第9話「追い掛けてくる運命」

 カルチャースクールや習い事で、楽器や絵画のような芸術系はポピュラーだ。

 そんな絵画教室の中でも、イラスト、特にコミックイラストとなれば数は絞られるが。


 人工島ができた当時からある雑居ビルの一角にて、あずさが探してきたコミックイラスト教室が開かれている。


 古いエレベータに乗るかいの手には、帆布はんぷ製のトートバッグ。厚手の4号帆布を使用したトートバッグは、頑丈ながらもファッション性を失わせていないセンスのある梓の手製だった。


 トートバッグの中身は100円ショップで買ってきたスケッチプックと鉛筆だ。


 ――今時、アナログなんて……。


 歓迎されるのかと首を傾げる会であるが、ノックして開けたドアの向こうでもアナログ画材を使っている者がいる。


「カラーマーカーも買っておいた方がいいですね」


 その一人、弓削ゆげが講師から指摘されていた。


「いよいよ、オフホワイトで押さえてもダメくらいになってきましたねェ」


 自嘲気味にいう弓削は、ケント紙の表面を見て苦笑いしていた。異図して塗り残すという事ができない弓削は、兎に角、重ねて塗る。それでは濃くする事は兎も角、薄くする方は難しい。


「白と、金や銀もあると便利です」


 どれも弓削が厚く塗ってしまう箇所だ。


「なるほど」


 メモ帳を広げた弓削は、次から用意してくるつもりなのだろう。


「道具が順調にアップデートされていきますね」


 書く手を止めた孝介こうすけが笑いかけようと移した視界に、ドアノブに手を掛けたまま立っている会が入った。


「あの……」


 弓削と話をしている講師を呼んだ孝介は、会を指した。


「メールをくれた方ですか?」


 少し慌てた様子で講師は駆け寄った。


「はい。つきと申します」


 一礼する会に、講師は「こちらへ」と席を勧めた。長机に椅子を並べただけの席であるが、長机はそれぞれを接触させていない、椅子はパイプ椅子ではなく、しっかりと安定した丸椅子を使っている。背もたれがない事は疲れやすいというデメリットもあるが、後ろを通る時も肘や膝がぶつかりにくいメリットもある。


「メールでは、鉛筆画を希望したいという事でしたね」


「はい。身に付くかどうか分からないので、本格的な道具はお金が……」


 事実だ。中古のタブレットくらいは予算内だが、液晶タブレットやハイエンドパソコンは「合いませんでした」で止めてしまうには、あまりにも高価だ。


「そうですか」


 講師はにっこり笑いながら、作業を再開した弓削と孝介に視線を向ける。


「最近、私の教室で鉛筆画を選ぶ人が増えてきました」


 それ程、大規模な教室ではなく、今、通ってきている人数も会を入れて6人なのだが、その内、半数が画材に鉛筆を選んでいた。


「初心者どころか、ずぶの素人からのスタートでしたから、私は」


 弓削は自嘲気味に笑いながら、鉛筆やシャープペンシルの入ったペンケースを手に取って見せた。そのペンケースも金属製の、小学生の頃から使っている中蓋なかぶたの入ったカンペンケースだ。


「俺は経済上の理由です」


 孝介は鉛筆のモノクロであるが、その理由は誤魔化さなくなっていた。


「液タブとかパソコンとか高い……」


 孝介こそ裕福ではない。舞台に上がっている理由は最低限、卒業までの生活を維持するためだ。余暇に使える程、金が唸っている事など有り得ない。


「でもアナログはアナログで、お金かかりますけどね」


 弓削はカンペンケースと色えんぴつに視線を落とし、どこか楽しそうな印象を受ける苦笑いを浮かべていた。「楽しい」と「苦笑い」は相反する者であるが、そんな矛盾を抱え込むのが趣味だ。


「弓削さんは重ね塗りするし、筆圧が強いから、100均のスケッチブックじゃダメですね。ちゃんとしたケント紙を使わないとダメですしね」


 仕方ないと講師は苦笑いしていた。ケント紙のスケッチブックは、それなりの値段であるし、弓削が使っている色えんぴつとて1本200円くらいする。いずれ腕を上げれば100均の画材でも自在に使えるようになるのだろうが、今の弓削では100均のスケッチブックに書いたら色が乗らなくなるし、下絵を各段階で消しゴムをかけ過ぎて破れてしまうことすらある。


 しかしアナログ画材を使っている者が半数もいる教室は、会にとってハードルは下がる。


「アナログも、大丈夫なんですね」


 安堵した様子を見せる会。


「はい、大歓迎ですよ」


 講師はにっこり笑って頷く。


「いくつか質問させて下さい。自由な教室ですが、無方針でダラダラするのもどうかと思いますから」


 とはいえ、会は梓がどういう内容で送ったのかは知らないのだが。


「全く絵を描いた事がないとメールにありましたが、何故、コミックイラストを書こうと思ったんですか?」


「あ、最近、マンガをよく読むので……」


 会の回答はお茶を濁したようなものだったが、それも嘘ではない。


「なるほど。作者はどなたですか?」


「えっと……」


 そのマンガもトートバッグに入っている。


「ああ、なるほど」


 貸してくれと手を伸ばした講師は知らないマンガ家だった。


「なら、方眼ほうがん模写もしゃからですね」


「方眼模写……?」


 よく分かっていない会が首を傾げると、そこへ弓削がタブレットを示した。


「これですよ」


 お絵かきアプリを起動させている画面には、カメラで取ったかスキャナで読み込ませたのか、イラスト本に収録されている立ち絵が表示されていた。


「グリッド線を引くと、模写がしやすくなるんです」


「へェ」


 知らなかったと目を丸くする会は、絵には苦手意識があった。小学校でも中学校でも図画、美術の授業はあったのだが、馴染めなかった記憶しかない。


「初心者が最初にする事です」


 講師は「えと」と前置きした後、自分のタブレットで会が持ってきたマンガを写真に撮り、それをプリンタで印刷する。


「タブレットがあれば楽なんですが、今は印刷したものにグリッド線を引きましょうか」


「はい」


 恐らく会にイラスト教室は合っていた。今まで全く身を置いていなかった世界――次期当主を狙い、足の引っ張り合いしながら修練を重ねていく事とは無縁の世界にいて、マンガやイラストで落ち着ける事ができたのだから。


 ――梓に感謝。


 そう思いながら、写真とスケッチブックにグリッド線を引いた会は、最初の線を引いた時。顔に笑みを浮かべていた。


 梓は慧眼けいがんだ、と思ったのだった。


 だが梓に慧眼があろうと、未来を見通す目ではないし、また本質を見抜く力は欠けていた。


 人の興味は、子供の頃、やっていた事、やりたかった事に支配される。


 会が子供の頃、やっていた事は?


 やりたかった事は?



 この教室で会と同じ画材を使っている二人は、百識ひゃくしきなのだ――。



 いずれ顕在化けんざいかするであろう運命は、ここをスタートとする。

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