第20話「escape」

 肉体的な攻撃は下品とさげす百識ひゃくしきにとって、はじめの様な存在は兎角、軽視される。基が咄嗟とっさに取った騎馬立ちの構えも、百識にとっては何ら意味のあるものではない。


 そう思われているからこそ、基の奇襲は成功する。


「シッ!」


 歯を食い縛ったまま強く息を吐き出し、相手の懐へ飛び込む。このタイミングを基は外さない。舞台に上がる必要がなくなって以降も、基はきよしから教えられた事を反復している。


 狙うのは左右の肋骨ろっこつが合わさる一点。


 ここを目掛けて渾身こんしんの体当たりを放つ事が、どれ程の危険をはらんでいるかを、基と聡子さとこを取り囲んだ百識は知らない。何より、兎の入った段ボールを持っている基は、攻撃などできないくらいに思っている。


「ガッ……!」


 受けた方は息が詰まり、悲鳴もあげられなかった。子供とはいえ、基が全体重を乗せて、その一点――胸の軟骨に打撃を加えれば、へし折る事も不可能ではない。その上、軟骨の下には肺や心臓といった重要な器官が集中している。


 血路を開いたと、基は振り返りもせずに叫ぶ。


「逃げて! 本筈もとはずさん!」


 後ろを確かめている余裕も、暇もなかった。基は自分が知っている戦い方など、高が知れていると自覚している。


 ――頭を、必死の方に切り替えるんだ!


 聡子をうばう事に専念しなければならない、と咄嗟に切り換えられるのが基の長所。



 だが、その長所は誰でも持てる訳ではない。



 背後から聞こえてきた悲鳴が、何より如実に伝えてくる。


「やだ!」


 聡子が腕を掴まれていた。聡子は、基が切り拓いた血路に飛び込む態勢ではない。躊躇ちゅうちょは例え一瞬の事であっても、襲いかかってくる側には十分だ。


 聡子の腕を掴み、引き摺ろうと引っ張る。


 しかし人の姿を取ったペテルが、アパートの部屋へ引き摺り込もうとするのだけは阻止した。


「そういう行為は、ご遠慮願います」


 万力の如き握力で男の腕を掴み、もう片方の手でオチこの胸を打つ。


「カミーラ!」


 男の手が緩んだところで聡子を取り返したペテルは、相棒へ聡子を預けた。カミーラは聡子を担いでいくには小柄だが、ペテルは基がこじ開けた血路を更に広げる役目がある。


鳥打とりうちくんもいって下さい!」


 体格と怪力にモノを言わせてこじ開け、殿の位置で振り返るペテル。


 聡子の《導》によって命を与えられたペテルは格闘の知識や経験が深いという訳ではないが、それは相手も同じ事である。


 ――同じ素人同然なら、私の未来を見る目が持つアドバンテージは高い!


 呼び出された部屋の左右を固めていただけでないのは想像に易い。ペテルが持つ未来を見る目は、「見える」のであって分かる訳ではない。視界の中に捉えている者の行動が分かるだけで、不意を突かれては宝の持ち腐れになりかねない代物だ。


 だからこの時、ペテルは基と共に清の家で過ごした何日間かが役立った。


「ふんッ」


 殴りかかってきた男を一蹴する。基が清に習った体当たりという攻撃は、素人相手ならば十二分に役立ってくれていた。


 ――殴りかかってきた腕を左手で受け流す!


 脇を完全に空けられるのだから、ペテルに殴りかかった百識は喉。胸、腹を無防備に晒してしまう。


 そして左手で相手の右手を防いだペテルは、絶好の立ち位置だ。


「ハッ!」


 ペテルが発する気合いの言葉は短い。


 基が意識している、右肩、腰、右膝を繋ぐ軸をイメージし、右足で踏み込むと共に右肩でタックルしたからだ。


 基は正確に胸骨を狙ったが、ペテルの巨体ならば狙うまでもない。


 百識は廊下を滑走させられ、何人かの仲間を巻き込んだ。


 それではペテルを狙えるが空いてしまい――、


「ぬぅッ」


 ペテルは両手を大きく広げ、壁となって基と聡子を庇う。


 放たれたのは《導》ではなく、孝介が初めて舞台に上がった時に向けられた光球。ソフトボールをぶつけられた程度の痛みしかないが、ペテルを動揺させる事が目的ならば、それで達せられる。


 ――次が本命!


 ペテルの目が、《方》に混じって《導》を放ってくる相手を見抜いた。


 小川が今、舞台を荒らしている戦法と同じである。


 配下の百識で、《方》しか使えない者を囮、牽制として、隙を見せたところで《導》を放つ。


 だがペテルには通用しない。


「カミーラ!」


 ペテルは振り返ってダッシュしながに、部屋とは反対側――即ち空を指差す。



 ――跳べ!



 暗にいっているのがというのも、カミーラには分かる。


「わかった!」


 聡子を抱きかかえたカミーラは、躊躇なく手摺りを乗り越えて宙に躍り出た。元が猫のぬいぐるみであるカミーラは、例え4階から転倒しても無傷で済むすべを身に着けている。


 しかし聡子を抱えているのを知っている基は、悲鳴をあげるしかない。


「本筈さん!」


 声が裏返る程だが、その基をペテルは抱きかかえ、


「心配ご無用。子ネコを加えたままで着地を失敗する母ネコがいますか?」


 カミーラにとって聡子は妹であり、娘でもある。


 着地の失敗は、そういう意味でもありえない。


 同じくペテルも、聡子の親友である基を抱きかかえて跳んだ。


「逃げますよ」


 どこへ? ――という質問は、誰からもない。


 聡子と基が逃げ込める場所は、一カ所だけだ。



 コンディトライ・ディアー。



 乙矢おとや真弓まゆみがいるあの場所は、二人と二匹が知る限りで最も安全な場所である。

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