第6話「無価値と呼ばれる境界線」

「ありますよ」


 日曜のイラスト教室でかいに訪ねられた弓削ゆげは、あっさりと首肯した。


「こういう場合は、本より映像の方がいいでしょう」


 在庫を全て頭に入れている訳ではないが、その手の在庫は弓削の頭に入っていた。


「いくらくらいで譲っていただけますか?」


 文字通り甲斐は飛びつくのだが、その勢いが弓削を苦笑いさせた。


「タダでもいいですよ」


 弓削が在庫を全て頭に入れている訳でもないのに答えられた理由は、だったからだ。


「流石に、タダという訳にはいかないですよ……」


 会が悪いと思っているのはお世辞や遠慮ではない事も、弓削の苦笑いを強めてしまう。


「古い、貴重なものではないんですか?」


 武道やスポーツの古い文献なのだから、というのはイメージの産物だ。


「こういう本とかディスクの値段は、出回った直後が最高値なんですよ。内容に価値があるものですから、価値を持っているのは書かれている情報です。そして一般情報というものは、広まれば広まる程、価値が下がっていきます。そして求められていない情報ならば、無価値になります」


 それが市場の原理というものだ。映っている縁者が有名人であり、他に出回っていないというのであれば価値があるのだろうが、教本、教材というのであれば、特に武道など9割以上、価値を保っていられない。


「あぁ、でもビデオデッキなんかは持ってないですよね。後は弦葉つるば君に持っていってもらいます」


 そちらは内容の確認用に弓削が使っているものを貸せばいい。ただ一度や二度の事のために買い取れという程、弓削も守銭奴ではなかった。


「DVDなら持っていますけど?」


 ただ会には、何度でも苦笑いさせられる。


「ビデオテープです」


 世代ではないのだから分からなくとも仕方のない事ではあるが。


「あ、あァ……」


 会も知ってはいるが、見た事はない。


「本当に価値があるなら、ビデオテープで終わらないんですよ。DVDにもなります。でも結局、DVDになったらテープの価値はなくなるんですけどね」


 そういう訳だからタダでいいと弓削は繰り返し、スマートフォンで陽大を呼び出した。





 日曜でも休まず営業している零細の古本屋であるから、陽大あきひろが動けるのは浮間時間しかない。


「お仕事中でしたか」


 バイクにビデオデッキとテープを積んで持ってきた陽大を、会の帰宅を待っていた梓が出迎えた。


「日曜日は、買い取りの依頼が多いですから」


 それこそ一週間で最も忙しい日である頻度が高い、と陽大が告げると、梓は「それはそれは」と一礼した。


「でも弓削さんは休んでいて、イラスト教室ですか」


「だから余計に忙しいです。俺が車の運転もできればいいんですけどね」


 まだ年齢的に取れない陽大は、月に二度、この日曜だけは神名かなの負担が大きいんだと眉間に皺を寄せていた。


「内竹さんが納得してるから、いいんですけどね」


 文句も溜まっている。


「しかし必要な事なのでしょう? 弓削さんの身体操作はイメージ化が最も重要で、そのために模写や写生は有効だと聞いています。会様も、参考にしている部分が多いそうです」


