『9月27日午前2時過ぎ 貨物船ヤースヌイ号、船内 PartⅠ』
六橋美奈は緊張で高鳴る胸を左手で抑え、辺りの様子を窺う。
彼女が忍び込んだ貨車は、未完成の地下鉄に敷かれていた線路を走り、日本人街を越えて夢の島周辺で停車した。
その場所は、かつて大規模な保管流通倉庫の建設予定地。計画が途中で頓挫し、そのまま放置されていたのを、ロシアン・マフィアが目をつけたのだ。彼らはそこで、何台かのトラックに攫った子供たちや他の積荷を乗せ、美奈も引き続きそれに潜伏した。
そして、貨物船の前まで到着すると、美奈は恐らく盗品であろう彫像が入っている箱へと忍び込み、まんまと船内への潜入に成功したのである。
美奈の役割は二つ。
幸平たちが来る前に、子供たちの居場所を突き止めること。そして、幸平たちが到着したと同時に、船内で何かしらの攪乱を行うことであった。
現在、美奈は盗品や武器等を保管している層の物陰に隠れ、そこから出るタイミングを窺っている。
短機関銃を持った見張りが巡回しているものの、時刻が午前零時を回った辺りから、少しずつ見張りの数は減っていった。
恐らく、交代で仮眠や休息をとっているのだろう。警備の質も一線級とは言い難く、立ち話をしている者や、欠伸をかみ殺しつつ無断でトイレに赴く者までいた。挙句の果てには、どこから呼んできたのか、売春婦らしき女性たちまで船内をうろついている。
そして、美奈は自身の周りから見張りが居なくなったことを確認し、行動を開始した。
足音を極力立てないようにしながら、船内を探索する美奈。幸いなことに船内の見取り図はすぐ見つかり、それを携帯で撮る。そのまま美奈は、幸平たちの携帯へと見取り図を送り、携帯を上着のポケットへと仕舞った。
見取り図は、ロシア語で書かれている。
「え――っと、この船は多目的船で、この層は第二層か。一番下が第三層で、もう一個昇ると第一層ね。で、その上が甲板、それから船橋か」
しかし、美奈は難なくそれを読み、子供たちが捕えられている部屋が何処かを推測していた。
彼女は日本語と英語の他に、スペイン語とロシア語も多少は話せるという多言語話者、所謂マルチリンガル。この程度のものは朝飯前といわんばかりに、すらすらと読み解いた。
「下の貨物層へ来るためには、甲板のハッチか第一層の搬入口を開けるか、船橋から階段を使うしかないわね。親玉や手下が船橋にいるのは確定。でもって、万が一子供たちが逃げ出そうとしても困難な場所……。となると、第三層ね」
美奈は第三層、船の一番下に子供たちがいるだろうと、当たりをつける。
そして、貨物によって構成されている迷路を利用しつつ、第三層へと向かい始めた。
二層にあるのは、銃火器の入った木箱や、その弾薬類。並びに、形も大きさもまちまちの木箱や、セロファンで包まれたコカインであった。日本人街制圧後にすぐ商売を始めるための備えか、はたまた既にこの貨物船で商売を始めているのか。美奈にはそれが分からない。
とにかくそれらの物陰を利用して、美奈は第三層へと向かう。
「へへっ、アタシも理世ほどじゃないにしろ、なかなか頭脳派じゃない?」
独り言で自分を褒める美奈。
第二層の貨物迷路を潜り抜け、彼女はとうとう第三層への階段を発見する。ここまで、案外簡単に来れたためか、調子に乗りやすい彼女は、少しばかり油断していた。
「おい、誰だお前は」
そのせいで、第三層からの急な階段を上ってくる、見張りの存在に気づかなかったのである。
美奈のしたり顔は一気に青ざめた。短機関銃の銃口を向けられ、美奈はどうにか表情を崩さないように、動揺を気取られないようにと、平静を装う。
見張りの男は怪訝な顔をしながら、美奈の方へと階段を上ってきた。依然銃口は美奈へと向け、引き金には指をかけている。ここで男が引き金を引けば、間違いなく美奈は死ぬ。
美奈は先ほどまで腑抜けていた頭を、必死に回転させた。このままいけば、運が良くても敵に捕まり、悪ければ即射殺である。
先ほどまで見たものと、今の状況。この二つを照らし合わせ、彼女は今自身が切れるカードを選ぶ。
そして、ひとつの案が思い浮かんだ。それは、船内に招かれている売春婦のフリをして、誤魔化すというものであった。
「ね、ねぇ……。折角呼ばれたから、アンタたちを愉しませに来たっていうのに。銃口を向けるなんて、あんまりじゃない?」
「は? どういうことだ」
首を傾げる男に、美奈は如何にも頭も股も緩そうな女を演じ続ける。内心ではそんな自分に吐き気を催していたが、彼女はグッと堪えた。
「だぁから。アンタたちに呼ばれた女の一人よ、アタシ。めぼしい男は、他の奴に取られちゃったと思ってたけど……。良かった、まだいるじゃん」
美奈はそう言いながら、上目遣いで僅かに舌を出し、見張りの男を挑発する。必死に客を誘う女を演じているが、未だ短機関銃の銃口は美奈を捉えており、予断を許さない。
一方の男も、目の前の不審な女が売春婦であることに気づき、値踏みするような視線で美奈の身体を眺める。
