第9章「隻眼の月・誰がために君は泣く」
第1話「都落ちの朝」
南は人工島と海を隔てた
その山地に一軒の豪邸が存在する。
農業の根幹を支える水利権は下流よりも上流側が強く、それを既得権として鎌倉、室町の時代から存在し続けているという家だ。
ただし、その
しかし六家二十三派の屋敷であるから、そこに住む百識の朝は早い。睡眠や食事など、人が生きていく上で必要な時間すらも贅沢な時間だと感じるのが、ただ能力のみに軸足を置く六家二十三派だ。
そんな秒刻みの屋敷にあって、その一室だけは静かな朝を迎えていた。
しかし部屋の主が望んだ静けさではないが。
「……」
少女が溜息交じりに見下ろしているのは旅行鞄。
今日、この屋敷から出て行く事になっていた。
長身であるが、その顔立ちは高校生くらいであるから、大きめとはいえ、旅行鞄一つに荷物が纏まってしまうのは不自然なのだが、それが六家二十三派の女だ。生きる事の全てが――比喩ではなく、
彼女が屋敷を去る理由は――、
「
ノックの音と共に声を掛けられたが、ノブへと伸ばした手は空を切ってしまう。
左目がないのだ。
死角へ伸ばした手は、容易に空振りしてしまう。
「ふん」
苦笑いしつつドアに向き直り、改めてドアノブを回した。
「おはようございます」
部屋の外にいた少女がお辞儀した。こちらも旅支度ができている。
従者然としている少女は顔を上げると、スッと会の髪を手にした櫛でといた。
「お支度ができているのでしたら、そろそろ」
そういって手渡すのは、若干、サイズの大きなキャスケット帽。眼帯で覆われた左目を隠すためだ。
「うん」
斜めに被った会は旅行鞄を持とうとするのだが、先回りした従者が先に持ち上げ、肩に掛けた。
「行きましょう」
長身の従者でも、旅行鞄二つは如何にも重そうに見えてしまうのだが、そんな事は言葉にも雰囲気にも出さない。
「うん」
ドアは会が閉めた。
長い廊下と階段を歩けば、そこかしこから嘲笑が向けられる。
その内容は異口同音だ。
「やっと出て行く決心が付いたんだ」
当主の見込みなどないのに、ずっとぶら下がり続けてきた会に対する侮蔑だった。
片方の目が盲目であろうとも、百識ならば感知ができるのだからハンデにならない、とはいえない。事実、会の感知は弱く、先程のように死角へ手を伸ばしたら空振りすることもあるのだから。
その巨大すぎるハンデを会が背負ったのは、最近ではない。
ずっと昔、まだ目が開いたか開かないかくらいの頃、病気に伴う発熱のせいだった。眼球が溶けてしまったというのが直接の原因だと聞かされている。右目が残ったのも幸運だ。
「見込みなんてなかったのに」
クスクス笑いとヒソヒソ声は、静かな朝にはよく目立った。無声音は声を高くし、この場合は聞こえやすくなる。その上、ストレスのかかっている会は過敏になっており、その高い音が神経に障った。
「えェ、えェ、出て行きますよ」
対抗するように、会も大声を出した。
それも思ったような効果は上げない。
「こわーい」
クスクス笑いとヒソヒソ声は、益々、増えるばかりだ。
「こわーい、こわーい」
何より、ここで大声を出したところで、負け犬の遠吠えに過ぎない。
「ああ、怖い怖い」
嘲笑が渦を巻いて会へと伸びてくる。
「会様」
そこへ従者が声だけでなく、手を伸ばして背を押した。
「行きましょう。もう、関わりのない事です」
無視すればいいし、無視するしかない。
「その通りよ、
しかし無視はさせまいと、声が今度は従者へ向かう。
従者――梓も鼻白んで振り向きそうになるが、却ってそれが会を思いとどまらせた。
「……うん」
会はキャスケット帽を目深に被り、廊下、階段、また廊下と歩き、玄関から出て行く。
正門まで、また長いのだが、屋敷が見渡せる位置まで来たところで会は屋敷を振り向いた。
「会様?」
梓は不思議そうに首を傾げるが、その顔は会の視界には入らない。
会の視界に入るのは、窓から感じる、未だ去って行く負け犬を見る目を向けてくる
「今日の事は、忘れさせない。私は、絶対に戻ってくるから」
ギッと不愉快な音を立てたのは、会が歯軋りした音だ。
この日、北県から人工島へ、二人の少女が渡った。
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