第18話「これより死地へ」

 結界の《導》を発現させた陽大あきひろであったが、その顔には苦いものが走っていた。


 ――タイムラグがある!


 重圧じゅうあつ結界けっかいの広がりに対する強い違和感がそうさせた。身に着けて半年と経っていない結界である以前に、そもそも《導》を持っていなかった陽大であるからこその手間取り、そして違和感だった。


 そもそも《方》とは方向を示すもの、《導》とはその場へ導くものという程の差があるものなのだから、扱うのが難しいのは当然。


 安定して発生し続ける事も難しい段階の陽大であるから、発動の遅れはしょっちゅうといっていいのだが、それでも違和感は異常に繋がる。


 ――安定して力を発揮させられるか?


 それが可能であれば自分の《導》は必殺だ、というのが陽大の考えだ。


 効果範囲にいる全員を飲み込み、精神的なストレスをプレッシャーにされるという事態が耐え難いのは陽大が最もよく知っている。


 ――確かに、違和感がありました。


 あずさの舌打ちは、NegativeCorridorネガティブ・コリドーの発動が遅かったというだけではなく、このタイムラグこそが当主の鬼神が時間にも作用している事の証左だと確信しているからだ。


 ――違和感が、どこまでわざわいするか。


 梓がそう考えられる時間がある事こそ、結界の発現だけでなく効果にまでタイムラグがある証拠だ。


「感知を最大に!」


 陽大が声を張り上げた。


 ――フェイズ1、精神の異常!


 重圧により、感覚を狂われる効果が発動する。方向感覚、上下感覚がズレると共に、胃の痛みや吐き気をもよおす。


「助かります!」


 かいの返事は忠告に対するものよりも、陽大の重圧じゅうあつ結界けっかいばくが持つ効果へ向けられていた。


 ――この異常の中なら、厳密な感知がなければ格闘なんてできない!


 身体の不調自体は軽微というしかないが、この僅かな差が反射神経だけで格闘をこなしている当主にとっては死に至る毒である、と会は確信している。


 感知、障壁、念動は基本的な《方》であるから当主も使えるだろうが、会や陽大ほどの厳密な運用は不可能。


「なるほど」


 しかし当主の表情には焦りすら浮かんでいなかった。


 重圧結界がもたらす不調は当主を捉えている。吐き気も頭痛も起こり、方向感覚や上下感覚に起こった違和感は格闘の青銅を落とす事は間違いないのだろうが、それで焦るならば当主の座に就く程、勝ち抜けるはずもない。


 当主が踏み出した一歩は何でもない動作であったが、会や陽大にはドンと低く大きな音を立てたようにすら感じた。


 狙いは――、


つきさんを!」


 声を荒らげさせたのは、狙いを定められた陽大。


 陽大の感知も当主の動きをコマ落としのように見せたりはしなかった。


 ――俺は避けられる!


 会のそばに駆け寄った梓を一瞥する余裕すらあった陽大だったが、当主の拳を空振りさせて交叉法で必殺の一撃を叩き込む事は躊躇ちゅうちょしてしまう。


 ――掴まれるとヤバい!


 それを感知に加え、直感が伝えてきた。


 陽大が弓削から叩き込まれ、自身も心を砕いている事は攻撃力や防御力ではなく命中率なのだから、この直感は間違えない。反射神経だけで戦っている当主であっても、陽大が身に着けている知識と技術では必中でない事を確信してしまうからこそ攻撃を躊躇ためらった。


 そして空振りするくらいなりばいいが、腕を捕まれでもすれば握りつぶされる事を直感したのだから攻撃の手が緩んでしまったのだが、停止してしまった陽大へ当主の目は冷たい光を浮かべさせてしまう。


「打てばよかったんですよ」


 陽大の攻撃を掴めるかどうかなどギャンブルなのだから、と含ませているが、それが当主の本音ではない事くらい、陽大も会も分かっていた。



 重圧結界によって動きを鈍らされているとはいっても、当主はギャンブルならば勝つ事を確信して行動している。



 絶対的な自信と、それを裏打ちする実力を備えているからこそ当主なのだと、その立ち姿そのものが如実に語っていた。


「フェイズ2!」


 陽大が重圧結界を進めたのは、当主の姿に感じたプレッシャーがさせたのだろうか、それとも自身が選択したのだろうか?


