『9月25日午後7時 日本人街の古本屋 PartⅠ』

「越後……。貴方、また吸ったでしょう?」

 

 どうにかこうにかホルヘを引き連れてきた越後は今、もの言いたげな目をした理世に詰め寄られていた。

 場所は、越後が表の商売として経営する古本屋。一応の本部として使われている喫茶店『星空』へ部外者のホルヘを入れるわけにもいかず、越後はこの場所を選んだ。

 美奈は汗だくになったためシャワーを浴びに自宅へ戻り、ホルヘの女は彼共々古本屋の外に止めた車で待っている。この車は半ば一家の共用となっているバンで、外見は廃品回収業者のものを装っていた。

 つまり、今この古本屋にいるのは、越後と理世の二人だけなのだ。もっとも、そうなるようにホルヘを外で待たせたのは、他ならぬ越後なのだが。


 越後の几帳面な性格が表れているかのように、本がきっちりと揃えられた本棚。埃などまったく見当たらず、古い本棚や板張りの床はもちろん、本棚の上やカウンターの裏にも清掃が行き届いている。暖色系の照明は天井に吊るされており、もう夜であるにも関わらず越後は意図的に明かりをあえて控えめにしていた。年季が入った各種内装とともに、落ち着いた空間であることを強調するためである。

 そんな場所で越後は一連の功績を理世から褒めてもらい、あわよくば勇気を出してデートにでも誘おうと画策していたのだった。


「ホルヘ本人を、カルテルに気づかれず確保したのは流石よ。貴方ならきっと成し遂げられると信じていたわ。これで私たちは、カルテルをいつでも叩ける口実を得た。――けれど、あれほどやめなさいと言っている煙草を吸うのは、いただけないわね」

 しかし、往々にして人生とはそう上手くいかないものである。越後の目論見は、早くも破綻しかけていた。常日頃、溢れんばかりの才気と冷静さを纏って仕事をこなす理世とは思えぬほど、拗ねた少女のように時折頬を膨らませて、越後への説教を続けている。

 ここまで理世があからさまに煙草を嫌うのは、彼女の父親が肺ガンで亡くなっているからだった。理世も別に、煙草だけが肺ガンの要因だと決めつけているわけではない。ただ自分の愛する部下、本井家族には例え少しでも健康でいて欲しいという、大人びた彼女の数少ないわがままであった。


 もちろん越後もそういった事情を知っているので、正座して説教を受けている。

「す、すんません。けど、やっぱり息抜きっていうのは、必要ですやんか? って思ったり、思わなかったり……」

 視線で圧力をかけてくる理世に、ただでさえ弱々しい越後の反論は、最後の方には聞き取れないほど小声になってしまう。そして、その言葉が小さくなっていくのに比例して、彼の肩もどんどんと窄まっていった。まるで彼自身が小さくなってしまっているようだ。

「確かに、息抜きは必要ね。ただ、それで健康を害していては、元も子もないと思うわ。特に、貴方はこの一家にとっても、私にとってもかけがえのない才能なのだから、もう少し自己管理というものを……」

 こうなると、理世の説教は下手な長編映画よりも長引く恐れが出てくる。そのことを知っている越後は、自分がかけがえのない才能と褒められた反面、これからしばらく続くであろう、理世の説教ソロライブのことを思い、ますます肩を落とした。


 そんな彼らの様子を店内のカウンター裏から、こっそりと眺める人物が二人。


「越後のヤローも馬鹿だな。ありゃあ、『貴方のため』モードだぜ。あのモードに入ったボスの説教は、マジで長いからな。便所休憩が必要になるレベルだ」

「まぁ、理世っちの話が長いのは否定できないね。頭の回転が速いから、ガトリングみたいに次々と豊富な語彙と知識で、聞く側を圧倒してくるんだよね」


 そう、幸平と姫梨奈だった。二人はある情報の裏をとり、越後たちが古本屋に集合するという話を聞くや否や、急いで店に向かったのである。これは何やら面白いことがあるという、二人の勘がそうさせたのだ。基本的に姫梨奈は幸平のブレーキ役ではあるものの、彼女自身もノリと勢いで騒ぐ時があり、理世と越後は常日頃からその不安定感に翻弄されていた。

 そして今回も、越後が理世と二人きりになっていると知り、こそこそと店の裏口から回り込んだのだ。

「おいおい、見てみろ。越後のヤロー、すっかりしょぼくれちまってよぉ。へっ、良いザマだぜ。つうか、あのヤローもつくづく面倒くせぇよな。惚れてんなら、そうはっきり言えってんだ」

 延々と説教を受け、時折少しの反論という名のむなしい抵抗を行っては、倍の言葉で以て押し返される越後。中腰で店のカウンター裏に隠れている幸平は、そんな彼の様子を見て呆れたように鼻で笑う。