「確かに、その通りだから、納得するしかないんですけどね」


 陽大も納得するしかないと心得ている。


 弓削も舞台に上がる百識であり、《方》という刃は常に研いでおかなければならない。陽大が今も日常的に身体操作を使い続けている事と同じだ。


「で、テレビは?」


「リビングです」


 繋ぎますよ、とビデオデッキを両手で持った陽大を、梓が案内する。


「あぁ、ステレオ端子があるタイプですね」


 繋げられると背面に回る陽大は、手早く繋げられていたDVDデッキを取り外した。


「DVDに落してくれれば楽だったのですけど」


 それを見ながら、梓はタダでくれるものなのだから、というのだが、これには陽大も苦い顔をさせられる。


「古本屋にダビングしたものを流せというのは、無理としかいいようがないです」


 違法行為もグレーゾーンの利用もしないのが、弓削や陽大の商売だ。


「失礼しました」


 これには梓も恐縮するしかなかった。冗談や軽口の類いではなかったが、それでも軽くいってしまったのは、陽大の職業倫理に反している。


 ――無礼な話でした。


 元より陽大は真面目な性格で、それ故に学生時代は生け贄役に、今は犯罪者として舞台に上げられる身分になってしまっている。


「繋がりましたよ。映してみます?」


「はい、お願いします」


 主に会が見るものであるが、梓も目を通しておく必要がある。


「演舞ですか」


 梓の声は呟く程度にしかならない。それ程までに画面に見入る集中力こそが、六家りっけ二十三派にじゅうさんぱの一角を占める者の振る舞いというものだろう。


 ――型は確かに、実戦で想定される動き繋げるものですが……これは……。


 使い物になるのか、と梓は首を傾げてしまう。


 弓削が不良在庫になる理由は、ここに収められた情報に価値がないからだといった。


 ――その通りでしょう。


 恐らくは使い物にならない。


「武術は――」


 陽大が口を開いたのは、梓の思考を読んだから……という訳ではない。


 梓と同じ事を思いつつも、別の結論に達しているからだ。


「武術って、元々はが主だったと思うんですよ。権力者になっても、それこそ護衛が牙を剥いてくる事もある時代、自分に残されるのは身一つだから。命を繋げる術だったのが、今、スポーツや格闘技になって、身をものから相手をものに変質してしまった」


 これは陽大自身、至近距離での格闘戦に勝機を見出しているからこそ、出せた結論かも知れない。


「身体の使い方が違いますよね。拳の突き出し方も、左足で踏み込んで右拳を打つんじゃなく、右足で踏み込んで右拳を突き出している。多分、その方が最高速は犠牲になるけど、加速が速くなるのかも? でも、今の生活様式からすると、不合理ですよね。手足が左右同じに出るなんて」


「……仰りたい事は、今と違う身体能力が根底になければ成立しないから、価値をドンドン失っていった、という事でしょうか?」


 梓の問いかけに、陽大は頷いた。


「俺にはそう見えますよ」


 たまに在庫整理中に時間が余った時、こうした文献に目を通している陽大は、独学故に間違った堪えになっている可能性はあるが、一家言ある。


「ただ、障壁で完全に動きを鋳造してしまうのなら……この動きをトレースして、更に速い攻防ができる……」


 陽大の格闘戦も、目指している点はここなのだ。



 ならば出す結論は――世間的には無価値でも、陽大のような百識ひゃくしきには計り知れない価値がある、だ。



「昔はね――」


 リビングの入り口から弓削の声がした。会を送ってきたのたろう。


「技一つに車一台分、初伝や目録に達するのに家一件分、一通りのになるまでに山一個分……みたいな価値があった時代があるらしい。昭和の半ばくらいの話らしいけれど」


 弓削が生まれる前の話であり、それもニッチな話であるから詳しく知っている話ではないのだが、そんな時代の残滓が、今、眼前にあるビデオテープだった。


「この動きをトレースできて、適切な場面で適切に動けるようになれば、まぁ、格闘戦では有利になるだろうね」


 根本持つ身体能力が違い、技術を修められる身体ではないとしても、それを可能にする《方》があるのだから――弓削の言葉は会へ届いた。


「ありがとうございます」


 弓削と陽大に頭を下げる会。


「梓、お昼が済んだら、また――」


「はい。用意します」


 ソファから立ち上がる梓は、陽大と弓削へも「お昼も一緒に如何ですか?」と水を向けた。


「それは有り難いです」


 弓削はニッと笑うが、続く言葉は……梓は余り歓迎したくなかったかも知れない。


「特に弦葉君、昼からの仕事は、俺が行こう。君は、残って練習相手になるといい」

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