『9月26日午前11時頃 日本人街裏遊六、黒色通り PartⅠ』

 インサニオの地下には地下鉄の拡張工事中に計画が突然頓挫、そのまま放置されてただの空洞となった場所が幾つもある。それらは線路が敷かれている場所もあれば、照明すら碌に取り付けられていない場所もあり、そこは表のインサニオでは暮らしづらい、或いは暮らしていけない者たちの避難所ヘイヴンとなっていた。

 日本人街最大の歓楽街、遊六通り。

 日の光が届かぬその地下に、蜘蛛の巣もかくやと言わんばかりに張り巡らされたその空洞を、いつしか人々は『裏遊六』と呼ぶようになったのだ。


 そんな裏遊六の中でも、違法品やそれに近しいものを取り扱う露店が軒を連ねるのは第二十二番通路、通称『黒色通り』である。その露店は主に、何処からか剥ぎ取ってきたトタン板や加工途中の鉄板、住宅を解体した際に出たものと思われる廃材で作られていた。その店先には怪しげなビデオや薄汚れたブラウン管テレビ、謎の液体が入った小瓶などが並べられている。その客層もぼろきれを纏った浮浪者から、全身にタトゥーをいれたチンピラなど、あまり近づきたくはない面子であった。

 六橋美奈は地下に降りてからずっと、そんな珍しい光景に目を輝かせている。

「ちょっと幸平! アンタ、なんでこんな面白そうな所を、今までアタシに隠してたのよ!」

「そうやって騒ぐからだよ。遊園地に来たガキか、テメェは」

 そんな美奈の一歩ほど前を仁衛幸平。そして美奈の周りを固めるように三人の豊島一家若衆が、黒色通りの中心へと足を踏み入れる。ここは複数の通路が交差する地点であり、大きなドーム状の空間となっていた。

「仁衛の兄貴。どうやら、この辺りで間違いないようです」

 若衆の一人である佐々木がそう言い、幸平の前で軽く頭を下げる。幸平は自身の右肩を揉み、周りに目を配りながら言った。幸平は豊島一家の裏方、所謂荒事担当であり、日本人街で起こる物騒な面倒事の大半はこの裏遊六を起点としている。その解決のため、幸平とその部下たちは日頃からこの場所を訪れていた。

「おう。それじゃ、後はそっちでいつも通り適当に探ってくれ。コイツの面倒は俺が見とく。で、それらしい情報を手に入れたら戻って来い」

「人を飼い犬みたいに言ってんじゃないわよ」

 

 幸平の話を聞いた佐々木たちは、再び頭を下げると黒色通りの雑踏へと姿を消した。美奈はそれを確認すると、咳払いをして幸平の方へおもむろに右手を差し出す。

「……ん」

 幸平に差し出された美奈の右手は、指先や指の腹、付け根の辺りの皮が僅かに厚くなっていた。幸平はその手の平を怪訝な顔で見つめ、こう言う。

「なんだよ、小遣いならやんねぇぞ」

 見当違いな幸平の回答に美奈は一旦ずっこけた後、噛みつくような勢いで怒る。

「違うわよ! ……武器よ、武器。表と違って、ここって結構危なそうだし。それに、アタシもそれなりに活躍してるんだから、そろそろ銃を渡してくれても――」

「ダメだ」

 美奈の言葉を、幸平はにべもなくばっさりと切り捨てた。あまりにあっさりと断られた美奈は彼の前に立つと、少しばかり背伸びをして彼に詰め寄る。

「何よ。アンタはまだ、アタシの実力を信用できないっての?」

 そのことが悔しかったのか、美奈は自身の拳を強く握りしめて、眠たそうに瞼を半分ほど閉じている幸平の目を見た。自分だって一家のために戦えるということを、この狂騒の街で生きていけるということを、美奈は幸平にその強い眼差しを以て訴える。


 しかしそんな美奈の様子を前にしても、幸平の態度は変わらない。自分を恨めしそうに睨む美奈を、瞼が半分ほど閉じた眠たそうな目で見ている。

「そうじゃねぇよ。……つっても、テメェはそう簡単に引き下がらねぇか。しゃあねぇ」

 そう言うと、彼は着ている上着の左側を少し捲り、革製のホルスターに入った彼の愛銃、シグP226を見せた。美奈は幸平のホルスターに収まっているそれが、彼と共に幾多もの死線を潜り抜け、幾人もの敵を撃ち倒してきたものだということを知っている。