 ――どうでもいい!


 よくはないのにそう思うのは、当主からのプレッシャーがさせたという事だ。


「肉体の異常!」


 頭痛が増し、胸痛も発生する。吐き気も激しさを伴い、集中力など否応なく削られて行く。


「会様……」


 増して行く苦痛に梓は会の顔を見遣った。鬼神を纏っていようといまいと、この力だけは変わらない。苦痛は会も蝕み、感知の《方》を駆使しなければ相手をハッキリと捉えにくくなっている程だ。


「大丈夫」


 耐えられない程ではないという会は、当主から視線を外していない。


 陽大への攻撃は、尚も繰り返されているのだから。


 ――そりゃ、動けるか!


 当主の攻撃を掻い潜りながら、陽大はギッと歯軋りした。会と同様に当主の動きが鈍る事を期待していたのだが、ここまででは足枷にはなっていない。


「フェイズ3――精神の崩壊!」


 自分が立っている位置すらも見失う段階に突入する。


 視界が暗転し、あらゆるものが焼失していくのだから、感知の《方》がなければ立つ事すら怪しくなる。


「勝機が来る!」


 陽大が声を嗄らした。


「正気を保て!」


 ダジャレのような言葉なってしまうが、発している陽大は必死の形相。耐えられる事と平気である事はイコールではない。陽大も感覚の異常と、絶え間なく襲いかかってくる肉体的な苦痛に晒されている。


「保てる!」


 会も喉から声を絞り出した。


 ――覚えがあるんだから!


 この苦痛をもたらす重圧は、経験してきたという思いがある。



 左目が見えない事、劣等である事、それに対するあざけり、揶揄やゆ――月家の屋敷でぶつけられてきたものだ。



 それは39人分の憎悪を一身に浴びてきた陽大が味わった屈辱と同じ。


 だが同時に思うのは、それらに耐えてきたから耐えられるのではないという事だ。


 ――


 陽大は今だからこそ思う。


 陽大が起こした事故は、逃げたからだ。


 ただ一度の防御、つたない反抗は、耐えられなくなった陽大の悲鳴だった。



 その悲鳴が起こした事故があるからこそ、陽大は重圧結界に耐えられるのだ。



 会も同じく。


 ――自分に負けるなといった事がないからこそ耐えられる。


 人の痛みや苦しみを完全に理解する事はできない。今、会が感じている苦痛と陽大が感じている苦痛が同じであるかどうかは、どうやっても証明すらできないのだから。陽大や会に対し、「自分に負けてどうする」などと声をかけられるのは、それこそ自分の足下すら見えていない愚か者という事になる。


 会が屋敷を出た事など、如実に逃げた事を表している。


 そこはルゥウシェやアヤも同じであるが、会は自分のプライドを満足させるために他者を踏み付けにしなかった分、自らの心に負い目を持っていた。


 断ち切れない未練が自分を苛む重圧であったからこそ、このプレッシャーと、そこから来る不調に耐えられる。


「フェイズ4――!」


 もう一段、陽大が上げた。ここから先は、アヤと明津の二人との戦いでも見せなかった領域だ。


「肉体の崩壊!」



 自分の座標を見失った肉体は、命すらも放棄しようとする。



 苦痛は最大限に達し、早鐘を打つ心臓すらも鼓動自体が激しい痛みとして響き、頭を締め付け、あるいは破裂させようとがなり立てる。


 胃は裏返ってしまうのかという程、ねじ上げられ、吐き気は現実に嘔吐させる。


 涙は視界を覆い、鼻腔びこうでの呼吸は阻害される。


 耳に届くのは現実の音を掻き消す幻聴。


 既に足場の認識はなく、思考すらも奪っていく。


 ここで戦えるのは、それに耐え、感知の《方》で周囲を見遣り、身体操作で身体を動かす事ができる者だけ――のはず。



 これが過去形でたかられるしかなくなる。



「何で動ける!」


 感知の《方》が陽大に見せたのは、そんな中でも拳を振るってくる当主の姿だった。

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