『9月26日午前11時半頃 日本人街、遊六通りの喫茶店 PartⅢ』


「――貴方には、信念や理想があるのかしら?」


 一拍を置き、理世が口を開く。

 一本の放たれた矢のようにまっすぐな理世の目は、偽りやごまかしを許さない。マティスがその質問に答えるまで、理世はまばたきすらしないのではないか。そう思えるほど、彼女の目はマティスを見据えている。

「何の話だい、お嬢さん」

「理想や信念に嘲笑を浴びせ、それを現実的な考えだとのたまい。山積する問題は、きっと誰かがやるだろうと他人任せ。その結果生まれたのが今の世界であり、その歪みと混沌の縮図であるインサニオ。腐敗した資本主義が紙幣を神様に仕立て上げ、その神の寵愛を受けたクソ野郎共が跋扈する、偽りの狂騒と繁栄に覆われた街の名前よ」

 理世はこの日本人街に生まれて、小さい頃からこの街の表と裏に蔓延る、多くの理不尽を目の当たりにしてきた。


 金の亡者と化した企業や富豪。裏の利権を貪るマフィア。己がイデオロギーを絶対の正義だと妄信するテロリスト。

 ただ日々を平穏に暮らしたい人々を脅かす存在が、この街には多すぎた。しかし、それでも日本人街の人々は、自身が生まれ育ったこの街を愛してくれている。理世とて、その例外ではない。

 今彼女が紡ぐ言葉にはそんな理不尽に対して、そして理不尽に抗うことなく従う人々へとの怒りが込められていた。

「それでも人々は理想や信念を抱かず、疑うことなくシステムの歯車になっている。誰かがそう決めたから、誰かもそうしているからと、考えることをやめてね。ただ黙って理不尽に虐げられ、こんな世界は嫌だと文句を言うだけ」

 マティスが薄笑いを浮かべ、肩をすくめる。

「そりゃあ、そっちの方が楽だからな。ソクラテスは、ただ生きるのではなく、善く生きよと言ったらしいが。多くの人間にとって大事なのは、善く生きることより、楽に生きることなのさ。――圧倒的な力に立ち向かうなんてのは、おとぎ話の世界だけだ」


 これまで、ただへらへらと掴みどころもなく笑っていたマティスの表情に、少しだけ憂いの色がにじみ始めた。理世はより舌鋒鋭く、話を続ける。

「えぇ、そうね。ゴミ溜めに生まれ、世界は汚れていると嘆いて、自分もそのゴミの一部になることは容易いわ。自分が堕ちていくのを、他人や世界のせいに出来るもの。ただ私たちはそうならない。後ろ指をさされ、嘲笑を受けようと、私たちはゴミ溜めのゴミを拾い続ける」

 マティスへ言い放つと同時に、理世は自身にもその言葉を言い聞かせていた。理不尽と暴力が覆う中で、理不尽に抗うという大層なお題目を立てても、自分たちとて暴力でそれに抗っている。一歩間違えば、同じ穴の貉だ。理世たちもカルテルも、このマティスという男も、無頼の輩(ともがら)であることに変わりはない。違いがあるとするなら、ほんの些細なものだろう。

 そして、その些細なものが、自分たちにとって大事なものであるとも、理世は理解していた。血と硝煙と金が、ありとあらゆる綺麗事を汚し尽くすこの街であっても、その綺麗事が価値を失うことはない。

「そのために、私たちは力を身につけたのだから。私たちは血ではなく、思いによって繋がった家族よ。理不尽に対する怒り、という思いでね。各々の人生という別々の道を歩いていても、私たちは同じ方向を向いて、進んでいる」

 理世は、毅然とした態度でマティスに語りかける。その言葉、その瞳には、一点の曇りすらない。


「別に私たちを愚連隊と言うのも、所詮はただの無頼共だと罵るのも構わない。ただ私たちは、伊達や酔狂で命を賭けているわけじゃない。己の信念と理想に、命を賭けている。――その上で、もう一度問うわ。私たちと組もうとする貴方に、その力を惜しみなく使う信念や理想はあるかしら?」

