第15話「心臓へ向かう折れた針」

「電話口では何ですから、落ち着いて話せる場所に移りましょう。サム姉さんというお店、ご存じですか? フレンチトーストが美味しいと評判のカフェですが」


 弓削ゆげからの電話に、安土あづちは軽い口調で答えた。


 無論、心が軽い訳ではない。


 思い出すのは、孝介がそんな状況に陥った直後に受けた、姉からの電話だ。


 女医からの連絡を受けた時、安土は面食らった顔を見せたものの、取り乱すような事はなかった。


 女医と交わした言葉は、ほぼ覚えている。


 ――まぁ、そうなる可能性はあると思っていました。


 女医からの電話に対し、落ち着いた口調で安土は受け答えしていた。


 ――弓削さんと的場くんが顔見知りになった時点で、この可能性は考えていました。


 想定しておくのは当然だ。念動と障壁は相性の良い《方》であるから、孝介が更なる高みへと考えれば、弓削に教えを請う事も考えられる。想像には易い。


 ――それに弓削さんも焼き場さんも、珍しい事じゃありません。


 口を利いた事がない、顔を直に合わせた事すら希な相手に対し、どうしようもない敵愾心てきがいしん――しかも弓削の場合、敵愾心とも嫉妬ともいえないような小さな事に過ぎない――を抱いてしまう事もあるし、矢矯のように蔑ろにされたと感じてしまう事も、よくある話だ。


 ――力と比例した人格を持って欲しいと思うのは、仕方のない事だけど、よくある話だと分かってます。


 世間には矢矯や弓削を面倒臭い男だと思う者が多いだろうが、安土は違う。


 ――よくある話なんだから、よくある治め方があります。でも……。


 そこで安土は一呼吸、置いた。


 ――知らせてくれて、ありがとう。


 礼をいう。形ばかりではない。こういう事は、早く知る方がいいに決まっている。



 特にこれからは、実に不愉快な事が起きると予測できているだけに。



 小川が情報を売り買いしたと掴んでいた。


 ――土師はじ紀子みちこ、ですか……。


 世話人同士の世界は狭い。紀子の名前に辿り着くのは用意であるし、そういう細かな作業を延々と繰り返す事を安土自身が「生命線」としている。


 ――何かの足しになったのなら、よかったわ。


 女医はそういって電話を切った。


 ――さて……。


 安土がメモリから呼び出す番号は、矢矯と弓削以外になかった。





 弓削は自分の過去を話す事で孝介と陽大の反目を阻止し、孝介を矢作へと返したのだかが、矢矯はどうだっただろうか?


「……」


 弓削とは真逆の行動を取っていた。


 翌朝、女医が用意してくれた病室で目覚めた矢矯は、どうしても仕事に行く気にはなれず、職場へ有給休暇の連絡をした。


 狭いベッドに横たわりながらスマートフォンを確認すると、安土からの着信があった。


 ――後でいい。


 スマートフォンをマナーモードにしてベッドの上で寝返りを打つ。バイブも切れば、起こされる事もない。


 とはいえ、長い時間、眠っていられないのが矢矯であるから、昼過ぎには目を覚ます事になるが。


 そして寝起きに感じる事はもう一つ。


 頭痛と胸痛だ。胸痛の原因は分かっている。逆流性食道炎か、心臓神経症か。どちらにせよ、放っておくしかないものだ。だが頭痛は薬を持っている。


「どっちだよ、これ」


 二種類ある薬を取り出し、頭痛の痛みから声を荒らげた。筋弛緩系鎮痛剤と、消炎鎮痛剤だ。どちらも飲むという訳にはいかない。胸痛の原因になっている逆流性食道炎を、鎮痛剤は悪化させる。


 ――もういい。


 消炎鎮痛剤を飲んだところで、部屋をノックする音が耳に飛び込んでくる。


「……何だよ、もう」


 矢矯は吐き捨てると、時計に視線を向けた。午後1時半。まだ舞台が始まる時間ではないのだから苛立ちも一入だ。まだ病室が必要になる事もないだろうに、と無理を言って借りている事など棚に上げて、苛立ちをそのまま怒気にしてしまう。


