『9月27日午前2時過ぎ 貨物船ヤースヌイ号、船内 PartⅡ』
階段から離れた、第三層の奥。時折点滅する照明が、その奥にあるものを照らし出す。
それは、コンテナを改造した金属製の檻に入れられた、先ほどの子供たちであった。その周辺には同じコンテナが何個もあることから、そのいずれにも子供たちが捕えられているのだろう。
美奈は急いでその内のひとつへと駆け寄り、檻の格子を両手で力いっぱい掴んで、大声を上げそうなほどの怒りを抑えつけた。
この子たちが、一体何をしたというのか。冷たく、決して広くはない檻の中で、ただじっと身を寄せ合っている子供たち。檻の中には、泥のついた皮すら剥かれていない野菜が、何個か置かれている。まさか、これが食事なのか。
美奈はその場で膝を折り、俯いて大きく息を吐く。こうしなければ、怒りのままに短機関銃を持って、甲板へと打って出てしまいそうだったからだ。
「もしかして……、飴玉のお姉ちゃん?」
そんな美奈に、恐る恐る声をかける少女。美奈が貨車に乗り込んだ時、飴玉を渡した少女であった。
その声で彼女は我に返ると、冷静さを取り戻すために頭を振って、少女へと笑顔を向ける。
「――そう、飴玉のお姉さんよ。約束通り、アンタたちを助けにきたの。ちょっとだけ待ってて。このクソッタレな檻の扉を、すぐ開けてあげるから」
美奈のその言葉を聞いた瞬間、少女を含めた檻の子供たちはしばらく互いに顔を見合わせた後、不器用にではあるが表情を明るくさせた。子供たちは、希望というものに慣れていなかったのだ。
美奈が助けに来たと言った時。確かに子供たちの心には、目の前の暗い世界に、火が灯ったような感覚があった。しかし、子供たちは今までその感覚の、感情の名前を知らずに育ったため、どう表現すればいいのか分からなかったのだ。
それでも必死に、子供たちなりに希望を喜ぶ。その様を見て、助けに来たはずの美奈が、思わず涙ぐんでしまっていた。
これまで誰にも希望を与えられず、無力であるが故に希望を勝ち取ることも出来なかった子供たち。こんな自分でも、そんな子供たちに希望を与えられた。美奈の流す涙には、そういう意味もあったのかもしれない。彼女は涙を拭うと、ピッキングツールを取り出して、奥の檻からその錠前を開け始めた。
そして、最後に飴玉をあげた少女の檻を開ける。希望の光が、子供たちに注がれようとしていた。
だが。その希望に、一発の銃弾という影が差す。
美奈の頬を掠めた九ミリの弾は、少女の左肩を撃ち抜いた。
恐怖が希望を塗りつぶし、子供たちは撃たれた少女の傷口を抑えて、必死に命を繋ぎ止めようとしている。美奈の白い頬に、一筋の血が流れ始めた。
これらを美奈は見ていたが、その処理を行う彼女の脳は、突然の悲劇に追いついていない。
そして、数瞬経ってようやく、呆然とした美奈の顔に憎しみと怒りの色が現れた。
短機関銃へと手を伸ばし、背後にいる者たちへ向けて乱射しようとする。
「動くな。動けば、お前もろとも商品を今すぐ処分する」
だが下卑た声が、その動きを止めさせた。美奈は辛うじて残っていた理性で、短機関銃を手放す。
「カカカッ。ゆっくりと、こちらを向け。何かすれば、商品もお前も蜂の巣だぞ?」
鼻息を荒げて、怒りと憎しみに支配された表情をしている美奈は、自身の背後にいた人物へと、その視線を向けた。
「――シガレフ。アンタ、死ぬ覚悟はできてるんでしょうね」
「カカカッ。その台詞を言われるのは、もう何回目か分からん」
美奈の背後で銃を構えているのは、シガレフとその部下数人、そして用心棒のセルゲイである。
部下たちは、全員が短機関銃や自動小銃で武装しており、シガレフとセルゲイも、九ミリ弾を用いるマカロフを構えていた。とてもではないが、美奈一人でどうこうできるものではない。
「今回仕入れた商品の様子を見に来たら、まさか鼠を一匹見つけることが出来るとはな。もっとも、仕入れを邪魔した豊島一家への見せしめに、最初から何人かは殺す予定だったのだが。カカカッ、今日のワシはツいておる」
シガレフは耳障りな笑い声で美奈を嘲笑う。美奈には、それが我慢ならなかった。何の罪もない少女が撃たれ、血を流して苦しんでいる。こうしている今にも、死んでしまうかもしれない。
であるにも関わらず何故。少女を撃ち、子供たちを商品としか考えていない眼前の下衆は、こうも笑っていられるのか、と。
これこそ、この街における理不尽の縮図だ。
無力というだけで、何の罪もない子供たちが虐げられ、その血の一滴に至るまで搾取される。一方、力を持つ者たちは弱者を虐げてより力を得て、中には虐げること自体に喜びを見出す者までいるのだ。
それでもなお、この街に住む者の多くは、こう唱えるだろう。
力を持たぬ者が悪いのだと。ここは真の自由と強者が支配する街、インサニオ。弱肉強食がこの街唯一の掟であり、それはこの混沌とした世界における真理なのだと。
美奈は思う。ならばそんな自由など、強者など、真理などクソ喰らえだ。
シガレフたちに銃口を向けられても、美奈の目に恐怖は無い。正確に表すならば、恐怖を塗りつぶすように、彼女の瞳には理不尽への怒りと、眼前の下衆への憎しみが溢れ出している。
生まれ出て、希望を喜ぶことすら今まで知らなかった子供たち。そんな子供たちが理不尽に虐げられる様を見て、それが世の中の真理だと宣うほど、美奈の心は冷めてはいなかった。
美奈の鋭い眼が、シガレフを睨み据える。
「――その銃口。せいぜい、アタシから外さないようにしときなさいよ」
彼女の心から溢れ出した怒り、憎しみというマグマのような感情は、彼女も気づかぬうちに少しずつ冷え始めた。そして代わりに、理不尽に対して頑強に抵抗をし続ける、信念という名の岩石が彼女の心に作られる。
元々、彼女の心にあった小さな信念の石が今、大きく堅牢な岩へと変貌を遂げたのだ。
「でないと、アタシはアンタを必ず殺す。覚えときなさい」
美奈のものとは思えぬほど低い声で、彼女はただ事実を述べる。
この時、美奈は気づいていなかった。自身の目が、地下道で誘拐の実行犯たちと戦う前の幸平と似つつあることを。
この街に来て、未だ半年ほどしか経っていないはずの、未熟だった少女の目に宿る覚悟と信念の色。その目に、シガレフは思わず一歩後ずさりしてしまった。
そしてその時、シガレフの後方から一人の部下が狼狽して走ってくる。部下はシガレフの元まで辿り着くと、息を荒げながら必死に報告した。
「と、豊島の連中が! 攻め込んできました!」
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