『9月27日午前三時半 貨物船ヤースヌイ号、第三層 PartⅠ』

 床に両膝をつく美奈の左頬を、シガレフの右拳が殴りつけた。

 何度か殴られ、朦朧とする意識の中、美奈は口に溜まった血を床へと吐き出す。

「本来なら、こういったことはセルゲイに任せ、ワシは手を汚さんのだが……。お前のような小娘では、セルゲイが一発殴っただけで首の骨が折れてしまう。それでは情報を聞き出すことも、存分にいたぶることもできんからな」

 シガレフは下卑た笑みを浮かべつつ、美奈を殴っていた手を止める。普段から人を殴り慣れていないので、手を痛めたのだ。


 意識を何とか奮い立せ、美奈は状況を整理する。

 檻の鍵は既に、全て開錠済み。そして、幸平たちが攻撃を開始したことに驚き、シガレフたちはそのことに気づいていない。見つかった当初は五人以上いたシガレフの部下も、第二層付近で銃声が鳴り始め、ほとんどはそこへ増援に向かった。今いるのはシガレフとセルゲイと呼ばれている筋肉男、そして短機関銃を持った部下が一人である。

 しかし、少女が肩を撃たれて血を流しているという問題が、美奈を嫌が応でも焦らせた。子供たちが必死に止血を試みているものの、このままでは長く持たない。少女の着ているボロ布は赤黒く染まり、子供たちの抑える手から溢れた血液は床を濡らしている。

「……ご親切にどうも。けど、アンタのひょろい腕じゃあ、蚊に刺された方がよっぽど痛いっての」


 今ここで、行動を起こさなければ。

 軽口を叩きながら、美奈は手段を考える。幸いなことに、美奈は拘束されておらず、子供たちを人質に取られているだけだ。美奈のボディバッグには止血剤と包帯も入っており、シガレフたちさえ排除すれば、少女を助けることもできる。

 先ほどの軽口も、シガレフを挑発するためのものだ。

 受けた痛みも、シガレフたちへの怒りも、少女たちの心配も、大きく吐き出した息と共に、美奈は心から一旦追い出した。

 精神の全てを、シガレフが次に見せる隙を突くために集中する。

「――どうやら、まだ痛みと恐怖が足りないらしい」

 美奈の思惑通り、シガレフは再び彼女を殴り始めた。一発、二発と顔を殴られながら、美奈は狙いを定める。


 彼女の狙いはシガレフが左脇のホルスターに仕舞っている、マカロフであった。

 まずシガレフの攻撃を途中でいなし、彼の体勢を崩す。そのままマカロフを奪って、逆にシガレフを人質にとるのが、彼女の考えだった。いくら連中でも、上司を人質に取れば、銃を捨てざるを得ない。そして、このシガレフという男は身長も小さい上に痩身で、いかにも弱そうである。

 セルゲイや彼の部下ならともかく、シガレフならば自分でも勝てる。美奈はそう考え、彼の隙を狙っていた。

 そして、シガレフが肩で息をし始め、とどめに美奈の腹部へと右足の蹴りを放とうとした時。大きく目を開き、美奈が動いた。

 彼女の頭にあったのは、廃工場でマイケルの拳をいなした、幸平の格闘術。取るに足らない我流の術だと言った彼の動きを、美奈は脳内でイメージする。無頼と外道が跋扈し、力無き思いは路傍のゴミ同然と踏みにじられるこの街で、己の信念と輝く理想を支えるその強さを。


 相手の動きを見て、その力を別の方向へ。


 自身の腹部へと放たれたシガレフの足を、美奈は両手で右へと払った。大きく体勢を崩し、転倒するシガレフ。そんな彼に馬乗りとなって、美奈はホルスターからマカロフを奪うと、シガレフの眉間に右手で構えたそれを突きつけた。

「動くな! 動くとこのネズミ親父の眉間に、トンネルが開通するわよ!」

 時間が無い。彼女はボディバッグからある物だけを素早く抜き取ると、少女の檻の前へと放り投げる。こうしてシガレフたちを牽制している間にも、少女の命は消えかかっていたからだ。

「そこに止血剤やら、包帯やらが入ってる! 早くその子を治療してあげて!」

 子供たちが止血剤や包帯を上手く使えるのかは、賭けだった。しかし、これまで絶望のどん底で生きてきた子供たちは、どうやら傷を治す術も知っているようである。誰にも助けてもらえないからこそ、自らでその術を学んだのだろう。