美奈は今すぐにでも、金的を蹴り上げたい衝動に駆られた。しかし、男の構える短機関銃の引き金には指がかかっており、男もまだ完全に警戒を解いていない。
もし男の反撃を許せば、美奈の身体は短機関銃の吐き出す九ミリ弾によって、蜂の巣にされるだろう。今はまだ、その時ではない。
「ねぇ、近づいてもいい?」
以前、幸平や理世に内緒で姫梨奈から教わった色仕掛けの方法を、美奈は必死に思い出す。
まず、何かしらの銃を持っていない場合、相手を油断させるだけではなく、確実に無力化できる位置まで詰めるべし。
美奈は骸骨が描かれた黒のTシャツを下から少し捲って、男にちらりと彼女の白い下腹部とへそを見せる。その効果は覿面なようで男は鼻の下を伸ばし、何回も頷いていた。
第一段階は成功だと、美奈は内心でそう思いながら、男へとゆっくり近づいていく。美奈は基本的に男の顔を上目遣いで見つつも、時折短機関銃の引き金を見ていた。
姫梨奈の教え、その二。銃を持っている相手の場合、その引き金から指を完全に離すまで油断するな。これを美奈は心の中で唱え、男の指が引き金から遠ざかるのを待つ。
健康的な美と、蠱惑的な肌色を持つ豊島姫梨奈の影に隠れがちだが、六橋美奈という女性も顔立ちだけを見れば姫梨奈に負けずとも劣らぬものを持っていた。日頃から幸平には、急降下爆撃の軌道みたいな胸とからかわれる彼女ではあるが、スレンダー美女と表現するに相応しい容姿なのである。
今頃何処かで突撃の準備をしているであろう、とある喧嘩馬鹿に日頃の恨み言を心の中で呟く美奈。そして、そうこうしている内に彼女は、自身が男を確実に無力化できる距離まで詰めていることに気づいた。
後は、引き金から男の指が離れていれば、美奈の勝ちである。
しかし、その指は離れていなかった。美奈の身体に目線は釘づけだったが、見回りとしての最後の意地か、引き金には指をかけたままである。
距離は十分、しかし未だ危険。
ここで悠長に時間をかけていては、他の見張りにも見つかる可能性すらある。美奈は、勝負に出た。
「――じれったいわね」
美奈はジーンズのボタンを外して、僅かにチャックを下へと降ろす。下着が見えるか、見えないかの際どいところだ。そこで更に畳みかけるかのごとく、先ほどよりも上へとTシャツを捲り始める。
頬を赤らめながらTシャツという天幕を上げて、自らの肉体を披露していく美奈は、鳩尾の辺りでその右腕を止めた。
そして彼女は見張りの男に対して、こう囁く。
「アタシがやるのは、ここまで。……後は、アンタが好きにヤりなさいよ」
頬を紅潮させ、目を細める美奈は、男を挑発するように笑みを浮かべた。これまでの人生で最も恥ずかしいと感じた彼女は、思わずその場から消え去りたくなる。だが、美奈はどうにかその感情を堪えて、小悪魔的な表情は崩さなかった。
そんな美奈とは逆に、見張りの男は自身の欲望に耐え切れなかったようである。
男は引き金から指を離すどころか、銃を完全に手放した。スリングをつけていた短機関銃は安全装置をかけられ、男の下腹部辺りで宙ぶらりんになっている。
恥ずかしさに耐えた、美奈の勝利だった。
後は攻撃のタイミングを見計らうだけ。美奈は依然として男を誘っているが、恥ずかしさはほとんど消えていた。今、彼女の心にあるのは、色仕掛けに成功したことに対する達成感。それと、手をわきわきさせて彼女を触ろうとしてくる、男への嫌悪感であった。
そして、美奈の身体に男の手が触れる一歩手前という段階で、男はふと思ったことを口にしてしまう。
「しっかしお前さん、本当に胸が小さいな。売春婦とは思え――」
直後、美奈渾身の金的蹴りが炸裂。そこから更に、痛みのあまり前のめりになった男の髪の毛を引っ張り、美奈は思いきり頭突きをかましたのであった。
なす術なく、後ろの階段を転げ落ちていく男。
その様を、美奈はこの世で最も醜い汚物を見るような目で、見下ろしていた。
男は第三層の床まで落ちた後、泡を吹いて倒れている。
「――チッ。しぶといわね」
心底残念そうに舌打ちをして、美奈も第三層への階段を下りていった。途中で、見張りの男が落とした短機関銃と、視界の端で捉えたある物を拾う。
これを利用しないに越したことはないが、もし何かあったならばこれを使うより他ない。彼女がそれを見張りの服のポケットから取り出すと、自身のボディバッグへと入れた。
そして階段を下りた後、美奈の目にまず飛び込んできたのは、一列に並べられた木箱。蓋を開け、美奈がその内のひとつを覗く。木箱の中には、じゃがいもが目いっぱい詰められていた。
美奈はそのじゃがいもを掻き分け、底の方に何かしら危険なものが隠されていないか探る。
しかし、底までいってもあるのはじゃがいもばかりで、二重底でもない。蓋を閉じ、今度は別の木箱を探ってみるも、全て人参や玉ねぎといった、比較的日持ちのする食糧であった。どうやら、ここは食糧置き場のようである。
見当が外れたか。口をへの字に曲げて、美奈は辺りを見回す。そこで、自身の考えは正しかったことを理解した。
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