盤外
第17話「魔剣士が明日、見る月は美しいでしょう――4対7」
虫の息ではあったが、仁和は命を繋げていた。
とはいえ――、
「もう一人!?」
――
この舞台で死人が出ない事は希だ。陽大に続いて仁和までもが命を繋ぐなど、通常では考えられない事態だった。
だが厄介だと無視する事は、流石にできない。
「連れてきて!」
ストレッチャーを入れろという声も、心なしか大きくなっていた。
「ッ」
運び込まれてきた仁和の姿は、一瞥しても分かる程、酷かった。
――喉か。
ルゥウシェが受けた傷と同じ所を狙われたのかとも思ったが、偶然だろう。剣が邪魔をして助かったというが、軽傷で済む傷ではなかった。
「並べて!」
縫合などの処置を行う時間が惜しかった。全てを《方》で賄うには荷が重いかも知れないが、陽大へ《方》を使いつつ、仁和を治療する事は不可能だ。
――仁和ちゃんなら、まだ何とかなる。
高を括り、陽大と仁和に《方を割り振る。とはいえ、陽大の方は単独でも快復させられるかどうか微妙なところだ。仁和が入る事で負担は増す。
負担は――、
「!?」
両手を翳した女医は顔を顰めさせられた。パンッと乾いた音がしたかと思うと、視界を赤く染められたのだった。
「何……?」
看護師に顔を拭かせ、戻らせた視界に入ってきたものは、血に染まった仁和の姿。あの乾いた音は、肩の傷が爆裂した音だった。
「呪詛か」
美星の剣から流し込まれた石井の《導》が、仁和が戦闘不能になった事で勢いを増して暴れているからだ。暴れている呪詛が傷つけられた肩の傷を破裂させたのだった。
「輸血!」
女医が一層、大きな声を張り上げた。大きな動脈が破裂させられた訳ではないが、これでは仁和も快復させる事も難しくなった。
――まったく!
歯噛みする女医であったが、苛立ちのピークはまだまだ先だ。
騒がしさを増していく中、女医のスマートフォンがブッブー、ブブと振動し、IMクライアントの着信を告げた。
それこそが苛立ちと焦燥感をピークに達させてしまう報告が載っている。
――
「!」
内容が内容だけに、女医の目も何を置いても真っ先に向けられる。
矢矯の所在は……、
――市立病院へ緊急搬送されています。
絶望的な状況だった。
矢矯の生活リズムは変えられない。仕事を放り出し、舞台の事だけに集中すれば良いという身分でないのは、弓削や神名と同じだ。
時間を作り出すための早出は恒常的になっており、また服薬は習慣になってしまっている。
――クソッ。
何を原因としているのかも分からない胸痛に顔を歪めて耐えつつ、矢矯はスマートフォンに時間を入力していく。服薬の間隔は厳密にしなければ、数も種類も増えてしまっている。
――6時間おき、8時間おき、12時間おき、一日に2回まで1錠ずつ、3回まで2錠ずつ……。
急いでいると、タップミスも思い違いも起こる。
――いや、無水カフェインは種類を変えた。1回2錠、一日2回までだ。
消す。
消して、もう一度、打ち直そうとしたところで――、
「矢矯!」
唐突にぶつけられた声は、管理職からだった。
「はい」
身体を震わせながら返事をした矢矯は、反射的に立ち上がっていた。それだけ苦手な相手だった。
「お前、いっつもスマホをポチポチやってるの、何? 何やってる?」
短髪、髭、長身となれば、それなりの威圧感があり、技術職員を纏める管理職であるから、考え方は
そして魔が悪いと言えば、矢矯の気性も関わる。卓越した《方》を持ち、舞台では誰にも後れを取らない矢矯であるから、その程度の威圧は平気かといえば、それ程でもない。
――何なんだ……。
舞台の上であれば、《方》でも何でも使って物理的に黙らせる事ができるが、現実社会でそれは出来ない相談だ。黙ってくれる――感覚としては、「黙っていただける」まで待つ事は、それだけで激しいストレスとなる。
「服薬の時間管理です。種類が多いので――」
それは正直な所であるが、管理職は「ハッハ」と態とらしく笑うと、
「そうは見えんなァ」
冗談めかした訳ではない。
「どうせゲームか何かだろう! 仕事中は仕事に集中しろ!」
そういうと管理職の男は、コピーミスされた紙の束と鉛筆を掴み、矢矯の前に投げつける。
「時間の管理なら、メモ書きでも何でもできるだろうか!」
矢矯の息を詰まらせる怒声。
「投書が来てんだよ、投書。見えるか!?」
追撃のように差し出されるのは、メールを印刷したコピー用紙。
「読め! 声に出して!」
「……職員が、仕事中にスマホでゲームに熱中している。その職員は、朝も早くから出勤し、常識外れの行動ばかり。電気代だってタダじゃないんですよ」
名指しされている訳ではないが、この行動から推測される者は矢矯しかいない。
「鞄の中にでもしまってろ!」
管理職としては、こんな投書が来る事などあってはならないのだろう。そこは矢矯も理解できるし、理解するしかない。だが紙と鉛筆で、この種類、量を管理しろというのは無茶な話だ。
――無茶な話……。
それこそが、小川が矢矯は排除できるとした策だ。
小川は調べれば分かる、と笑うだろう。普段から無茶な勤務をしている矢矯が嫌われている事と、この管理職の気性の事。
ならばメールを1通、送れば、この管理職が勝手に矢矯を追い詰めてくれるのだ、と。
そして3日あれば、矢矯は崩れる。特にカフェインは劇薬に含まれのだから。
――6時間おき、8時間おき、12時間おき、一日に2回まで1錠ずつ、3回まで2錠ずつ……。無水カフェインは1回2錠、一日3回まで……。
取り消し線と上書きで黒くなってしまったメモは、時間管理ができていない事を示している。
無水カフェインを炭酸飲料で喉に流し込み、その日の夕方だ。
矢矯の身体は、容易く全ての感覚を失った。
前後左右上下の感覚が消え、自らの座標を失ってしまっては、身体的には一般人と何ら変わる事のない矢矯は倒れるしかない。
――ダメだ……これ……。
床に倒れたはずなのに、矢矯には吹き飛ばされ、壁に激突したように感じられていた。ジタバタと藻掻くのは、しがみつかなければ落下してしまう恐怖があるからだ。いや、恐怖というならば、落下よりも倒れた事よりも、もっと強いものがある。
――今夜だぞ……今夜、舞台があるのに……。
そこに立てない事こそ、矢矯にとっては最大の恐怖だ。
孝介と仁和を助ける事こそが、矢矯のアイデンティティだ。
だが感覚の次に消失するのは、意識だった。
矢矯不参加――4対7。
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