『9月25日午後5時 エル・コディシアの表通り PartⅢ』
(「――クソが! これやと、カルテルの思い通りやないか」)
越後は歯ぎしりをして、表通りへと続く道を睨み据える。やはりあの時、美奈と共にカルテルの手下共を捕まえるべきだったのか。自分はまた、慎重になり過ぎるがあまり、機を逸してしまったのか。
やるせなさと己が無力さに、越後は打ちのめされかけていた。
その時、野次馬が表通りへと去っていく中で、一人だけその流れに逆らっている者がいることにふと越後は気づく。
今さら火事の見物、或いは火事場泥棒か。しかし、その者は何かに怯えるように、落ち着かない素振りで辺りを見回していた。そして、アパートが燃えている様を見て、何故か胸を撫で下ろしているのだ。
何かが、おかしい。安物のベースボールキャップを深く被り、自分の顔を隠そうとしている様子も、その違和感を一際目立たせていた。
そして、最後にその場を立ち去ろうと、その不審な人物が踵を返して、横顔を覗かせた瞬間に、越後の疑問は彼にとってのチャンスとなる。
「――――お前は、ホルヘッ!」
そう、何故ならその横顔は、そこのアパートで焼け死んでいるはずの、ホルヘ・ミラネスだったのだ。あまりの驚きに、越後は思わず大声を上げてしまう。ホルヘは自身の名前を呼ばれた瞬間、ぎょっと目を見開いて表通りに向かって走り出した。
自分の馬鹿さ加減に心底呆れつつも、越後もまた歯を食いしばり必死の形相でホルヘを追いかけて走り始める。そして、野次馬の集団を掻き分けて、二人は表通りへと出た。
ようやく車が二台ほど通れる幅になったその表通りで、越後は依然として逃走を続けるホルヘを追跡する。越後は慌てて携帯を取り出して、集合しようとしているはずの美奈へと電話をかけた。
「美奈坊! 今何処や!」
『何処だと思う?』
千載一遇のチャンスを逃すまいとする越後に対して、余裕綽々といった声色の美奈が応答する。流石の越後も余裕がないのか、美奈を電話越しに怒鳴りつけた。
「ド阿呆! そんな冗談言うとる場合やない!」
『――何よ、もう。はいはい、今アタシが走ってるのは、アンタとホルヘの上』
一瞬、その言葉を理解するのに手間取った越後だったが、自身の右斜め上辺りを見た瞬間に、その意味を悟った。
そう、美奈はホルヘのすぐ横に建ち並ぶボロ屋の屋根を、フィクションの中に登場する忍者ごとく、軽快に飛び跳ねて追跡していたのである。おまけに屋根の上を疾駆する彼女は、既にホルヘを追い越していたのだ。
「美奈坊――! お前は天才や!」
『一転してのお褒めの言葉、どうもありがと。んじゃ、ホルヘの足を止めるわよ』
美奈はそう言うと携帯を仕舞い、自身が身につけているウェストポーチから、スリングショットを取り出した。そして立ち止まってから一瞬だけ片目を瞑って狙いを定めたかと思うと、ホルヘに向かってそれを撃ったのである。
スリングショットに装填されていた特製弾は、ホルヘに向かって突き進み、彼の顔面に直撃した。ホルヘと美奈の距離は、十メートル強といったところであったが、全力で走っているホルヘの顔面へ見事に当てる美奈の腕に越後は舌を巻く。もっとも、そのスリングショットと、唐辛子の粉末等を配合した特製弾を作ったのは越後なのだが。
ホルヘは突然前が見えなくなり、おまけに目や鼻から強烈な刺激が流れ込んできたことで、前のめりになって近くにあったゴミ置き場へと突っ込んだ。
「――よっしゃあ!」
思わずガッツポーズと決めて、越後は未だのたうちまわるホルヘに近づく。美奈もホルヘの足が完全に止まったことを確認して、屋上から下り始めた。
「さてと、ホルヘさんよ。あのアパートで焼け死んどるはずのアンタが、なんで生きとるんか……。聞かせてもらおか?」
越後がホルヘに詰め寄ると、ホルヘはゴミの中をもがきながら、どうにか逃げようとする。その様子は、何かにひどく怯えているようだった。
「た、頼む! 殺さないでくれ! アンタらとの約束通り、イワン共は例の廃工場に送ったし、その金だってアンタらにやっただろ⁉ だから頼むよ! オイラにはまだ、やるべきことがあるんだ!」