 理世の言葉と瞳に宿る力は、マティスの不敵な笑みを崩すのに十分だった。キザな伊達男という仮面が剥がれ、どこか虚ろで世界への憎悪に満ちた目と、憂いを帯びた表情が露わになる。これまで微塵も見えなかった、クリストフ・マティスという男の底。理世にはそれが少し、垣間見えたような気がした。

「随分と、生き難そうな生き方だ」

「生き易い生き方など、本来は存在しないわ。心に芯を持ち、手にした力の使い方を間違えることなく、己の為すべきことを考える生き方はいずれも辛く、難しいものよ。そしてそれはより多くの理不尽と、耐えがたい犠牲に苦しむ道かもしれない」

 その言葉は、いわば理世の覚悟と理想そのものなのだと、マティスは悟る。己の覚悟と理想を見せた上で、マティスに対して問うているのだ。

「それでも、私は進むことを止めない。私たちから大切なものを奪おうとする理不尽に、負けたままで終わりたくはないもの。私の、そして私の家族の力はそんな理不尽と、それを押しつけてくる連中を打ち破るためにある」

 クリストフ・マティスに、それと同様の覚悟と理想はあるのかと。煌々と燃える炎のような赤い瞳が、マティスを飲み込まんとする勢いで彼を見据えている。その炎は、偽りなどいとも容易く焼き切るだろうと、マティスは観念した。

 この少女は確かに、体躯こそ少女であるが、その中身はとてつもない超人であり、同時に狂人だと。自分のような一般人が、推し量れるものではないと。


「――これは全ての高き者を蔑み、全ての誇り高ぶる者の王である」


「ヨブ記、第41章34節。リヴァイアサンに関する記述ね」

 今度はニヒルな笑みを湛えて、マティスは理世に純粋な、駆け引き無しの質問を投げかける。この少女の皮を被った傑物が何を思い、そして考えているのか。自らが推し量れなかったものの思考を、彼は少しでも知りたくなったのである。

「お嬢さん。君はこの街の、リヴァイアサンになるつもりかい?」

 そんなマティスの言葉に、理世は笑みを浮かべる。

 それは、世の理を嘲笑うかのごとく、不遜。そして、自らの理想が新たな理になるのだと言わんばかりに、不敵。

 彼女のそんな笑みに、マティスは底知れぬものを感じ取った。

 それは秩序の破壊者が浮かべる笑み。否、或いは新たな秩序の創造者か。彼がそれを感じ取ったのは、この街で後にも先にも理世を入れて二人だけである。

「この街に秩序は似合わないし、そんなものは私の目的でもないわ。――ただ私の理想のために、そして家族の安全のためにそれが必要なら。私はリヴァイアサンにでも、ベヒモスにでもなるわ」

 そして理世は左の掌を自らの胸に当て、こう言葉を続けた。


「だから、貴方の質問に答えるなら、こうでしょうね。私がなりたいのは、この街の理不尽に抗い続ける存在。正義も悪も関係ない、道理と仁義に沿わぬ輩をぶっ倒す存在。――敢えて例えるなら、侠客よ」


 今は亡き彼女の父がよく口にしていた言葉を、理世もまた口にする。

 現実は非情で、仁義や人情を守るために戦う無頼の輩など存在しない。表社会と同じく、裏社会も結局は金と力だ。この街で生きる者ならば、それはよく理解している。理世も幼い頃から、それらの力によって多くのものを失ってきた。

