『9月25日午前3時 インサニオ某所の安宿 PartⅡ』
マイケルと仁衛幸平の出会いは、今から二時間ほど時を遡る。
マイケルとその手下である男たちは、日本人街にある取り壊し予定の廃工場で、前もって隠しておいた武器の確認をしていた。協力者のコネで解体業者を装い、機材と称して銃火器を持ちこんだのである。
しかし、何処かでその計画は露呈し、自警団・豊島一家の介入を招いたのであった。
「……テメェら揃いも揃って、今何時だと思ってんだ。人がぐっすり寝ようと思った時に、雁首揃えて殴り込みたぁ、いい度胸してんじゃねぇか」
マイケルのいた廃工場二階にある奥の部屋まで、二十人の武装した部下が待機していた、はずである。だが爆竹の様に複数の銃声が鳴り始め、ある人物と連絡をとっていたマイケルが事態を把握しようとした時には既に、仁衛幸平はマイケルの背後に現れていた。
仁衛幸平は眠たそうに左目を親指で擦り、大きな欠伸をしている。少しよれたダークグレーのスーツに、青と白のストライプシャツを着ていた。ネクタイはしておらず、黒い短髪もうっとおしいから切ったと言わんばかりのものである。そして、への字に結んだ口と、相手を睨みすえる様な三白眼が、近づきがたい雰囲気を醸し出していた。
慌てて電話を切り、マイケルは幸平の方を向く。
「誰だお前は! 下で待機してた部下はどうした⁉」
「片づけた。安物の銃に安物の兵隊たぁ、豊島一家も随分と舐められたモンだな」
剥き出しのコンクリートで覆われた部屋に、マイケルの声が響いた。一方の幸平は声を荒げるマイケルなど気にも留めず、またも大きな欠伸をしている。
「豊島一家だと? 待てよ、その生意気な眼つきと服装……。なるほど、お前が豊島一家の飼っている活きの良い猟犬か。名前は確か……、仁衛幸平だったな」
「なるほど。ボスの読み通り、適当に俺らを
指の骨を鳴らし、幸平がマイケルへと近づく。両者の間に開いている距離はおおよそ七メートルで、遮蔽物の類などはない。舌打ちをしながら、マイケルは次に打つ手を考える。
「てか、テメェの居場所を話してくれたヤツもそうだったけどよ。特にテメェ、マイケルってツラと喋り方じゃねぇよな。どっちかってぇと、イワンかセルゲイって感じだ。ウォッカとAKが好きな、クソッタレ共のな」
ばれている。マイケルはそう思いながら、忌々しそうに幸平の動作に目を配りつつ、上着で隠れている左脇のホルスターへと右腕を少しずつ伸ばし始めた。ホルスターに入っているマカロフは、マイケルがまだ祖国に忠誠を誓う兵隊だった頃から愛用している拳銃だ。
対する幸平は、ただマイケルへとゆっくり歩いているだけ。ここで拳銃を抜けば、普通ならマイケルが優位に立てる。近距離ならば銃よりも肉弾戦の方が早いなどというのは、相手がその肉弾戦の達人だった場合のみで、そうでなければやはり拳銃を抜いた方が強い。
「……驚いたな。
マイケルは適当な話で、幸平の気を逸らそうとする。
「こちとら、生まれも育ちもインサニオだ。小さい頃から、色んな人種を見てきてる。もちろんテメェら露助もな。――それと、
だが、この幸平の一言がマイケルの右腕を止めさせた。幸平の双眸は鷹の様に鋭く、瞬きひとつせずにマイケルの右腕を見ている。
「その目と、手つき。あくまで俺の勘だけどよ、テメェもそれなりに鉄火場を潜ってきたクチだろ。なら、拳銃の恐ろしさは、よぉく分かってるはずだぜ」
残り三メートルのところで、幸平が立ち止まった。そして、幸平はおもむろにジャケットの左側を少し開いて、自身の左脇にあるホルスターを見せた。そのホルスターには無論、拳銃が仕舞われている。幸平の愛銃である九ミリ
「どうする、ここで
幸平は口元こそ不敵な笑みを浮かべているが、目はどこまでも冷たく、微塵も笑っていなかった。
かつては軍に所属し、それなりに修羅場を潜り抜けてきたマイケルだったが、目の前にいる青年の目と言葉が、彼の心臓に並々ならぬ負荷をかけていた。命の駆け引きの最中で、彼の心臓は轟きはじめる。
「ただの調子に乗った若造、というワケでもなさそうだな。『
「その仇名は嫌いなんだよ。で、どうするんだ大将。この喧嘩に、命懸けんのか?」
幸平の双眸が、マイケルの
マイケルのこめかみを、冷たい汗が流れていく。彼は例え数年とはいえ、ソビエト連邦崩壊後のロシアで幾つもの戦場を渡り歩いた元軍人である。命の危険に晒された事も、一度や二度ではない。にも関わらず、マイケルはたかが
(「……こんなはした金しかもらえない仕事とクソ上司に、わざわざ命を懸けるほど俺は酔狂じゃない。それにこの仁衛幸平という男、身長こそ日本人にしては少し高めだが、それ以外は特筆するところもない。鍛えられてはいそうだが」)
そう思い、マイケルは拳銃から手を離した。格闘戦になっても勝てる、と判断したのだ。そして利き手、利き足とは逆の左手と左足を前にして身構える。
「なるほど、喧嘩か……。いいだろう、その人を舐めた口の利き方を、この拳できっちり叩き直してやるとしよう」
臨戦態勢になったマイケルを見て、望むところだと言わんばかりに、幸平もマイケルとは逆に右手と右足を前に構えた。
