第5話「世話人兼百識の女」

 命を賭けるに十分な金額がいくらか、と問われれば、人それぞれ答えが違うだろう。


 少なくとも、孝介こうすけとこの女は違う。


 土師はじ紀子みちこ六家りっけ二十三派にじゅうさんぱの一つである風家ふうけ土師派はじはの百識であるが、同時に世話人でもある。


 珍しい話ではない。世話人を専門としている小川や安土あづちのような者と、舞台に上がる百識と世話人を兼務している紀子のような者の比率は、5対5ではないが整った数字だ。寧ろ運営側としては、秘密保持の点からいって、世話人自らが舞台に上がる事は歓迎すべき事でもある。


 その紀子にとって命を賭けられる金額は、孝介のように高くはない。時給1200円、年2085時間の年収250万円で、20歳から60歳までの40年間で稼げる1億円が最低ラインなどとは思っていない。



 1000万もくれるならば、喜んで賭ける。



 安いとはいえないが、その実、1000万は特別ともいえない。この人工島でも、弓削の自宅は土地代と建設費で4800万も必要だった。その5分の1ならば、皆、生涯で一度は見る額だからだ。


 だが紀子は、なかなかお目にかかれない額だと思っている。


 だから世話人として死地に赴かせる事もあれば、自ら死地に赴く事もある。


 30代後半の紀子は、生まれた時期が悪かったと思う。学生時代は受験戦争、卒業し、就職する頃は超氷河期といわれた世代の真っ只中。


 ブラックといわれる事の多い業界、職種で揉まれる中、やっと見つけたと思っていた幸せは――幸せとは程遠かった。


 ――君を守る。最優先で、君の望む事に、全力になろうと思う。


 一歳年下の男は、結婚式の前にそういった。


 今時、珍しい和装の神前式。


 新居は紀子の実家に程近い3LDK――リビングダイニング、共用スペースと寝室と、――の賃貸マンション。


 順調だった。


 順調に行う努力をした。姓が変わり、煩雑はんざつな手続きに追われつつ、変わりすぎる環境に適応しつつ、独身時代からの友達との旅行を両立させた。自室とはいえ、慣れないベッドでは熟睡できない夜が多かった。


 しかし夫の事を思い出すと、



 ――さみしがり屋というけど、ストーカー気質だった。



 そんな印象しかなかった。突然、妙な事を始めてしまう男だった。紀子のSNSのアカウントを探し始めたりする割には、新婚旅行先の事を何も調べず、穴の多い計画しか立てられなかった。


 ――そんな奴が壁一枚、向こうで寝ていると思ったら、眠れないのも当然だ。


 結婚式を挙げて一週間後、一通のメールを送った。


 ――他人が壁一枚、向こうで寝てると思ったら気が休まらないので、旅行まで実家に帰って養生しておきます。


 当然の事だと思った。


 互いがストレスを溜める状況なのだから、ゆっくりできる空間と時間を確保する事が適切な関係を保つ秘訣だ、と。


 しかし夫は破裂した。


 ――ストーカー気質爆裂。


 それを思い出し、紀子はそう断じる。


 楽しみだったはずの中央アジアから南欧へ渡る新婚旅行は、行かない方がマシというレベルで台無し。


 何の下調べもしていない夫は、バスの中で寝てばかり。何の話をしたのか、もう覚えていない。


 成田に戻って数日後、夫が持ってきたのはグリーンの書類。



 離婚届だった。



 そこからは――あまり覚えていない。


 ――重要じゃないでしょ。


 紀子はそう思っている。しがない自営業者の夫から逃れた紀子は世話人になった、という事実だけで十分だ。


 百識であり、それも傍流ぼうりゅうとはいえ風家土師派の紀子が舞台で賭けるのは、ただ一つ、道徳だけだ。命は、賭ける程の相手と出会った事はない。六家二十三派同士は戦わないのが不文律とされている。それを態々、組む相手はいない。


 ――それでいうと、この結果は笑うに笑えない。


 聡子とともの戦いを見て、フッと笑う。


 山家さんけ本筈派もとはずは海家かいけ涼月派すずきはの直接対決は、その不文律を破る事となった。


 結果ははじめを蘇らせた聡子の勝利で終わり、ルゥウシェやアヤの敗北で失墜していた六家二十三派の権威は回復した。聡子が蘇らせ、百識にした基が持っていた戦闘力は、正しく六家二十三派の力だ、と世間は納得したのだから。


 ――海家涼月派はいい面の皮だろうが、ね。


 格が一番、下になったと言っても過言ではない、と紀子は見ている。


 そんなところで腕時計に目をやれば、約束の時間がそろそろだ。


「いらっしゃいませ」


 オープンスタイルのシアトル系カフェだが、店員の声はよく聞こえる。


「カフェモカ。トールサイズ」


 注文する声の主は、紀子の待ち人だ。



 世話人・小川おがわ慎治しんじ



 コーヒーが出てくるまで待つ小川は、紀子へと「来ましたよ」とでもいうように手を上げた。


 ややあって渡されたコーヒーを片手に、紀子のテーブルへと小川がやってくる。


「急な呼び出しですね。仕事から抜け出すのに、手間取りましたよ」


 開口一番、小川の言葉は嫌味めいていた。そんなものだろう。世話人でもある紀子は、舞台に上がるのに誰かの手を必要としない。小川の顧客になり得ないのだから。


「それはすみません」


 紀子も嫌味で返したが、嫌味の言い合いをしに来た訳ではない。


 そして回りくどいしゃべり方も嫌いだ。紀子の別れた夫は、口が六つあるからムクチというタイプで、何のかんのと遠回しで話し、脱線させる癖があった。


 ――思い出すだけでも反吐ヘドが出る。


 だから紀子は単刀直入にいう。


「小川さんの持ってる情報が欲しいんです。六家二十三派を倒した新家で、誰か致命的な欠点を抱え込んだ百識がいるっていう情報が」


 孝介の事だ。小川がぼやかして流している情報に、紀子が引っかかったのだ。


「……」


 カフェモカを一口、飲みながら、小川は「何故?」と首を傾げる事で伝えた。



 何故――知っている理由ではなく、小川がそれをしなければならない理由を訊ねている。



 小川にとって世話人の仕事は金ではなく、承認欲求を満足させるためのもの。


 小川が開示するのは、それを満足させる情報がある時だけだ。


「交換できそうな情報があります」


 それを紀子は持っている。


「世話人の安土さんに関する事です」


 この場合、それだけでは済まない。



「本筈聡子の事でもあります」



 この情報の価値は、小川に煮え湯を飲ませた相手に有効なものだからだ。


「……話、聞かせて下さい」


 カップから口を離した小川は、気持ちだけ身を乗り出していた。

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