第2話「爽やかな土曜・早朝」

 あずさの心配を余所よそに、かいの日常は月家つきけの屋敷で過ごしていた時とは真逆となっていた。


「ふぅ……」


 パスから降りた会は、両手で持ったトートバッグに深呼吸した。梓が丈夫さを重視して、トートバッグの素材に帆布はんぷを選んだのは正解だった。36色の色えんぴつ、スケッチブック、タブレット、定着材、膨れあがったペンケースを入れると、ギリギリのサイズだ。そのペンケースはトートバッグ以上にパンパンで、鉛筆削り、消しゴム、鉛筆、ゲルインクのボールペン、水性サインペンを纏めて入れている。


 フィジカルでも優れている会であるから、どれだけパンパンになったトートバッグでも重いなどという事はないのだが、梓が厳しい家計の中から工面してくれた事を知っているだけに、乱暴な扱いはできない。


 そして画材を粗雑に扱えないといえば、雑居ビルの前に横付けされた箱バンから降りてきた二人もそうだった。


 孝介こうすけ弓削ゆげだ。


 箱バンの運転席には神名かなが、助手席には仁和になが座っている。神名は弓削の箱バンを借りて練習、仁和は孝介の送り迎えついでに神名とドライブというところか。


「こんにちは」


 そんな一団へ買いが頭を下げ、挨拶した。


 予期せぬ挨拶に孝介と弓削が驚いた顔を振り向かせたが、キャスケット帽を目深に被り、目元に影が落ちているが、左目を覆っている眼帯は目立つ。


「こんにちは。画材、揃えたんですね」


 会のトートバッグを見て、弓削がフッと笑った。


「はい。色えんぴつ、カラーペン、タブレットも」


 手本もタブレットに取り込み、アプリケーションでグリッド線を引いた、と画面を示す会。


「10インチのタブレットって、高かっただろう?」


 弓削よりも孝介が驚いていた。


 ――俺も勧められてるけど、手が出せないんだぞ……。


 簡単にグリッド線が、しかも好きな数の方眼が引ける事は、模写するには強い味方だ。


「中古で8000円。OSの更新も終了しちゃってる型落ちだから、安いのよ」


 会は安いというが、それでも卒業まで、両親が遺してくれた生活を維持する事を理由に舞台へと上がっている孝介としては、その8000円が高い。


「手が出ねェよ……」


 肩を落とし、そして項垂れる孝介であったが、項垂れたのは箱バンの助手席にいる姉へ目を向けるためだ。


「……」


 車外の事であるが、感知の《方》を常に使っている仁和は話が聞こえている。


 答えは――、


「ばーつ」


 左右の手を交差させ、顔を背けた。スマートフォンの使用量と、このイラスト教室の月謝で小遣いはカツカツだ。


 家計から出すには8000円は高い。


「お誕生日……とか?」


 運転席の神名が助け船を出すが、仁和はふんと態とらしく鼻を鳴らし、


「孝介の誕生日は3月です」


 半年以上先なのだ。


「……なるほど」


 神名も心得ていた。


 心得ていたが――、


「10インチのタブレットなら、中古で買ったら8000円だけど、売るなら4200円ってところだけど……どう? 5000円」


 人件費を考えた場合、完全に赤字になる額であるが、神名にとって仁和と孝介は、聡子を守る舞台以来、戦友、親友のような関係だ。


 ――これくらい、弓削さんだって許してくれるでしょう。


 口には出さない神名だが、その態度も車外にいる弓削の感知で察知できる。


「まぁ、それくらいのディスカウントは、まぁ、いいですよ」


「はい?」


 孝介は感知を厳密にしていなかったため、感じ取る事はできなかったようだが。


「いや、商売の話さ。近々、お姉さんからプレゼントがあるかも知れないね」


 その言葉は、感知など用いる必要がない。


「マジ!?」


 箱バンを振り返る孝介だったが、既に神名が箱バンを発車させていた。


「型落ちだから、そろそろ対応していないアプリケーションなんかはあるけど、手本にするイラストにグリッド線を表示させるとかなら、全然、問題なく使えるはずだから」


 窓から入ってくる風を髪に感じながら、神名は軽く目を細めた。初夏から夏へと移ろうとしている風は爽やかの一言で、いよいよドライブが楽しい季節になった事を告げていた。


「ありがとうございます~」


 窓の外へ顔を向けて、同じく目を細めている仁和も同様に感じていた。4月生まれの仁和が免許を取れるのは、まだ1年近く待たなければならないが、この爽快感は自分も運転してみたいという欲求を生む。


「私の練習に付き合ってくれてるんだから、それで穴埋め……って事にしてもらえる?」


「穴埋めなんて……」


 仁和は苦笑いして神名へと顔を戻した。


内竹うちだけさんは、この前の舞台でも私が負けて崖っぷちだったのを、鳥打とりうちくんと二人で引き戻してくれましたから……」


 それが今、二人が連んでいる理由だ。


 馬が合うという言葉の意味は、ちゃんと理解しているとは言い難い二人であるが、連むにはいい相手だと思えている。


「うん、ちょっと本屋の駐車場でも入って、休憩しようか」


 麻痺の残る身体を《方》によって動かしている神名にとって、車の運転は重労働だった。


「はい。丁度、自販機もありますよね。何か飲みましょう」


 自動販売機の前に一台分、空いているスペースを指差した仁和に、神名は「そうね」と返して、ハザードライブを点灯させた。後続車に停車を知らせようとしたのだが――、


「何か……近い……」


 煽りハンドルを入れ、駐車スペースにできるだけ並行に並べられるようにするのだが、それをどう思ったのか、後続車は接近してきたのだ。


「……もう……」


 窓を開け、下がってくれとジェスチャーする神名だが、後続車のドライバーはニタニタとしか表現できない下卑た笑みを浮かべて、神名の方など見ていない。助手席のはすな女に笑いかけているだけだ。


「もう下がったらいいんじゃないですか?」


 真っ直ぐ下がるだけだろう、と仁和がいったのは、この後、起きる大きな事件の引き金だ。


 後続車の運転席にいる男の名は、鳥飼とりかい雄介ゆうすけという。

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