 しかし、そんな現実に直面してもなお、諦めきれなかった。そして同時に、ならば私たちがなってやろうと、心に誓ったのだ。


 マティスが、負けを認めたかのように席を立った。

「まったく、むず痒くなってくるほどイカレた連中だ。どうやら、オレ好みのカードじゃなかったらしい」

 マティスは再び伊達男の仮面をつけ、神父服のポケットに両手を突っ込むと、店の入口へと歩いていく。

 しかしそこは生粋の伊達男。途中で理世の方を振り返ると、人差し指と中指で挟んだ名刺を、彼女のテーブルへと見事に投げやる。理世は心の中でマティスを、二度と会いたくない相手リストに載せた。

 そして店の扉に手をかけようとした時、再びマティスが理世の方を振り返る。そして、煙草を口に咥えながらこう言った。

「――用心しな。カルテルは、虎視眈々と君らを狙ってるぜ。この騒動、最後まで油断しないようにな」

「その情報、対価は何かしら。情報屋さん」

「これはサービス。教養も気品も、そして気骨もある、良い女の蕾に出会えた記念ってやつさ。後三年くらいしたら、また会いに来るよ」

 疑うように、眉をひそめてマティスの背中を見据える理世。しかし、そんな視線など気にも留めず、彼は雑に手を振ると店を後にした。


 からん、というベルの音が鳴って、店内には再び理世一人だけとなる。しばらく、理世は眉をひそめたまま、マティスの出て行った店の扉を睨んでいた。

 そして、一分ほど経った後、肩の力を抜いて、大きくため息をつく。ふと、彼女は自身の首筋を触ると、そこが僅かではあるものの汗ばんでいることに気づいた。

 あの場面で店に入ってきたのがもし、マティスではなくカルテルやシガレフの手下だったとしたら。そう思うと、理世は少なからず恐怖を覚えるが、同時にそんな程度で緊張してしまう、自身の未熟さに歯噛みする。

 そこで再びベルの音が鳴り、理世は思わずはっと顔を上げて、入口の方向を見た。

「――今戻りました、ボス。いつも言うとる通り、考え事する時は警備をつけてください。それはそうと、在庫があった分は除いて、リストにあったモンは全部うてきましたわ。荒事への準備も――。って、どないしたんですか、ボス?」

 そこに立っていたのは、越後泰広。彼女が諸々の準備と買い出しを頼み、それをこなして帰ってきたのだった。

 一瞬、ぱあっと彼女の顔が明るくなったかと思うと、そんな自分に気づいた理世は咄嗟に顔を俯かせる。これでは、先ほどまでずっと不安でしょうがなかったと、越後に言っているようなものだ。

 しかし、理世はまた自分の未熟さを恥じながらも、無言で顔を俯かせながら、越後を手招きで呼び寄せる。

 一連の理世の不可解な行動に、疑問を抱きつつも、基本的には彼女の忠犬である越後は、理世の近くへと歩いて行った。


「越後……。ちょっと、手を出してもらえる?」

 小首を傾げつつ、越後がそっと理世の前に右手を差し出す。理世の小さく白い、白磁のような手とは異なる、大きくしっかりとした手であった。

 次の瞬間、理世はその大きな手を、自身の両手でぎゅっと握り締める。心細さや恐怖感を、豊島一家の三代目ともあろうものが、安易に表へ出すわけにはいかない。しかし、彼女の小さな胸に残ったそれらの感情が、如何ともしがたいのもまた事実。理世は普段、気丈に振る舞っているものの、未成年の少女らしい、弱さが残る一面もあるのだ。

 そんな彼女がどうにか考えついた行動が、越後の手を握ることであった。

 しかし、握られた側の越後は、そんなことなど知る由もない。

 突然、思い人から手を握られた彼は、思考がショートし、しばらくその場で立ち尽くしていたのだった。

 その時、理世の携帯がメールを受信して振動する。送り主は美奈であり、理世はそのメールを見た瞬間、思わず握っていた越後の手を離し、頭を抱えた。

「まったく……。本当に個性的で、仕事熱心な仲間を持てて、涙が出そうよ」

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