 少し胸を撫で下ろし、改めてシガレフへと銃口を押しつけた。セルゲイたちが、銃を捨てるべきか否か、逡巡していたからである。

「チンタラしてんじゃないわよ! このクソ野郎の脳漿が、床のシミになってもいいっての⁉」

 

 しかし、シガレフは笑っていた。


「カカッ、カカカッ! なるほど、なかなかいい判断だ。だが、頭の方が足りん」

 その不気味で、不快な笑いに、美奈が眉をひそめる。何故、この男は眉間に拳銃を突きつけられ、嗤っているのだ。度胸がある性格とは思えない。この手の下衆は、こうなった場合は命乞いをするはずである。美奈はそう考えていた。

「何故、命乞いをせんのか、という顔をしておるな。確かに、それが弾の入った拳銃なら、ワシも怖がったろう。助けてくれ、許してくれとな」

「アンタ、一体何を――。だって、アンタはさっき、この銃であの女の子を――」

 一層の大声で、シガレフが嗤う。まるで、滑稽に踊る道化へ嘲笑を浴びせるかのように。

「――何故、お前はワシが撃ったと思うた。お前に腕力で負け、馬乗りの状態をどうにも出来んワシが、中途半端に拳銃だけ持つと思うか?」

 まさか。美奈のこめかみを、冷や汗が流れ始める。その様子を見たシガレフは、自身の勝利を確信し、更に嗤った。

「中途半端な力は、身を滅ぼす。あの世に行っても覚えておれ、小娘。ワシは拳銃こんなものに頼らずとも、この頭でお前を殺せるのだ。カカカッ、カカカッ――!」

 あの時、美奈の頬を掠め、少女の肩を撃ち抜いた銃弾を放ったのは、セルゲイのマカロフだったのである。

 そんなはずはないと、美奈は引き金を引くが、かちという虚しい音が響くだけだ。

「さぁ、セルゲイ。この阿呆の脳みそを、床にばら撒いてやれ。さっき少女の肩を撃ち抜いたように、ワシの指示通りにな」

「了解。売ればそれなりになりそうな女だが、仕方ないなぁ」


 負けた。美奈は、呆然としながらそう呟く。しかし、時間稼ぎにはなっただろうし、少女の応急手当ができたことは良かったと、美奈は思うことにした。

 そして、彼女は負けたままでは終わらないと歯を食いしばる。美奈は先ほど見張りの男から奪った、最後の切り札を使うことにした。

 それは破片手榴弾フラググレネード。爆風と金属片を数メートルの範囲にばら撒く武器を、彼女は隠し持っていたのだ。

 手榴弾を取り出した美奈は、そのピンに指をかけて叫ぶ。

「コンテナの扉を閉めて! せめてこのクズ共だけでも、道連れにしてやるわ!」

 彼女の声を聞き、捕まっていた子たちは慌ててコンテナを閉める。流石に自爆は読めなかったのか、シガレフも血相を変えて美奈を止め始めた。

「ま、待て! こんな所で、見ず知らずのガキ共を助けるために自爆だと? 貴様、正気か?」

 美奈は、笑う。確かに、彼女たちとはつい先ほど、裏遊六を走る貨物列車の中で出会っただけである。いくらその境遇を不憫に思い、義憤に駆られたとしても、命を懸けるほどではないはずだ。

 だが、そんな彼女たちを美奈は心底から助けたいと思ってしまった。この子たちを見捨ててまで明日を生きられるほど、自分は器用でないことも、理解してしまったのだ。

 命を懸けて、理不尽に抗う。その過程で得られる体験が、何よりも自分の心を熱くさせることも。


 故に、彼女はシガレフの問いに答える。ある種の狂気をも孕んだ笑みを浮かべて。

「この街に、自ら望んで来てる女が、正気なワケないでしょ」

 ピンを抜けば、それで最後。次に彼女が耳にするのは爆発音だろう。その音で、彼女の全てが終わる。二十年も経っていない人生だったが、最後の一年ほどはこの街で、あの一家の下で過ごせて楽しかったと、美奈は己の人生を振り返って思う。

 零れ桜のように一瞬で、しかしとても面白い人生だったと。

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