『9月25日午後5時 エル・コディシアの表通り PartⅠ』

 荒川と中川、そして江戸川。この三つの川の周辺には、この狂騒の街でも最も危険とされる地域がある。

 

 それが、エル・コディシア。

 

 スペイン語で『強欲』を意味する言葉を冠したこの地域は、五大ファミリーの一角である、麻薬密売組織が支配していた。フランコ・カルテルと呼ばれるその組織は、このエル・コディシアを麻薬の精製と密輸の一大拠点として、或いは売春宿と奴隷市場の集合地として作り変えたのだ。

 

 三つの川と船舶を用いたカルテル独自の流通ルートは、カルテルに莫大な利益をもたらした。しかし、同時に江戸川区や葛飾区、足立区にはカルテルに雇われた多くのならず者たちが集い、治安は悪化の一途を辿る。そして今では、狂騒の街で最も危険な場所とまで言われていた。

 煉瓦造りの、災害対策が何もなされていない建物が軒を連ね、餓えた野犬が餌を求めて徘徊している。その野犬を追いまわして棒で叩くか、商店から物を盗んで空腹を凌ぐ子供たち。決して清潔とは言えない道端には、恐らく麻薬中毒者であろう人々が空の注射器を片手に持ったまま横になり、焦点の定まっていない虚ろな目で夕暮れの空を仰いでいた。中には口の端から涎を垂らし、瞼には蠅が止まっているにも関わらず、身じろぎひとつしない者までいる。生きているか、死んでいるかすら曖昧だった。

 

 もうすぐ夕方だというのに、街には活気などまるでない。家の換気口から流れてくる夕食の匂いも、慌てて家路につく子供たちの姿も、買い物帰りに手を繋いで歩く家族も、カルテルの強欲が支配する街には存在しなかった。エル・コディシアにあるのは、カルテルが垂れ流した強欲のツケを理不尽にも肩代わりさせられた、哀れな人々だけである。


「いつ来てもこの世の終わり、って感じ……。この地区全体から、路地裏みたいに饐えた臭いと、暗い諦めの空気が漂ってる。もう何をしても変わらないって、ただ生きてる感じ」

 美奈はエル・コディシアを漂う悪臭に、そして理不尽に対する逃避や諦観に顔をしかめた。

 外部の人間はインサニオを、欲望による繁栄がもたらした狂騒の街という。であれば、さしずめエル・コディシアはインサニオに住む人々の際限ない欲望と、信念なき繁栄の代償を一手に背負わされている場所だった。そんな場所で生きる人々にとっては、麻薬の見せる幻覚だけが酷い現実からの救いであり、その麻薬を買った金はまた、カルテルの欲望を満たすために使われるのだ。

 

 強欲の生み出す負の連鎖が蓄積する場所。この地域一帯がエル・コディシアと呼ばれている所以である。


「……一度こうなってもうたら、また良くするのは至難の業や。だからボスは、こうならんためにもカルテルと、ひいては他の五大ファミリーとも戦こうとるんや。あの人は、日本人街が大好きやさかい」

 その越後の言葉に、美奈は少しだけ何か引っ掛かるものを覚えた。越後の口ぶりだと、自分はそう思っていないという風に、美奈には聞こえたのである。

「理世は、って。じゃあ、アンタはどうなのよ、越後」

「ワイは――、あの人があの人らしく在れるように。そして、あの人の夢が叶う様に全力を尽くすだけや。ワイ自身はボスみたいに思いもつかんような夢を抱いとるワケでもなければ、幸平や姫梨奈みたいに自分の夢や理想なんてモンもないしな」

 赤く染まっていく空を眺め、越後は燃え盛る灯火のごとく赤い理世の瞳を思い出す。

「初めて会った時から、あの人の目に惹きつけられてもうた。クソッタレばっかりやと思とったこの世界であの人の目は、あの人の心はそれでも輝いとった。そこからはもう、直感やった。この人のために、命賭けたろってな」

 誇らしげに笑う越後の顔は、エル・コディシアという場所には似つかわしくないほど満ち足りている。それは美奈にとって、何やらとても羨ましく思えた。

 

 豊島一家の者は皆、迷いなく自身の命すら賭けられるものを持っていることを、美奈は知っている。そして彼女にはそれが見つからず、そのことに焦りのような感情を抱いていた。この狂騒の街の空港へと初めて降り立った時、美奈は物乞いのような恰好をした男から、あることを教えられた。何かしらの力を手に入れろ、と。しかし美奈は、自分がこの街で生きていけるような力を得たとは思っていない。そしてそれは、自分が迷いなく命を賭けられるものが見つかっていないからだと、信じて疑わなかった。

 閉じた日常からただ逃れたい、ただ刺激が欲しい。そんな自分ではなく、命を張れるほどの信念や理想、それを貫き通すことができる力を持つ自分に、六橋美奈はなりたかったのだ。


