『9月25日午後5時 エル・コディシアの表通り PartⅡ』

 舌打ちして、越後は走り始める。

「ど、どうしたってのよ、越後! 考え込んだと思ったら、急に走り出して!」

 突然のことに驚きながらも、美奈は越後の横に追走した。むしろ追い抜きそうな勢いである。

「――クソッタレ! なんでもっと、はように気づかなんだんや! 美奈坊、もしかしたらホルヘは、もう殺されとるかもしれん! 連中の狙いは、やっぱり――――」

「えぇ⁉ ……いや、でも確かに。言われてみれば、マイケルたちを手引きしたホルヘに、もう利用価値はないわね。となると、映画とかのお約束なら……」

 越後と美奈の二人は同じタイミングで、違う思考回路ではあるものの、同じ考えに至った。


「「トカゲの尻尾切り!」」

 

 美奈がズボンのポケットから黒革の手袋を取り出し、両手にはめる。本気で彼女が走り出す、合図の様なものであった。

「越後、アタシちょっと先行して、様子を見てくるわ」

 先ほどまで他愛ないおしゃべりに興じていた少女と同一人物とは思えないほど、凛とした眼つきに変わった美奈は、越後を悠々と追い抜いていく。そのあまりの速さに、周りにいた住人たちも目を丸くして驚いていた。

「くれぐれも、要らんちょっかいはかけんなや!」

「分かってるっての!」

 注意する越後の言葉すら振り切りそうな速さで、美奈は近くの建物の壁をよじ登る。窓の鉄格子や組み上げられた煉瓦の僅かな凹凸、壁に取り付けられた排水パイプを伝って、美奈はあっという間に屋上へと辿り着いた。そして、屋上伝いに建物を移動し、ホルヘの元へと向かう。


「もう見えんようになったわ……。忍者かアイツは」

 そう呟きながらも、越後はスタジャンのポケットから携帯を取り出し、理世へと電話をかけた。

『もしもし、どうかした?』

「ボスの読み通りかもしれませんけど、銀行口座を辿った先におったのは、カルテルの息がかかっとるチンピラでしたわ。エル・コディシアのホルヘっちゅう単なるポン引き、もとい女衒。もちろん、今から確認しに行きます。ただ、もしかしたら既に――」

 越後が一瞬、口にするのを躊躇ったその言葉を、理世が言う。

『カルテルに消されて、海か川の底ってことね。……ごめんなさい。全部分かっていたのに、貴方と美奈を危険な目に、遭わせることになってしまって』

 いつもの冷静沈着で、迷いない言葉を紡ぐ理世ではない。携帯越しに越後が今話しているのは、後悔と罪悪感、そして不安に揺れ動かされる少女であった。歯切れの悪い彼女の言葉が、越後の心を締め付ける。

 

 そんな理世に対して、伝わらないと分かっていながらも越後は笑顔を作った。彼女を励ますように、彼女が決めた選択は、決して間違いではないと言うように。

 そして、理世の期待を裏切るなと、自分を叱咤するように。

「なぁんも、問題ありませんわ。美奈なんか、逆に活き活きとしとるくらいです。必ず、ボスの満足するモンを回収して戻りますさかい。せやから、いつも通りに待っといてください」

 こんな時、幸平ならば、あの見栄っ張りで意地っ張りなのいけ好かない喧嘩馬鹿なら、もっと頼り甲斐のある言葉をかけることができたろうに。越後はこんな他愛ない言葉でしか、慕う人を励ませない自分を恨んだ。算盤を弾くしか能がない器用貧乏、と言われても致し方ないと、越後は自嘲気味に笑う。

