『9月26日午前11時半頃 日本人街、遊六通りの喫茶店 PartⅠ』
『では、誘拐犯の方は解決していただけるんですね?』
「えぇ、もちろん。あの誘拐犯共が日本人街の子供たちを脅かすことがないよう、対処しましたから。そして、報酬も要りません。これはこの街に住まう者、全員の問題ですもの。――では、また何かあったら、いつでもご相談を」
そう言って、豊島理世は携帯の通話を切る。相手はもちろん、誘拐犯の対処を求めてきた夫婦であった。理世は先ほど幸平から、誘拐犯は取るに足らない地下の住人だという報告を受け、そんな輩に幸平が後れをとることもないだろうと、先に夫婦への連絡を済ませたのだ。
喫茶『星空』には今、理世だけがいた。もちろん、外には護衛のために何人かの若衆がついているが、店内に居るのは理世だけである。
彼女はこれまでの情報をまとめ、この一件の落としどころを模索していた。テーブル席のソファーに一人で座り、またいつものように両手で鼻と口を覆って、思考に集中する。天井でファンが回る音と自身の静かな呼吸だけが、理世の耳に伝わっていた。
開くはずのない店の扉が開き、小気味良いベルの音が店に響くまでは。
理世は部下の若衆へ、考えることに集中したいから緊急の要件以外で入らないでほしい、と伝えている。それに、若衆にしろ幸平たちにしろ、入ってくるなら何か声をかけるはずだ。
つまり、考えられる可能性はひとつ。侵入者である。
理世はスカートをめくり、右太腿に潜ませてある小型拳銃、シグP230のステンレスモデルを抜いた。彼女は鉄火場に立つ機会もあまりなければ、そもそもそういった荒事は不得手である。しかしそれでも、護身用の小型拳銃くらいは携帯しておくべきだと、幸平が選んで持たせた物だった。
両手で拳銃の銃把を握り、理世はこちらへ少しずつ近づいてくる足音に耳を立てる。彼女は自身の呼吸が少しずつ荒くなり、それに従って心臓の鼓動も早くなっていることに気がつき、自嘲気味に笑った。
これしきのことで怯えてどうするのかと。自分は豊島一家の三代目であり、自分の身くらい自分で守れなくてどうするのだと。
そう自分を奮起させて、理世は覚悟を決める。
そっとソファーへ横になり、身を僅かに屈め、テーブルから拳銃と右上半身だけが出るように姿勢を変更した。理世の座っているテーブル席は、店の入り口から見て左側の最奥にあり、おまけに窓際の席である。そのため侵入者は、理世から見て左手の通路を来るしかなかった。
撃ち合う時は、なるべく身体を出すな。幸平から教わった、数少ないことのひとつを、理世は心で何度も唱える。もっとも、基礎中の基礎ではあるが。
そしてついに、理世が銃口を向ける先へ、侵入者が現れた。
その男の手に持っていたのは、一輪の花。白いジャスミンだった。神父服を着たその伊達男は、まるで騎士が女王へ拝謁するかのように、大仰な礼をする。
理世が銃口を向けていることなど、まるで意に介していない。そのキザで余裕綽々といった態度に、理世は思わず顔をしかめそうになる。事実、その態度に相応しい整った容姿をしていたことが、余計理世の癇に障ったのかもしれない。
「どうも、小さな女王様。オレの名はクリストフ・マティス。しがない情報屋さ。この花は、お近づきの印と自己紹介を兼ねて。おっと、それから念のために言っておくと、護衛の連中は殺してない。少し、眠ってもらってるだけだ」
そう言うと、マティスはさっと理世の元へ近づき、右手で白いジャスミンを差し出す。その一挙手一投足が、理世にとっては鼻についた。とりあえず敵意はないことから、理世は拳銃を仕舞って、姿勢を正して花を受け取る。そして、その花を一瞥した後、テーブルに置いた。
「白い、ジャスミン。花言葉は――、確か好色だったかしら。随分と気取った自己紹介ね」