どうやら、越後たちをカルテルの追手だと、勘違いしているようである。軽くため息をついて、越後はようやく目が見えてきたホルヘに手を差し伸べた。
「どうやら、アンタは勘違いしとるみたいやな。ワイはカルテルの回し者やない。まぁ、ここで話すのもなんや、続きは違う所でゆっくりと話そうやないか」
そう言って、ホルヘを安心させようとする越後。
ホルヘの方も、今はとにかく従う他ないと思ったのか、恐る恐る越後の手をとる。
「わ、分かった。カルテルの連中なら、この場でオイラを撃ち殺してるだろうしな……」
そして、ホルヘは越後の手を借りて立ち上がった。美奈もその二人に合流する。先ほどまであれほど動いていたためか、美奈の額には幾つか汗が流れていた。彼女がレザージャケットの下に着ている、髑髏が描かれた赤いTシャツは、汗で美奈の身体にぴったりと貼り付いている。
「で、ホルヘだっけ? なんでアンタは生きてんのよ」
ぶしつけにそう質問する美奈に、やや面食らいながらもホルヘは答えた。
「あのアパートに居たのは、金を握らせたホームレスさ。酒を飲んで、毛布に包まって、オイラの家で寝とけって依頼したんだよ。カルテルの下っ端は馬鹿揃いだし、オイラは顔をちょくちょく変えるから、これなら騙せると思ったんだ。で、家が燃えてるのを確認して、騙し通せたと安心したら、アンタらに追われたってワケさ」
「……なるほどね。何の罪もないホームレスの人が死んじゃったのは、スッキリしないけど」
美奈はあまり良い心境ではなさそうだが、越後は話を続ける。
「――さてと。疑問も晴れたみたいやし、別の場所に行こか。そこで、詳しい話を聞かせてもらうで」
顎を僅かに上へ動かし、ホルヘを催促する越後。しかし、ホルヘは自身の携帯を取り出しながら、首を横に振る。
「ま、待ってくれ。この街から一緒に逃げるって決めた、オイラの女が居るんだ。そいつと一緒に、この街から逃がしてくれるのが、アンタらに情報を教える条件だ。この一件に関する証拠も、その女が持ってる。ここに来る前、預けてきたんだ」
このホルヘという男、こういった知恵だけはよく回る男だと、越後も美奈も呆れた。その女と思しき人物に、ホルヘが電話をかけている間、美奈が越後にこっそり話しかける。
「しっかし、まさか自分だけじゃなくて、自分の彼女まで逃がしてほしいなんてね。確かコイツ、女衒でしょ? てっきりアタシは、女を食い物にしてるクソ野郎かと思った」
「まぁ、最初は単なる金稼ぎの道具だった女に、いつの間にか惚れこんでもうた、ってトコやろ。あり得ん話やない。特にこのインサニオじゃ、人間が想像できることは大体が現実になってまう。ほんま、けったいな街やで」
そう言いながら、越後はスタジャンの右ポケットから煙草を取り出すと、口に咥えて火を点けた。彼が吸っているのは、黄緑のソフトパッケージが目印の、ハイライトメンソール。一家のボスであり、彼の思い人でもある豊島理世が超のつく嫌煙家であるため、彼も普段は吸わないようにと心がけていた。
しかし先ほどまでのような張りつめた局面や、赤字寸前の帳簿に頭を抱えている時は、どうしても吸ってしまうのである。一息つくように、越後は空に向かって煙を吐き出した。その様子を見た美奈が、悪戯っ子のように笑いながら越後を茶化す。
「あーあ、良いのぉ? まぁた理世から、バケツ一杯の水をぶっかけられちゃうんじゃない?」
「大丈夫や、これはメンソール。臭いはそんなにつかへん、……と思いたい。けどしゃあないやろ、結構しんどかったんや、今回は」
越後は次に理世と会った時、煙草を吸ったことがばれないかと心配しつつも、どうにかホルヘを確保できたことに安堵する。これは豊島一家がカルテルに対して、ひいては他の五大ファミリーとの駆け引きにおいて、一枚の強力なカードを手に入れたということを意味していた。
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