『9月26日午前11時半頃 日本人街、遊六通りの喫茶店 PartⅡ』

「先に、確認させてちょうだい。貴方は、ここに商売の話をするために来た、そう言ったわね? 一応、貴方とは敵である私たちに、一体何の商売を持ちかけてきたのかしら」

 理世は自身の左頬を左の指で撫でながら、少しだけ表情を柔らかくする。そして彼女は、初めに相手の目的を探ることにした。

「なに、簡単な話さ。今から、オレを雇わないか? オレの持っている情報は、必ず君らの役に立つ。それに、こう見えてもオレは腕っぷしも結構強くてね。頭も切れて、それなり以上に戦える。自分で言うのもなんだが、なかなか優秀だろう?」

 なるべく表情の変化をマティスに気取られたくない理世だが、マティスのこういう性格は、理世を否が応でも苛立たせる。

 これが、理世の平静を崩そうとするマティスの作戦だとするなら、それは効果覿面だった。テーブルの下に隠している右拳を力いっぱい握り、理世はどうにか怒りを鎮める。

「随分と、荒唐無稽な話ね。一家の拠点をシガレフに教え、おまけにそれ以外の勢力とも関係を持っている。そんな浮気性で信用ならないチンピラを、私が雇うとでも?」

 威圧するように目を細め、マティスの目を見据える理世。少女と見間違えるほどの可愛らしい風貌とは異なり、彼女が纏う威厳に満ちた風格は、並大抵の者なら萎縮しそうなほどである。しかしマティスはまるで臆することなく、こう嘯いた。

「おいおい、良いのか? オレほど使える情報屋は、この街を探してもなかなかいないぜ。オレは、君らが敵対しているカルテルとも仲が良い。連中の密輸ルートや、幹部の隠れ家も知ってる。この情報は前回、前々回の麻薬撲滅抗争で手痛い被害を受けた、君らにとっては黄金より価値のあるものだと思うがね?」

 そう言って、マティスは挑発的な笑みを理世に向ける。


 確かに、カルテルの動脈である密輸ルートと、カルテルを指揮する頭脳ともいえる幹部衆。この二つを確実に押さえることができれば、この街におけるカルテルの動きを封殺できる。フランコ・カルテルは麻薬で得た資金を使い雇った多数の兵隊、そして中南米の諜報機関や軍出身の幹部による統制が強みの組織だ。一部例外は存在するものの、雇われている兵隊は、いずれもチンピラに毛が生えた程度の集団だ。

 ならば指揮を執る幹部と、給料になる麻薬絡みの金を潰してしまえば自然と瓦解する。もっとも、だからこそカルテルの要人たちは臆病と言われるほど、警戒を怠らなかった。

 そんな連中の弱みを、このクリストフ・マティスは握っていると豪語したのである。

「あぁ、それと。シガレフに教えたのは、あくまで君らが拠点にしている店と、精肉店や居酒屋に偽装させてる賭場だけだ。この喫茶店のことを知っているのは、オレだけ。情報の提供者様から、強く口止めされていてね」


 理世は一拍置いて、言葉を返した。

「――なるほど。でも、口だけなら何とでも言えるわ。貴方がカルテルのそういった重要な情報を知っている、という証拠は?」

「なかなか用心深いな、良いことだ。さて、証拠か。そうだな、カルテルが密輸に使用しているのは、引き船と台船。引き船の出力は多少弄ってるが、それ以外は何の変哲もない船でね。偽装のためによく使われる手は、コンテナの奥ゆきや隅を細工したり、コーヒー豆を詰めてる箱に紛れ込ませるとかだな。もっとも、最近は需要が増えて偽装も雑になってきてるんだが」

 マティスの所作に、不審な点は見られない。これもまた真実だろうと理世は推測する。事実、豊島一家もカルテルが荒川などで船舶を使って、イースタンポートまでコカインやヘロインを密輸しているという情報は掴んでいた。

 だが、ここまで具体的な情報となると、話は違ってくる。

「偽装の件は、こちらでも掴んでいる。ただ、引き船と台船に関しては初耳ね。てっきり、高速艇でも使っているかと思ったわ」

「あの川一帯は、隅から隅まで連中の縄張りシマだ。わざわざ積荷の量を減らして、高速艇にする理由がない。それに、貧乏人しかいないエル・コディシアで、お高い高速艇は目立ちすぎる。積荷の偽装は、連中曰く念のためってやつだとさ」

 マティスの話には、筋が通っていた。確かに、エル・コディシアならびに荒川や中川、江戸川などの一帯は完全にカルテルの勢力圏だ。そんな場所で、カルテルの商品を盗むなど、命が幾つあっても足りない。また、高速艇を使えば悪目立ちするというのも、なるほど道理だ。