 しかし病室の戸を開けてみると、予想していた舞台関係者の顔はなく、見知った仁和になの姿があった。


「仁和さん……?」


 驚いた顔をする矢矯はカレンダーを思い出す。


 今日は平日だ。


「学校は?」


 頭痛薬が効かない、とこめかみの辺りを抑えながら、矢矯は顰めっ面を仁和へ向けていた。


「早退しました。孝介が休んだので……」


「……ああ」


 孝介は孝介の病室の方を向きながら、口の中で小さく舌打ちした。


「休むより、無理なら早退する方が良いだろうに……」


 基に乙矢がいった事を、矢矯も同じく思っていた。直接、孝介を調べた矢矯は、あの呪詛は相当な苦しみを与えるだろうと分かっているが、最初から諦めていては成長も何もないと矢矯は想っている。


「孝介、何があったんです? 身体が悪いのは分かるんですけど、何がどうなってるのかわからなくて……」


「……」


 矢矯も側頭はできなかった。仁和の声に滲むのは、蚊帳の外に置かれているという不満よりも、蚊帳の外に置かれてしまって、大切に弟の滋養法が何も入ってみない事への不安だ。


 ならば今の状況を告げる事は、プラスになるのかマイナスになるのか分からない。


 ――いや……。


 矢矯の決断は、止まらない頭痛に苛立ったままなのだから、正しいのか誤っているのか分からない。



 矢矯は教える事を決断した。



「俺や安土さんを抜きにして、舞台に立った」


「え!?」


 仁和は声を裏返した。孝介の実力は、初戦に比べれば格段に上がったと思っているが、それでも仁和と互角程度。孝介は仁和の倍はできなければならないという矢矯の言葉を覚えている分、その衝撃は奈落へ突き落とす程だった。


「結果は……?」


「勝った」


 それは菊間でも泣く分かるのだから、仁和の胸を撫で下ろす事にはならない。


「勝った……けど……?」


 どんな言葉が隠れているのだろうか、と仁和が話を先へ進めた。


「厄介な呪詛をもらったみたいだった。ああ、それを防ぐために、弓削さんに障壁を習いに行ったのか」


「弓削さんのところへは、アルバイトだって……。本当は《方》を習いに?」


 仁和は大きく溜息を吐いた。


「そんなの、先にベクターさんに相談しないと……」


 何故、そんな事をしたんだという言葉は、誰へ向けられた訳でもなかった。


「ベクターさんだって、手くらい……」


「まぁ……」


 矢矯は語尾を曖昧にしてしまうのだが、


「あった」



 障壁はなくとも、念動にも呪詛の苦痛を防ぐ使い方があるのだ。



「ちょっと、ごめん」


 矢矯はそういうと、仁和の額に手を翳す。送り込むのは、矢矯の念動で孝介を冒した呪詛の動きを再現する《方》だ。


「!」


 矢矯の念動は身体から離れれば極端に弱くなるため、完全再現とは行かないのだが、強さ以外は再現している。


「これの、百倍は苦しいと思うけれど、こう使うんだ」


 もう一つ――いや、二つの念動を送り込む。


 それに対する説明は、言葉ではしなかった。


 ただ仁和が身体の中で覚えた感覚は、孝介がやったように呪詛の動きを念動で抑え込むようなものではなかった。



 ――渦……。



「渦が二つ……」


 その効果は、棒立ちになっていても分かった。


「じゃあ、これを孝介に教えたら!」


 声を弾ませる仁和だったが、矢矯はフッと苦笑いを浮かべ、手を下ろした。


「弓削さんから、何か習ってる。俺と弓削さんは、よくにた使い方をするというからね。多分、覚えてくるよ」


 出任せだ。矢矯は、この方法は自分しか知らないと思っている。


「……」


 身体に残る残滓を感じ取りながら、仁和は深呼吸を繰り返している矢矯に目を向けた。


 ――やっぱり、蚊帳の外に出されると、ベクターさんは傷つくに決まっている。


 孝介の不明に対し、静かに怒りがこみ上げてくるのを感じた。


 ――私たちを、最初に助けてくれたののは、ベクターさんでしょう!


 仁和も溜息を吐きたくなるのだが、抑えた。


「ベクターさん、お昼はまだですよね? もう時間が時間だから、軽く食べられるカフェとか、どうですか? 私、知ってるお店があるんです」


「ん?」


 顔を向けてきた矢矯に、仁和が告げた店は――、


「サム姉さんってカフェで、フレンチトーストが美味しいんです」


 一悶着ありそうな展開だ。

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