「この拳銃はな、俺の親父が抗争でくたばる直前に渡したモンだ。まだクソガキだった俺に血まみれの手で、拳銃こいつを渡したのさ。手前の守らなきゃならねぇモンを守りに行け、ってな」

 幸平は今でも覚えている。彼が生まれ、育ってきた家が燃え盛る炎に飲み込まれる様を。そしてその中で死にゆく父親と、父親の腕の中で既に息絶えていた母親の姿を。

 そんな変わり果てた両親の姿に、幼き日の幸平はただ涙を流して狼狽えた。しかし彼の父親はそんな彼を全力で殴り、拳銃を差し出しながらこう言った。

 

 泣き喚いても、何も変わらない。お前が守りたいものを、死ぬまでお前が守り抜け。


「この拳銃はな、俺が初めて人を殺した拳銃だ。その抗争のどさくさに紛れて、姫梨奈とボスを攫おうとしたカルテルのクソ野郎を、コイツで撃ったのさ。で、そっからは一家の敵を撃ったり殴ったり、壊したりで今にいたるってな感じだ」

 自嘲気味に笑って、幸平は上着を捲っていた手を離す。そして、背伸びをしてまで自分と対等の目線に立ちたがった美奈の頭を、わしわしと荒っぽく撫でた。

「後悔なんざ、まったくねぇ。元々、俺には暴れるくらいしか能がねぇし、拳銃(こいつ)を撃ったその時から、地獄に行くのは確定してんだ。なら後は、この街にいるクソ野郎どもを、どれだけ道連れにできるかさ」

 美奈の頭を撫でる幸平の表情は、いつもの気怠そうなそれではない。先ほどまでの自嘲気味な笑みとは異なる、僅かな諦めと不器用な優しさが滲む、どこか悲しげな微笑であった。

「ただ、テメェは違う。テメェは色んなことができるし、学もある。一家のために、日本人街のために何かしてぇって覚悟があんなら、もっと他に、テメェにしかできねぇことがあるんじゃねぇか?」

 突然頭を撫でられた美奈は初めこそ困惑していたが、幸平の言葉を聞くにつれて、幸平は彼なりにではあるものの、美奈を認めているのだと気づく。まさか素直に褒められると思っていなかった美奈は、豆鉄砲を食った鳩のように目を丸くしていた。

「わざわざ好き好んで、人殺しになんざなるモンじゃねぇ。拳銃は、地獄への片道切符だ。撃った弾丸は、元には戻らねぇ。その綺麗な手を大事にするんだな」

「わ、分かったわ……」

 幸平はぽかんと突っ立っている美奈にそう言うと、元の気怠さと眠気の混じった、彼特有のだらしない表情に戻り、欠伸をして安っぽいデジタルの腕時計をちらと覗く。

 時刻は十時半。これならば問題なく姫梨奈の作った昼食を食べられる、などと幸平は呑気に考えていた。

 次に彼は理世へ連絡を入れる。事件は取るに足らないチンピラが起こしたもので、すぐにカタがつくだろうと。

 そして、そんなことをしている内に、雑踏を掻き分けて佐々木たちが戻ってくる。佐々木は幸平に軽く頭を下げると、彼の耳元近くに歩み寄り、こう言った。

「仁衛の兄貴、大体のはつけました」

 その後、佐々木たちの報告を聞いた幸平の顔から、みるみるうちに気怠さと眠気が引いていく。幸平の目は開き、不敵な笑みがこぼれ始めた。明らかに、幸平の中で何らかのスイッチが入ったという雰囲気である。

「――以上です。どうしますか?」

もクソもあるかよ。ボスが俺にこの仕事を任せたってことは、俺がやるべきことはひとつだ」

 そして仁衛幸平という人物を少しでも知る者なら、彼の一連の変化が意味することはすぐに分かった。

 狂騒の街を覆う、無限の闘争。彼がまるで水を得た魚のようになる時。それは幸平が最も彼らしく在れる戦場が、すぐ近くに迫っているということであった。

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