「流石は若く、才気溢れると噂の三代目だ。もう少し年齢が上だったなら、退屈な
歯が浮くような台詞を連発しながら、マティスは理世と同じテーブル席の対面へと座る。そんなマティスに対して、理世はその眉間に皺をよせ、頬を引きつらせて、隠す気も無く露骨に不快感を露わにした。もっとも、マティスがそれを気に留めることはなく、話を続ける。
「さて、と。それじゃ、早速だけど退屈な商売の話に入ろうか。オレは今、ロシアン・マフィアのシガレフに雇われてる。仕事内容はシガレフと、フランコ・カルテルの仲介役。流石に、この程度の情報はもう掴んでるかな?」
そう言いつつ、マティスは煙草を取り出し、口に咥えた。そこで理世が、マティスの口から煙草を奪い取る。
「貴方が仲介役であること以外は、ね。それと、ここは生憎と禁煙なの。どうやら、一家の本部がここだと分かっても、私が大の煙草嫌いという情報までは、掴めていなかったみたいね」
理世が睨み据えながら煙草をテーブルに置き、フィルターの方を向けて、マティスに差し出す。それをマティスは受け取って再び箱に戻し、残念そうに肩をすかした。
「へぇ。ということは、カルテル以外の誰かが、シガレフに情報を流しているって見当はついてたワケだ。なかなかやるじゃないか。他に掴んでる情報や、大体の見当がついてることは?」
「それを貴方に言うことで、私にメリットがあるのかしら?」
「おいおい。クイズの出題者が、ほぼ答えのようなヒントを出してやろうって言ってるんだぜ? ――大丈夫だ、美女ならともかく、あのネズミ面(つら)の蛸野郎には話さないよ。むしろ、出来ることなら顔も見たくないね」
わざとらしく舌を出し、大袈裟に嫌がってみせるマティス。それを後目に、理世はひとつ疑問を投げかける。
「……出題者? もしかして貴方は、自分がこの一件を巡る組織間の陰謀を、全て一人で演出したと言いたいのかしら? だとしたら相当なペテン師か、自惚れた演出家気取りね」
その疑問に、マティスは少しだけ姿勢を崩して答えた。
「あぁ、失礼。言葉が足りなかったみたいだ。俺はあくまで出題者、君風に言うなら演出家の一人ってだけさ。本当に裏で舞台を動かしている総監督は、他に居る。もっとも、ロシアン・マフィアがこの時期に来たのは偶然だけどな」
理世はマティスの目を見る。視線があちこちに揺れているわけでも、瞬きの回数が増えているわけでもない。顔や仕草を見ても、そこに嘘をついている人物特有の癖は見られなかった。よほど訓練を積んだ嘘つきでなければ、マティスは本当のことを言っている。
マティスは飄々とした態度を一向に崩さない。
その様子と、喫茶『星空』が本部であると突き止めたその情報収集能力を鑑みて、理世はこの男から更なる情報を引き出せるかもしれないと考える。確かに、現状でもシガレフ一派を潰すことは可能だ。しかし、全ての手札と情報が理世の元に揃ったわけではない。
もし、まだこの一件に裏があるとしたら。そして、それが自分たちの命取りになりかねない、罠だとしたら。
このインサニオで生き抜くために、最も必要な才能。それは、自らの進む道に敷き詰められた
だが、理世は違った。理世はただひたすらに考え抜くことで、先の先までを読み、それを回避していく。幸平たちに咄嗟の判断では遅れをとるかもしれないが、彼女は持ち前の冷静さと洞察力、そして胆力でそれを補っていた。
脊髄で反応するほど、危機に対して本能を研ぎ澄ませることができないのなら、頭脳を用いて忍び寄る危機を事前に知る他ない。今もまた、彼女はそうすることで、張り巡らされた罠を掻い潜ろうとしていた。
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