『9月25日午後7時 日本人街の古本屋 PartⅣ』

 こうなると自分の出番はないと、幸平は立ち上がって姫梨奈の肩を軽く叩く。

「さてと、じゃあ俺は帰って寝るか。でもその前に姫梨奈、なんか軽いモンでも作って食わせてくれ。何でもいいぜ」

「はいはい、それじゃあ『星空』の厨房を借りよっか。多分、店の食材がまだ余ってたと思うんだよね」

「アタシも小腹が空いたから、姫梨奈さんの料理もらおっと。幸平だけに食べさせるのは、勿体ないし」

 姫梨奈と美奈もまた、立ち上がって古本屋の二階を後にする。幸平たち三人はそのまま踏む度に軋む階段を下り、本棚の谷を抜けて店を出た。


 店先で、美奈がふと夜空を見上げる。時刻は既に午後九時すぎ。半月が美奈たちの上で輝いているが、インサニオ中心部で下品なほどに眩しく光る摩天楼と比べると、なんともか弱い光であった。夜空に輝く月でさえ、インサニオという街が放つ欲望の光の前では霞んでしまうのだ。小さく光る星の輝きなど、この街の夜空では見えるはずもない。

 しかし、それはあくまで遠くインサニオ中心部の話である。外周部に位置する日本人街では、九時頃ともなると徐々に店の照明が落とされ始め、通りを歩く人の数も徐々に減り始めた。

「いっつも思うんですけど、姫梨奈さんはよくこんな愛想の欠片もない喧嘩馬鹿と一緒に居ますよね」

「なんだ、喧嘩売ってんのか」

 彼らの拠点である喫茶『星空』へと続くそんな道を、幸平が気怠そうにズボンのポケットへと両手を突っ込んで歩いている。その隣で美奈が幸平に絡み、姫梨奈はそれより半歩ほど下がって、そんな二人を微笑みながら眺めていた。

「私と理世っち、それから幸平は、子供の頃からの長いながーい付き合いだからね。まぁ、幸平は今でも子供みたいなものだけどさ。昔っから不愛想で喧嘩っ早くて、私か理世っち以外から指図は受けないって、一家の中でもよく揉めたんだよ」

「けっ。ちっとばかし早く生まれただけの連中に、上から目線で指図されるのは嫌いなんだよ。その点、ボスは賢いしよ。何より面白え夢を見せてくれる。胸は姫梨奈の半分以下だが、器のデカさならこの街でも一番だ」

 舌打ちをして忌々しげに言葉を吐き捨てる幸平の肩を、姫梨奈が片手で軽く叩く。

「ほら、またそうやって子供みたいなこと言う。もう二十二歳なんだから、いい加減大人になりなって」


 まるで母親に小言を言われている子供のように、幸平はうんざりとした表情を浮かべて姫梨奈から目を背けた。しかし事実であることに違いはないので、幸平は特に反論しない。

「ホント、お母さんと悪ガキって感じ……。けど、アンタもなんやかんや言ってるけど、理世のことは認めてるのね。そこら辺は、越後と一緒じゃん」

 街灯の明かりと、未だ営業を続けている店の照明が幸平たちの行く手を照らす。幸平たち三人の間を、飲食店の換気口から流れ出る匂いと、自動車の排気ガスの混じった風が通り抜ける。インサニオの季節は秋へと移り始め、吹く風は少し冷たく感じるようになっていた。もっとも、四季を感じられる自然など、インサニオには公園と街路樹くらいしかないのだが。

 そして幸平はふと投げかけられた美奈の言葉を鼻で笑い、こう言葉を続ける。

「ハッ! あの脳みそ電卓ヤローと、俺が一緒だってぇ? 全然違うね。俺はボスの夢には惚れたが、あのヤローは豊島理世って女の全てに惚れ込んでる。だから、俺はボスの夢が続く限り戦うが、越後はボスが死んだ瞬間に自殺しかけねぇ」


 夜の帳が落ちきってもなお、星の瞬きすら見えぬ寂しい伽藍堂と化した空を、幸平は立ち止まったまま、じっと睨んでいるかのごとく見据えた。星の煌きは通りの照明が消え始めても見えはしない。インサニオに溜まる欲望が噴き出したかのような光と闇に、危うく飲まれかけている半月が辛うじて輝いているだけだ。

 しかし、それでもなお幸平は夜空へと手を伸ばす。それはまるで、夜の闇に隠された星の光を掴もうと、必死に足掻いているかのようだった。

「テメェが一家に入る時、ボスが言ったはずだ。俺たちは、血ではなくその魂で繋がった家族だ、ってよ。見てるモンもバラバラで、それぞれの強さだって面白いほど違う。ただ、豊島理世って頭の下で同じ夢を見て、その強さを振るうのさ。俺と越後のヤローが似てる点は、それだけだ」

 闇を裂くほどの眼光で空を見上げる幸平。その瞳に宿る光は、古本屋で美奈に指示を送った時の理世に酷似していた。決して眩いほどの輝きではないが、その光は確かにそこで光っている。そんな幸平を優しく、だが心の片隅に不安を抱えているような表情で見つめる姫梨奈の瞳にも、美奈は同じ光を見た。


(「強さ。アタシの、強さ……」)


 そしてその光を受けて、彼女の心に未だ残っていた一片の迷いが照らし出される。

 