 そんなことを考えながら美奈が歩いていると、建物の影で突然立ち止まった越後の背中に思いきりぶつかってしまった。背中にぶつけた鼻を撫でながら、美奈は越後を少し見上げて睨み据える。

 越後の表情は真剣そのものだった。

「ぼぉっとしとったらアカンぞ、美奈坊。ここは敵の縄張り(シマ)のど真ん中や。幸平やボスに比べたら、ワイの面は割れとらんやろうが、用心するに越したことはない」

 そう言って建物の角からちらりと大通りを覗く越後。その視線の先には、スラム同然のエル・コディシアには似つかわしくない高級車、そしてそれに乗り込もうとしているスーツ姿の一団があった。

「うわ、いかにもその筋の人間って感じね」

「あそこまでそれっぽい感じのヤツは、幹部以下の下っ端や。推測するに、売春宿か何かへの集金か。屋根に妙な色の煙が出とる煙突も付いてへんし、表に思いっきり警備のモンを立たせとるから、売春宿でアタリやろな」

 瞬時にそれらの目星をつけると、越後はジャケットの裏から手帳を取り出して情報をメモする。

 

 そこからは目立つのを避けたいという越後の考えにより、二人はその場所を迂回して進んだ。時折背筋を伸ばしたり、欠伸をする仕草に混ぜながら、周囲を注意深く警戒する越後が愚痴を言う。

「しっかし、ペーパーカンパニーを辿って、行き着いた先がまさかこことはなぁ……。ここら辺はカルテルの縄張りで、あんまり派手に動けんっちゅうのに。ほんま、神経使うわ……」

「けど、最後に辿り着いたのが、チンピラの銀行口座ってのが拍子抜けよね。情報屋から教えてもらったけど、確かホルヘ・ミラネス、だっけ? アタシはてっきり、越後が腰を抜かすくらいの大物に繋がってるかも、って思ったのに」

 何とも軽率な美奈の発言に対して、越後がそれを咎めるように咳払いをした。

「ええか、美奈坊。そもそも組織の上に立つ連中ってのは、大体リスクを嫌うもんや。たかが銀行口座を辿ったくらいで、どうこうできるもんやない。ホルヘってヤツも、恐らく雇われのチンピラってトコやろうな」。

 

 まず、ホルヘがフランコ・カルテルに雇われていることは間違いないだろう。このエル・コディシアにいる無名のチンピラを一人雇い、ペーパーカンパニー云々の知識を教えこむほど、他の五大ファミリーは暇ではない。わざわざカルテルの縄張りにいるチンピラを雇うなど、手間とリスクが大きすぎる。これが越後と姫梨奈、そして理世の共通見解であった。

 そして、この件の黒幕がカルテルだったとするならば、カルテルはロシアン・マフィアの一派と裏で繋がっていることになる。

 五大ファミリーと外部勢力の結託。こんなことが明るみになれば、とんでもない規模の抗争が起こりかねない。かなりの力を持つカルテルならともかく、未だかつての麻薬抗争で受けた被害が残る豊島一家が、その抗争に耐えられるとは思えない。越後はまずそれを懸念しており、理世が深追いはするなと言った意図を、彼は改めて認識した。


(「ここまで、ボスの読み通りっちゅうワケか……。つまり、ワイらがこの調査でやるべきことは、秘密裏にカルテルが関与していた証拠を握ること。誰と揉めることなく、証拠だけを持ちかえれば、強い取引材料を得られる、っちゅうことやな」)

 

 そう、現状カルテルがシガレフ一派と繋がっている、というのは越後たちの推論に過ぎない。ホルヘの確保に失敗し、カルテル関与の証拠を握ることができなければ、事態は単なる外部勢力の侵攻未遂でカタがついてしまう。それでは豊島一家が抗争の被害を受けるだけだ。

 ならばとここで躍起になって事態を深追いし、カルテルと小競り合いを起こしてでも、証拠を入手したとする。すると、これもまたカルテルの思惑通りになってしまうのだ。構成員の一人に掠り傷でもつけようものなら、カルテルは間違いなく豊島一家に抗争をしかけるだろう。手下がやられて黙っているなど、マフィアにとってはありえないのだ。マフィアに限らず、力を以て支配を行う組織や団体というものは、自分たちの面子やプライドを傷つける輩、つまりは自分たちをナメている輩を見逃さない。それはその組織が、ナメられる程度の弱い組織だという証明になってしまうからだ。

 獣の世界では、弱みを見せたものから死んでいくのである。


(「最悪の場合、ホルヘを傷つけてもアウトかもしれへんな。となるとホルヘの部屋に忍び込んで、証拠を探すのが得策か……。なるほど、こりゃ幸平には無理やな」)

 

 だが、そこで越後の脳裏にある考えがよぎった。


 この一件においてカルテルの弱みを握るホルヘという男を、そもそもカルテルが生かしておくのかと。


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