『……ふふっ。貴方らしい、真面目で飾り気のない言葉ね。何処かの不真面目で、気取り屋な喧嘩馬鹿とは大違い。けど、私はそういう方が好きよ』

 しかし、理世はそんな越後の気持ちすら見透かしたかのように、電話越しに小さく笑っていた。どうやら、幾分かではあるが彼女の気持ちは晴れたようである。

 越後はそんな理世の笑い声、そしてその言葉に、逆に励まされていた。彼は全速力で走っているというのに、律儀に敬礼までして、感極まったような声で理世に言う。

「――この越後泰広に、任せて下さい! 絶対に、証拠をボスに届けますさかい! 待っといてください!」

『分かったわ。けれど、無茶だけはしないで』

 理世との通話を終え、越後は意気揚々と目的地に向かう。

 

 しかし、目的地に着いた越後は、その光景に愕然とした。


 ホルヘが住んでいるというアパートは、その建物全体が燃え盛る劫火に包まれていたのである。車一台がようやく通れるくらいの路地に、火事場泥棒やら野次馬やらが詰めかけていた。焼け落ちていくアパートを前に立ち尽くしている越後の携帯へ、先行していた美奈からの着信が入る。

『――ごめん、越後。アタシが着いた時にはもう、火の手が上がってたわ。一応消防車は呼んどいたけど、いつ来るか……。多分、ホルヘを殺したカルテルが証拠ごと焼き払った、ってトコだと思う。現に、下衆っぽい笑い声を上げながら、アロハシャツの二人組が表通りに出て行ったし』

 悔しさが滲み出ている声色で話す美奈。彼女としても、折角先行して実行犯と思しき二人組を見つけたにも関わらず、指を咥えて見ているだけしか出来なかったのは、悔しかったのだろう。

 もう少し早く、気づいていれば。或いは、もう少し早くホルヘの存在を突き止めていれば。そう二人は思うが、現実は非情だ。越後たちの目前で燃えている証拠が、それを証明している。

「……美奈坊。そのクソッタレのアロハシャツ共が、何か言うとらんかったか?」

『途中からしか聞き取れなかったけど……。酒飲んで寝てるヤツを殺すのは楽だな、みたいなことをスペイン語で言ってた。まだソイツらを尾行してるけど、どうする?』

 美奈は暗に、その二人を捕まえて情報を吐かせるかと聞いていた。しかし、それではカルテルの構成員に対して、危害を加えることになる。例えその二人から情報を引き出し、隠蔽の為に二人を殺したとしても、構成員が二人消えたことに気づかないカルテルではない。事態が抗争へと発展する可能性は、十分に考えられた。


「……いや、ホルヘのアパート前で合流や。そいつらは、写真を撮れるなら撮ってきてくれ。ただ、手出しはしたらあかん。カルテルの手下だったら、後々面倒なことになる」

『……了解。写真だけ撮って、そっちに戻る』

 それは、出来ない。ここで悔しさから軽率な行動に走れば、理世の言葉と信頼に反することになる。携帯を握り締めながら、越後は美奈と合流することを選んだ。

 美奈も渋々ながら越後の指示に従うようだった。ここで喧嘩早い幸平ならば、彼の指示を無視してアロハシャツの二人に突撃したかもしれない。彼女を選んだ理世の選択は正しかったことが、皮肉にも証明されたのだった。

 それでも何とか証拠を集めようと、越後は辺りを見渡す。

 ここで諦めて帰ったとしても、理世はそれを咎めたりはしないだろう。ただ、今回の一件が単なる外部勢力の侵攻として片づけられるだけだ。

 世は事もなし。このインサニオという街で自分たちを、ひいては理世を裏から排除しようとした相手は失敗したかと舌打ちをして、またのうのうと金儲けに勤しむのだ。己が強欲を垂れ流し、ひとつの街を地獄に変えながら。


 ふざけるな。越後は拳を握りしめながら不審な野次馬がいないか、あるいは燃えているアパートから、生存者が出てこないか必死に確かめる。

 しかし、アパートを包む炎の勢いは増す一方で、美奈が呼んだ消防車なども駆けつける様子はない。野次馬もまた、後は暖炉の薪が燃えているのを見るのと同じだと言わんばかりに、何をするわけでもなく去って行った。


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