 理世は納得し、次の質問に移る。

「なら、カルテルの幹部に関する情報は?」

 マティスは少し笑うものの、その質問に答えた。

「オレから少しでも、情報を引き出そうって腹づもりか。まぁ、これくらいの情報なら、なんてことはない。で、今度はカルテルの幹部か」

 マティスは胸元まで開いた神父服の内側へと、手を伸ばす。突然拳銃を引き抜く可能性を考慮し、理世も念のため、太腿のホルスターに手をかけた。

 しかし、マティスが取り出したのは、自身の携帯。そして、理世にある人物の画像を見せた。そこに写っていたのは、まるで猟犬のような目をした、ヒスパニック系の男。

「エリベルト・カルデナス・モラレス。元メキシコ陸軍特殊作戦群所属。金儲けと享楽のために、カルテルの誘いを快諾したサイコ野郎だ。イスラエルやアメリカで、非正規戦闘や破壊工作の訓練を受け、初めはカルテルを取り締まる側だった。だが薄給や軍の秩序が嫌になり、同じく反感を抱いていた同僚や部下共々、カルテルへ寝返ったのさ」

 理世はその目を見た瞬間、思わず腹の底に寒気を感じた。画像の中でエリベルトは、自身の拳銃でズタ袋を被せられた何者かの頭を撃ち抜いている。だが、その目に感情の色は一切見えなかった。まるで抵抗しない人形など、撃ってもつまらないと言わんばかりに。

「以降、この野郎が率いる部隊はカルテル内で最も残忍、最も精強と言われ、インサニオの支部長マルケスからの信頼も厚い。支部長が絶対に仕留めたい標的には、必ずこの部隊を差し向ける。このサイコ野郎の部隊は、髑髏の描かれたバラクラバが特徴だ。どいつもこいつも、お友達にはなりたくない連中さ」


 ひと通り語り終わると、マティスは携帯を仕舞い、ぱんと手を打ち鳴らした。

「さて、と。今教えられるのはここまでだ。オレを雇う決心はついたかな?」

 理世は、未だマティスを疑っている。この男は今のところ、理世にとって耳触りの良いことしか言っていない。カルテルの弱点を教え、この街に巣食う様々な勢力との仲介役にもなってやろうと、彼は言っているのだ。

 こういう手合ほど、信用ならない。これは、いつ如何なる時と場所でも、同じである。都合の良いことを並び立てる者は、大抵その裏に策略や罠を張り巡らせ、餌に獲物がかかるのを舌なめずりして待っているのだ。

「メリットは、分かったわ。けれど、私は貴方をまるで信用も、信頼もできない。まず貴方には、シガレフ一派はともかく、仲介役を任されているカルテルを、わざわざ裏切る理由も見当たらないわ。カルテルは特に、裏切り者へ容赦しないことで有名よ。そんなリスクを冒してまで、豊島一家につくメリットが、貴方には存在しないはず」

 そんな安易な罠にかかるものかと、理世はマティスの腹の内を更に探ろうとする。


 コネがある、腕っぷしが立つといっても、所詮は一介の情報屋でしかないマティスがカルテルを裏切るのは、生半可なリスクではない。

 ましてや、その裏切る先が五大ファミリーで最大勢力を誇るバルタザーレ・ファミリーなら露知らず。カルテルにほとんどの面で劣る豊島一家では、どう考えても釣り合いが取れないのだ。

 ここまで頭の回る男が、そんなことに気づかないはずはない。理世の疑問は至極当然であった。

 とにかく、まだ相手の腹を読めていない。そう考えた理世は、次の探りを入れた。

「麻薬への、或いはカルテルへの恨みがあるのかしら? それとも、一家うちに肩入れすることを誰かに指示された? いずれにしろ、貴方のように狡猾な人間が、何の見返りもなしにこちら側へつくなんて、あり得ないわね」

 理世は迂遠な言い回しをやめ、直截に言う。

 だがマティスはそれを一笑に付して、不敵な笑みを浮かべた。

「オレが君たちにチップを賭けるベッドする理由は……。分の悪い賭けに対するロマンとスリルってヤツさ、お嬢さんマドモアゼル

 マティスは何処からともなく五十セント硬貨を取り出すと、右手でそれを弄び始める。彼の指は、硬貨をまるで生きているかのように動かしていた。

「――青臭い理想と、暑苦しくなるほどの情熱。このインサニオじゃ、ダイヤモンドより貴重なそれを持った連中に賭けるのも、たまには悪くないってことさ。それに、独立愚連隊ってのは嫌いじゃないしな」

 最後に、親指を使って硬貨を弾くマティス。

 理世は、マティスが言った、今の言葉を聞いて確信する。

 彼にとって私たちの存在は、今親指で弾いた硬貨と同じなのだろうと。裏が出るか、表が出るか。それを悠々と観客気取りで眺め、金を賭けて愉しむつもりなのだ。そこに理世たちの信念や理想は関係ない。彼にとって、理世たちはただの面白い動きをする駒なのだから。


 それを理解した瞬間、マティスに対する理世の態度は決した。

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