「いいね。やっぱ、
幸平がそう言ってから数秒の間、マイケルと幸平は互いの出方を窺い、様子を見る。幸平の方は僅かに口角を上げて楽しそうにしながら、その場を動かない。マイケルは唇をきゅっと引き締めて、じりじりとすり足で幸平との距離を詰めていく。
そして、マイケルが先に動いた。
「シッッ――!」
その短い掛け声と共に、マイケルの直線的な右掌底が幸平の顔面めがけて放たれる。幸平はこの初撃を、自身から僅かに右へと上体を捻りながら反らしつつ、同時に左手でマイケルの右掌底をいなして回避。おまけにその勢いを活かして、右の裏拳打ちを素早くマイケルの顔面へと叩き込んだのだ。
鼻面に思いきり裏拳を喰らう形となったマイケルは、思わず怯んで一歩後ずさるが、即座に体勢を立て直して自身の胸前へと右腕を引き戻す。そして、連続で右フックを放とうとした幸平よりも先に右拳でジャブを打ち、それが幸平の左頬辺りを捉えた。
しかし幸平は怯むどころか、犬歯を剥き出しにして笑う。あまりの異様さに、マイケルの動きが止まった。次の瞬間、今度は幸平が攻撃を仕掛ける。
マイケルの右ジャブを喰らってなお、構えをまるで崩さなかった幸平は、マイケルが右腕を元の位置に戻すと同時に素早く右掌底を放った。対処が遅れたマイケルの左顎に、幸平の右掌底は見事に当たる。掌底によって与えられた衝撃は、マイケルの顎から脳へと伝わり、脳を揺さぶられた彼は一瞬だが足をふらつかせて体勢を崩し、確かな隙を見せる形となった。
その隙を見逃す幸平ではない。
幸平は右掌底を放つ際に伸ばした右腕を、自身の胸前へと引き戻すより先に、左の掌底をマイケルの右頬へと打ちこむ。そして、その左掌底が当たった事を確認するや否や、今度は引き戻そうとしていた右拳で裏拳打ちを放って、マイケルの顔面を殴り抜けた。更に幸平は、そこから両腕を引き戻したかと思うと足を素早く蹴り上げ、マイケルの顎への右前蹴り。幸平のつま先が、マイケルの顎に直撃した。そこから体勢を崩したマイケルの顔を、右上段足刀で二回、蹴り払う。腰がしっかり据わっている足刀を喰らった彼は、最早立っていることすら難しそうだ。
そんなマイケルの様子をよそに、幸平はマイケルの右頬を踵で蹴り払った自身の右足を今度は軸足にして、大技を放つ。
幸平の体が、まるで回転する駒の様に、軸足となっている右足を起点にして一回転した。そしてマイケルの頭部めがけて放たれた幸平の左足、その踵が確かにマイケルの顔面を捉える。幸平の大技とは、鞭の様にしなる左足を用いた後方回し蹴りであった。
本来、前蹴りや下段足刀などの例外を除いて、蹴り技というのは大きな隙を伴う大技である。しかし同時にそれが頭部へと直撃すれば、十分に勝負の決め手となる技だ。マイケルは見事にそれを喰らい、幸平から見て左側にあったコンクリートの壁へと叩きつけられた。マイケルはその場に倒れ伏し、起き上がろうと四肢に力を籠める。だが、脳をこれでもかというほど揺さぶられた彼の平衡感覚は、未だ回復していなかった。
「喧嘩は、俺の勝ちみたいだな。どうした大将、もう降参か?」
ふうと一呼吸入れながらも構えを崩さない幸平が、倒れているマイケルに向かって言い放つ。その言葉を聞きながら、マイケルもここからどうやって再起するかを考えていた。
(「クソ……。この若造、馬鹿みたいに強い。このままステゴロの戦いを続ければ、確実に俺が負ける。さて、どうする……」)
マイケルは彼が兵士であった頃、上官から教えられた知識を、朦朧とする意識を叩き起こしながら必死に思い返す。
相手の実力を見誤るな。相手の得意とする距離や技術、場所では戦うな。そして最後に、実力または物量が上の敵とは、決して戦うな。
上官からの三つの言葉を思い出し、自分が今のところ一つとして守れていない事を、マイケルは心の中で笑う。しかし、戦いを始めてしまった以上は仕方がない。そして、不幸中の幸いと言うべきか、マイケルはこうなった時に冷静な判断が出来る男だったのである。
「……お前、喧嘩は強いが頭は悪いらしいな」
マイケルが放ったこの言葉の意味を幸平が理解した時、マイケルは既に近くの窓から身を乗り出していた。
「――ッ、テメェ逃げんのかよ!」
幸平がマイケルへと手を伸ばしたが、時既に遅し。マイケルは二階から飛び降りて、地面に着地。その際の衝撃を前方に転がる事で和らげながら、裏路地へと消えて行った。ここから第二ラウンドかと息巻いていた幸平は、まんまと肩透かしを喰らう形となったのである。おまけに、自分たちの組織を狙う予定だった敵をみすみす逃がしてしまった。
しかし、幸平はにやりと笑って、上着のポケットからスマートフォンを取り出し、とある人物へと電話をかける。まるで、ここまで予想通りだと言わんばかりに。
スマートフォンの画面には、
「――おう、美奈か。ボスの指示通りに、連中の親玉だけ逃がしたぜ。こっからはテメェの仕事だ」
『アンタがわざわざステゴロの喧嘩を始めたところから、わざと逃がしてくれるところまで。一部始終をバッチリ見てたっての』
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