねぇからよ。だからその覚悟は、どうしてもテメェが引き金を引かなきゃならねぇ時まで、そのままとっとけ」

 そのまま、幸平は第三層を出るために階段へと向かう。

 美奈は少しだけ、その背中を眺めた。これは、自分が未だ一家の一員として、認められていないだけなのではないか、と思ったからである。

 しかし、彼女は頭を振って、そんな考えを捨てた。

 気取り屋で短絡的、文句があるなら面と向かって堂々と言う仁衛幸平が、わざわざそんな迂遠なことをするわけがない。


 何より美奈は幸平が自分の時間稼ぎを、戦ったと言ったことが嬉しかったのである。彼女はシガレフに騙され、死を覚悟した時に噴き出した負の感情が、今の言葉で洗い流された気がした。

 確かに彼女は未熟で、無力かもしれない。だが、生きている。

「お、お姉さん。あの子、助かったよ」

 そして、彼女が身を挺したからこそ、守れた命もあるのだ。少女と同じ檻に入っていた男の子が、美奈の肩をそっと叩く。

 その男の子が指差す方向には、目を覚まし、他の子に脇を抱えられている女の子の姿があった。他の子どもたちも、続々と檻から出ている。

 美奈はその様子を眺め、気が抜けたのか、その場にへたり込んでしまった。

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