「そんなこと言わない。それにほら、やっぱりそういう紆余曲折があって、ある時突然告白される、って方が素敵でしょ?」

「分かんねぇな。ソイツに心底惚れたんなら、言葉で伝えりゃいいだけだろ。言わなきゃ、相手にも伝わりゃしねぇってのによ」


 ひょこっと、顔の鼻先くらいまでをカウンター裏から覗かせる幸平と姫梨奈。その状態で器用に目だけを動かし、二人は会話していた。

「なら今この場で、私に対して思ってるコトを素直に言ってみ? 言わなきゃ伝わらないんでしょお? ほらほら」

 姫梨奈は目を細め、何やら期待するような眼差しを幸平の方に向ける。一方の幸平は眉間に皺をよせ、まるで青汁を一気飲みしたかのような渋い顔で、いつもより更に低い声を出す。敵に対してはもちろんのこと、理世や越後といった味方に対しても不敵な態度を崩さない幸平が、姫梨奈の前ではこのザマであった。これが、仁衛幸平の外付け制御装置と姫梨奈が言われる所以である。


「――腹減ったな、飯」

「……カウンター裏じゃなかったら、その顔に足刀喰らわしてた」


 いつもの陽気な口調とは打って変わった、不機嫌そうな低い声で姫梨奈はリテイクを要求した。それに対して幸平は舌打ちして頭を掻いた後、反撃とばかりに真剣みの帯びた表情を姫梨奈に向ける。

 思わずその表情に姫梨奈がきょとんとした隙を突いて、軽く咳払いをしてからこう言った。

「――俺とテメェがまだクソガキだった頃の約束、覚えてるか?」

 咄嗟のことに思わず姫梨奈は目を丸くしつつも、いつものように優しく微笑んだ。心なしか、その表情には喜びの感情が滲み出ていた。

「もちろん。世界の全部に嫌われて、何も信じられなくなって、ただ泣いてるだけの私の傍で、幸平が言ったんだよね。なら、お前が泣き止むまで俺が傍にいてやる、ってさ。それだけは絶対だから、信じてみろって。思えばあの頃から気取り屋で、ぶっきらぼうな子供だったよね」


 十数年前の、夕焼けに沈む裏路地。そこで蹲りただ泣いていた女の子と、その女の子を励まそうとした男の子。男の子は女の子にそう啖呵を切り、来る日も来る日も女の子の傍へと座った。

 何をするでもなく、何か話しかける訳でもなく、ただ自分と女の子の夕食を持ってきて、食べ終えてからまた座る。雨の日は合羽と傘を持ってきて、夏の暑い日は団扇と追加の飲み物を二つ手に持って。

 幼くして両親を殺され、世界に裏切られた少女は何も信じられなくなっていた。女の子はただ、誰の目も届かぬ日陰で膝を抱えて塞ぎ込むだけ。女の子は最早、自分以外の誰かが怖くて仕方なかったのだ。

 しかしそんな女の子に、男の子はちっぽけだが確かな、信じられる何かを与えたのだ。

 自分だけは何があっても傍にいて、女の子を見守るのだと。


「あの約束は、今でも変わらねぇ。テメェが望むなら、俺は必ず傍に居る。テメェと一緒に飯を食って、一緒に歳をとってやる。これだけは絶対だ、約束する」

 そして今でも、男の子は女の子の傍に、仁衛幸平は豊島姫梨奈の傍にいた。

 かつて交わした約束は、いまだ消えていない。姫梨奈はそれがたまらなく嬉しかった。だが顔には出さず、誤魔化す様に肩を竦めて呆れる仕草を見せる。

「誤魔化されないよ、今の私は。一緒に飯は食べてないでしょ。いっつも、私を待たずに食べ始めてるじゃない。この前作ったエビチリなんて、私は一口も食べてないからね?」

 一拍、幸平が沈黙する。

「……あぁ、アレは美味かったな」

「いや、美味かったな、じゃなくて。アレだよね、気取って良いこと言えば、何でも許されると思ってるよね、幸平。私、そういうのも含めてしっかり覚えてるからね?」


「――――私と越後の話を肴に、随分と話し込んでいるわね?」


 もぐら叩きのもぐらを眺めるように、理世が幸平と姫梨奈を見下ろしていた。もっとも、彼女の身長では

 ゆっくりと、幸平と姫梨奈は理世の方へと目を向ける。理世は腕を組み、責めるような視線でじっと二人を見ていた。

「……ただいま、理世っち」

「おかえりなさい、姫梨奈。人の話を盗み聞きするのは、褒められたことではないわね」

 理世の発する圧力に屈して、姫梨奈は申し訳なさそうに両手をあげ、おずおずと立ち上がる。一方、幸平はずっと顔の半分ほどを出した状態で、理世を見上げていた。特に悪びれている様子はない。

「幸平は、何か言うべきことはないかしら?」

 地べたで這う羽虫を見るように、幸平を見ている理世。そんな彼女のある一点を見て、幸平はふっと鼻で笑う。

「ボス。やっぱりアンタ、脳みそに全部の栄養を吸われてんじゃねぇか? 下から見ると、凹凸が少な――」

 理世渾身の手刀が、幸平の頭頂部に直撃したのは、その数瞬後であった。


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