第10話「酷い午後」
しかし当然といえば当然の事で、
――年季だな。
教えている
決して会を天才とは思わない。
手探りでするしかなかった弓削たちとは違うのだから、単純に習得の早さは比較するのは間違いであるし、
会は生まれてから屋敷を出るまで、一日も修練を欠かさなかったからこそ、今、吸収するのが早い。
陽大と比べる場合、差となっているのは才能ではなく、百識の修練をしてきた時間だ。
――どちらも伸びる。
会の動きを見ながら、弓削はフッと笑った。
身体操作は時間だけが必要だ。矢矯が《方》によって生活するといった通りだと、ここは弓削も認める所だった。
「キャリアの差……といってもいいでしょうか?」
そこへ
「?」
弓削が振り返ると、梓は主人である会を指し、
「会様です。基本的な事は、できているのでしょう?」
弓削が教えた《方》の障壁を自分の身体に沿って展開させ、その形を変化させる事で動かすという方法を会はスムーズに行っている。今、やっている事は簡単なストレッチ運動だが、それでも容易くできる動きではない。
「まだ筋力に頼っているところがありますけどね」
弛緩させた状態でなければ身体の柔軟性が損なわれる、という点を指摘する弓削に対し、会は「そうですか」と短く答えた。
――でも、多分、これで完成しているような?
陽大と同じように、身体操作に頼って戦うというのであれば及第点に達していないが、会には陽大とは違い、これだけに頼る必要がない。身体を弛緩させるのは関節を柔らかくし、可動範囲を広げる意味があるだけだ。
――
思っていた事が梓の顔に出ていたのか、ストレッチを繰り返していた会が動作を止め、梓の方を見つめていた。
「どうしたの?」
立ち上がる会はリストバンドで額の汗を拭いながら、梓と弓削の傍へ来た。
「今夜の夕食を考えていました」
梓は誤魔化した。もう完成しているとは、いえない言葉だ。
――お屋敷にいた時と違い、楽しそうですしね。
――足の引っ張り合いでしたしね。
梓のいう通り、六家二十三派の女子は足を引っ張り合う事が多い。石井とルゥウシェが特殊な例だ。当主になれるのは一人だけ、しかも総取りのゼロサムゲームとなれば、ライバルは少ない方が良いと考える者が多い。
――ライバルを蹴落としても、当主を斃しやすくなる訳ではないのに。
そう思いながら梓が見遣る会は、足を引っ張られても、足を引っ張る事はなかった。だからこそ梓は今も会に仕えているし……、
――だから私は、会様が好きですよ。
そんな気持ちがあるから、今、様々な事を楽しめている会の邪魔をする気はない。
「食べたいものがありますか?」
「何でもいいけど――」
梓の問いに首を傾げる会だったが、弓削が吹き出した。
「それは一番、困る回答でしょう」
弓削もよくいうし、よくいわれて困る回答だ。
しかし梓まで「その通りです」というと、会は慌てて頭と突き出した手を振った。
「いいえ、何でもいいけどの続きがあるんですよ! 接頭語だけを取らないで下さい」
この言葉を接頭語というかどうかはさておき、こういう会の顔こそを梓は今まで滅多に見られなかった。
「じゃあ、何ですか?」
改めて梓が訊ねると、会はポンと手を打ち、
「お鍋。シチューとか、カレーとか、みんなで食べられるもの」
その言葉の意味は、できれば皆で食べたいという事だ。
「弓削さんも、
人との距離感がおかしいといわれる会であるからこそ出せた声だった。
「本当に
しかし
「孝介くんと仁和さんは兎も角、矢矯さんが呼べないな」
弓削も所在なさそうに視線を逸らしていた。方法は違うとも、同じく身体操作を得意とする矢矯と弓削だが、会の教育係に選ばれたのは弓削だ。矢矯が面白いはずもなく、またそうでなくとも今、矢矯は不安定な状態だ。
持病のために痛飲している矢矯は、順番待ちの列でスマートフォンに視線を落としていた。
表示させているのは、もうずっと前に遣り取りが途絶えてしまった
――シフォンケーキ、いつ持って帰りますか?
菓子作りが趣味で、得意だった美星からのメッセージに、矢矯は「食い切れないですよ」と返事していた。
――張り合いのない相手だっただろうな。
いつもの感想が胸を過った所で、後ろから中年の声が飛んできた。
「前、行けよ」
列が進んでいた事に気付いていなかった矢矯の眼前には空間ができており、それに対する苛立ちだろうか。
「すみません」
一言、口にした矢矯だが、独り言くらいの声色では聞こえたのか聞こえていないのか分からない。
――仇……仇か。
メッセージの文字を見ているはずなのに、矢矯は眼前に美星の姿が浮かんでいるような気がし、続いて見ていない最期を思い浮かべてしまう。
――
孝介に敗れた男が、どうやって美星を
――仇を取らせろよ。
メッセンジャーアプリを切り替えた矢矯は、そんなメッセージを安土へと送ろうとしたが、
「前、行け!」
背後から、また中年男の声が飛んできた。
「何回も何回もいわせるな。ちゃんと前を見てろ」
苛立ちに任せた言葉に対し、矢矯も苛立ちに任せた。
「そんなに急ぐなら、代わってやる。後ろに行くから、とっとと行け」
「おお、後ろ行け!」
これは売り言葉に買い言葉というもので、中年男と並んで立っていた男の妻らしい女が「止めなさいよ」と止めるのだが、
「こっちは悪くないだろうが」
中年男は憤然とした態度で、と強くフンッと鼻を鳴らすだけだ。
ただ苛立ちで声が大きくなっており、矢矯の耳にも届く。
「声を出す命令は自分の脳みそから出てるのに、人のせいにするくらいに悪いんだろう。用事があるのは、精神科と脳外科か?」
今度は矢矯も独り言の大きさではない。
「何だと!?」
振り向く中年男であったが、ここは命の遣り取りをする舞台に立っている矢矯だ。
「前向いてろって自分でいったんだから、前向いてろ!」
荒れていた――今後の矢矯を表すかのように。
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