 ◆


 美奈は自身が豊島一家の一員となる日、慣れない背広姿の緩んだタイを理世に直されながらかけられた言葉を思い出していた。周りにいるのは、幸平や姫梨奈、越後といった一家の主だった面々。全員が多少の差異はあるものの、黒いスーツに白のシャツ、そして赤いネクタイで揃えている。そう、それはまさに儀式と呼ぶに相応しいものだった。

「ここから先は、好奇心だけでは進めない。幾多の理不尽が、無限に湧き出す欲望の生み出す闇が貴方の足を絡めとり、汚泥の中に引き摺り込もうとする。無論、私たちも貴方を助けようと手を伸ばすわ。けれど、最後にその闇を払うのは、貴方の強さよ。今ここに居る者たちは、その強さを持っている」

 間近で見る、豊島理世の紅い瞳。吸い込まれそうなほど綺麗な、まるで水面に浮かぶ赤い月を彷彿とさせるその瞳が、美奈の目を捉えて離さない。美奈にだけ聞こえる小さな声で、理世は尋ねた。


「――六橋、美奈。貴方は、その強さを持っているかしら」


 その時まで美奈が見たこともないくらい、理世の表情は真剣そのもので、嘘は決して許さないという厳格さと、引き返すなら今だという慈悲を纏っている。

 二人の間に漂う張りつめた空気に、美奈は一瞬だが呼吸が止まったかのような錯覚さえあった。だが、それでも彼女は固唾を飲み込み、無理矢理にでも不敵な笑みを浮かべる。

「今はまだ、無いかもしれない。けど、絶対に見つける。アタシだって、自分の足でここまで歩いてきた。アンタが度肝を抜く強さを、絶対見つけてやる」

 ようやく見つけた、自分が自分でいられる場所。退屈で冷たく、理不尽と諦観が染め上げる灰色の世界を彷徨い、やっと探し当てた黄金の輝き。それを絶対に手放さぬよう、六橋美奈は豊島理世に、ひいては自身の心に啖呵を切った。


 理世はそんな美奈の様子に少しだけ驚いた表情を見せ、その後柔らかい笑みを浮かべながら、美奈の手のひらへとある物を手渡す。

「その言葉、楽しみにしておくわ」

 美奈の手に渡されたのは、零れ桜が彫られた金の徽章。正式な構成員のみが付けることを許されている、豊島一家の代紋『零れ桜』が入ったものだった。

 そして目を輝かせる美奈の肩をぽんと叩き、理世はその場にいる一家全員に向けて宣言する。


「――六橋美奈。貴方を、豊島一家の一員として正式に迎え入れるわ。零れ落ちる桜のように例え一瞬でも美しく、悔いのないよう全力で己が生き様を刻みつけなさい。……そして忘れないで。私たちは血ではなくその心で、魂で繋がった家族よ」


 この日、六橋美奈は豊島一家の一員となった。その決して大きくない背中に零れ桜の代紋を背負い、未熟さの残る心に熱き理想を抱くことになったのだ。


 ◆


 その時のことを思い返した美奈は、一片の不安を思わず口にする寸前だった。今の自分は幸平や姫梨奈のように強く、そして瞳に光を宿しているのだろうか。あの時理世に言ってのけた強さを、今の自分は持っているのだろうかと。

 美奈の前にいる二人の光が、彼女の不安を浮き上がらせてしまったのだ。

「――はい、むず痒い台詞はおしまい。ほら幸平、お腹減ったんでしょ。早く『星空』に帰るよ」

「……テメェは俺のお袋か」

 しかしそんな美奈の心中など知る由もない幸平と姫梨奈は、他愛ない話をしながら美奈の前へと歩み出る。そんな些細なことすら、今の美奈の心には響いた。少しだけ前を歩こうとする二人の背中が、美奈にはとても遠く感じたからだ。


「あっ――」


 半ば言葉になっていない声を上げ、美奈は慌てて前に一歩踏み出した。それを聞いた幸平は、誰かから袖を引っ張られたかのように、どうかしたのかという表情で美奈を横目で見る。しかし、姫梨奈は僅かな美奈の変化に気づけず、二人に向けて右手を伸ばしている美奈の手をとった。

「美奈ちゃんも、お腹が減っちゃったか。大丈夫、どうせお客さんはあんまり来てないだろうから、食材だって余ってるよ」

 違う。美奈はそう言いかけたが、こんなところで弱みを見せられないと、また無理矢理笑って誤魔化す。何より、こんなにも強い二人の前で弱さを見せることが、美奈にとってはどんなことよりも恥ずかしかった。


 彼女は同じ豊島一家として、姫梨奈や幸平たちと同じ場所に立っていたかったのだ。


「そ、そうです! 幸平だけに食べられたら、たまったモンじゃないですから!」

「ごめんねぇ、美奈ちゃん。ウチの幸平、ほとんど働かないのにご飯だけは誰よりも食べるし、がっつくからさ」

「だからよぉ、テメェは俺のお袋か。後、今日は少なくとも働いてんだろうが」

 楽しそうに笑う姫梨奈に合わせて、美奈もまた仮初の笑顔を浮かべた。自らの不安に背を向けて、彼女は僅かな灯りだけが頼りの道を進んでいく。

 ただ一人。仁衛幸平だけが美奈の少し後ろから、彼女の背中を見つめていた。


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